ハルが凛に負けた。負けたことっというよりも、ハルの表情が変わっていったことが気掛かりで、そのことが目に焼き付いて、無意識に足が動いていた――
「おっと!」
「ごめんなさい……」
「え?おい、樹?」
観客席のゲート出口、近くの階段を下りようと思えば、男の人とぶつかってしまう。視界の中にアロハシャツが入ったことと、聞き慣れた声に笹部コーチだと気付くが樹には足を止めることは出来なかった。
施設内の廊下を走れば、選手控室が見えてくる。角を曲がれば、シャワールーム。泳ぎ切った選手が向かうとしたら、きっとここだ。
だが、曲がり切ったところで誰かに腕を掴まれてしまう――
「――なんで、ここにお前がいるんだ」
「凛!? ハルは!」
「は?」
遙の名前を聞いた瞬間、凛は腕を掴んでいる手の力を強めてしまう。
「だから、ハルの側に行きたいの」
「お前が、アイツの側にいってどうするんだ」
「わかんない!だけど、ハルの様子がおかしかったから」
「なんで、お前はいつもいつもアイツなんだよ!今、樹の目にいるのは俺だろ……ンでだよ」
「離して!――――凛、痛いっ!!」
腕を掴まれたまま、壁へ押さえこまれてしまう。首に顔を埋められ、小さな痛みと同時にザラッとした舌の生温かい感触が肌に伝わり、心臓が大きく跳ねた。
「もう、俺はアイツと泳がなくて済むんだ俺はやっと……」
「なんで!なんで、……まさか、ハルに言ったの」
ひと言、ああと聞こえた。体を捩るように、凛の手を振り解けば、彼は目の前で舌打ちをして顔を歪ませた。視界の端に凛の手が映る。壁へダンと勢いよく手をつかれ、思わず樹の肩が飛び跳ねた。
「俺はお前のことが――――」
「凛は、……凛は一緒に泳いだリレーの、あのときのことを忘れちゃったの」
顔を逸らしたまま 樹がポツリと呟けば、視界に映っていた凛の腕が消えた。
「行けよ…、今のお前に伝えても 意味がねえ。俺がシャワールームを使ったときは誰もいなかったから、居るとしたらそこだろ」
凛は告げると同時に、背を向けてその場をあとにするが樹は壁へ凭れるようにそのまま ズルズルと座り込んだ。座り込めば頬に涙が伝う。目に涙が溜まっていたのだった。
「……何て、言えばいいの」
“側にいってどうする”凛の言葉が頭の中で響いていた。泳がなくて済むと言われたハルへ、何て声を掛ければいいのか 分からなくなってしまう。
「――――樹ちゃん?」
上から降ってくる声に顔を上げれば、肩で息をする真琴がいた。
「っ!?………樹ちゃん、誰かに何かされたの」
心配してくる真琴に、樹は首を何回も横へ振った。何もないと。
「ハルに、何て声を掛ければいいのかわからなくなっちゃって」
「…戻ろう。みんな心配してるよ。それに、ハルはそう弱くないの 樹ちゃんも知ってるだろ。だから、信じて俺と待ってよう」
「真琴………」
差しだされる手に、手を乗せればそっと握られた。不安でいっぱいだった胸の内が、少しだけ 真琴の温かさで晴れていく。
「イツキちゃん!いきなり いなくなっちゃうから吃驚したよ」
「ごめんね、渚」
「ハルちゃんに、会いに行ったの?」
渚の言葉に首を横に振って、真琴と一緒に席へ座った。プール内では、プログラム通りに予選が行われていくがぼんやりと目で追うだけだった。
席へと戻ったが、一向に遙が戻ってくる気配は無かった。時計を気にする怜が、遙が戻ってこないことを口にし「見てきます」と声を上げる。待てと言っても止まらない怜を、真琴も渚も追いかけるように席に立った。
「朝日奈さんは、大丈夫?七瀬くんとは幼馴染みなんでしょ」
「信じて待ってようって言われたんです………だから、私は待ちます。ひとりじゃないんで」
追いかける三人に目をやった樹に、天方先生は声を掛けるが大丈夫だと答える。真琴が言ってくれた言葉を思い出していた。一緒に待ってようと言ってくれたことで、遙を待つことを決めたのだ。
「そうね。松岡さんも落ち込まないで、そういう世界なのよ」
「違うんです。私、見たかったんです。お兄ちゃんと遙先輩が一緒に泳ぐところ……でも、何か違う気がして」
江の言葉に、樹も同じようなことを感じていた。
“言葉で言い表せない”真琴と渚は、怜を追いかけた廊下で凛と会っていた。遙が戻ってこないことに、凛は俺に負けてショックだったんだなと言うが、怜は勝ち負けじゃない 何か別の理由があったんじゃないかと口にする。
「あぁ?水泳に勝ち負け以外に何があるんだ」
「あるよ。少なくともハルはあると思ってた、だから凛との勝負に挑んだ。でも、それを最初に教えてくれたのは 凛、お前だろ」
見たことのない景色を見せるといって、教えてくれたのは凛だ。凛がやろうと言った、リレーだ。
「樹と、同じことを………」
「樹ちゃんと同じって、凛ひょっとして」
座り込んでいた樹は、凛に会ったんだと確信する。込み上げる何かを止めるように、真琴は自分の拳を力強く握った。
「……いや、ともかく小学校のときの あのリレー、あのときのお前――」
「知るかよっっ!!」
通り過ぎていく凛に、きっと渚と怜が側にいなければ真琴は、自分を抑えてはいられなかっただろう。あの時、何もないと告げた樹の頬に泣いたあとと、首筋にあるものを見つけてしまったのだから。
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