―― それは昔のこと。
樹に、重力を感じず上を見る方法を教えてくれたのは遙だったが、背泳ぎ、つまりバックを教えてくれたのは真琴だった。
いつも樹の隣を二人が泳いでいた。そして、気付いたら誰もいなくなっていた。

注目を浴びるのを嫌う遙は、大体同じ場所で泳いでいた。いつ戻ってきてもいいように、樹はそのレーンで泳いでいた。
事故があったあの時も、樹は そのレーンでバックを泳いでいたのだ。

バックでの呼吸は、息を吐けば体が力むと同時に水の中へと沈む。息を吸えば肺に空気が入り、体は水面へと浮きやすくなる。
手を上げた状態から、水を押し出すように真横に腕を下ろし息を吐こうとした瞬間、時間が止まった様に感じた。


誰かが私の名前を叫んでいて、危ないという言葉が嫌にはっきりと聞こえた。それは一瞬のことだった。青かった目の前が黒に変わった―――


「…っ、ここまでが限界か……」


フラッシュバックするように、事故の出来事が脳裏を掠める。スタート台に一度 手を触れて、震える足を抱え込むように、樹はプールサイドへと座り込んだ。
遙や真琴がいれば、楽しい気持ちが勝って思い出すことはないが、一人だとやはり思い出してしまう。
だが、逃げないで向きあうと決めた樹は、誰よりも一番乗りにプールに来て、水への距離を縮めるように、一歩一歩近づく練習を行なっていた。

「よっし、今日はここまで。――そろそろ皆が来てもいいんだけどなぁー?」

大きく息を吸って吐いてを繰り返して、頭を切り替える。そろそろ、部活を始めるためにプールサイドに顔を出してもいいのに誰も現れないのを不思議に思い、樹は更衣室へと足を向けた。

「あれ、何してんの?」
「あ!?樹ちゃん、今日も先に来てたんだね」
「うん、まあね!」

カーテンが掛かった窓を少し開けて中を覗けば、江が袴姿で赤いたすきを掛けて半紙と向きあい、一筆たしなめていた。
江が書いたのは“県大会まで48日まで!”の文字。周りには何枚もの、日にちは違うが同じ内容のものが沢山あった。渚が江に、またやるの?と質問をし、書き終えた江が筆を置き答える。

「プレッシャーが人を次のステージへ成長させるんです」
「プレッシャーで押し潰れるやつもいる」
「それってレイちゃんのこと?って、あれ!?イツキちゃん、ひょっとしてそれ!」

渚が、窓から顔を覗かせていた樹のジャージが学校指定の緑色ではないことに気付き指をさす。

「えへっ。今日届いたんだよ!思わず着ちゃいました。皆の分はプールサイドに置いてあるよー!」
「イツキちゃん、なんでプールサイドに?」
「だって、太陽の下でお披露目した方が良いと思って」
「なるほど!ほら、三人とも急ごうよ―!」

鍵を取りに行った際に、樹は天方先生から一緒に貰い受けた。水泳部用のジャージ一式とTシャツを天方先生宛てに届くようにしていたのだ。
段ボールを貰い受けて、我慢できず 先に着させてもらっていたっということだ。
そんなやり取りのなか、動こうとしない遙や弱い人間じゃないと叫ぶ怜たちに向かって江は、練習へとっとと行く!と声を上げて更衣室から送り出した。

「樹、意外に似合うんだな」
「ふふんっ!まあね。ハル、早く行かないとまた江に怒られるよ」

ドアの側に寄り掛かる樹へと、声を掛けた遙の口角が少し上がる。分かってると一言告げて、先に行った渚たちを追う様に小走りでプールサイドへと向かった。

「うわぁああ!!」

いきなり江の叫ぶ声がして、更衣室の中へと目を向ければ、風が吹いてしまった勢いで書いた半紙が散らばってしまっていた。


「めんどくさいなぁ、もう」

「江、手伝うよ?」

「あ!樹先輩、ありがとうございます」


散らばってしまった半紙を拾い上げるため、樹は駆け寄って数枚渡せば、江の手が止まってしまう。半紙に目を落としたまま、江はポツリと口にした。

「あの、ずっと気になっていることが……樹先輩は、どうして泳がないんですか?」
「…あぁ、やっぱり気になるよね。んーっとね、泳がないっていうか、泳げないんだ。多分、泳げるとは思うんだけど」
「それってどういう……」
「正確にはプールの水が怖いっていうのかな。事故がね、あってね……」

中2の夏の前に起こったことを簡単に説明すれば、江は言葉を詰まらせてしまう。樹のことを知らなかったとはいえ、水泳部に誘ってしまったのは自分であるからこそ、江は何も言えなかった。
樹は落ち込む江に、遙や真琴たち、皆と一緒に居るときは平気であることを伝え、そう気にするものでもないよと口にする。

「それにさ、江がいなかったら向き合う機会が無かったかも知れないんだよ」

江が一緒に入りますと言っていなかったら、水泳部に入っていたかは正直分からない。誘われれば入っていたかもしれないが、言われてなかったのが事実。
きっとプールの水へと向きあう機会は私にはなかった。だから、江には感謝しかない。

「!っ……樹先輩、特訓しましょう!特訓ですよ!」
「江?特訓って………」

水はけマットに挟まった古びたしおりを発見した江は、目を見開き樹へと差し出す。そこには“岩鳶高等学校水泳部 地獄の夏合宿in無人島”と書かれている。

「いや、江…さすがにそれは私にはまだ早い気が…それに、それって大会に向けての合宿だと思うよ?どちらかと言えば、ハルたち向きだと思うんだけど……」
「そ、そうですよね!でも、樹先輩も特訓のチャンスですよ!とにかく、遙先輩たちに言いに行きましょう!」
「江でも、それは――!」

先に走り出してしまった江の背中を見て、樹は溜め息をひとつ漏らした。江は先ほど見つけたしおりを、今度はプールサイドにいる四人に凄いものを見つけちゃいましたと言い、見せ付けるように差し出した。

「岩鳶高校水泳部、地獄の夏合宿in無人島?」

真琴がしおりに書かれている文字を読めば、怜が地獄と口にし、物珍しそうな顔で遙が無人島と呟き、楽しそうと渚が目を輝かせる。

「そのしおり、江が更衣室で見つけたんだよ」

あとから来た樹が口にすれば、江が説明を続ける。
何十年も前、まだ岩鳶に水泳部があった時代のものだが、それに乗っ取って私たちも夏合宿をしようと告げた。太陽に指を差し出して、江は気合いを入れる。

「県大会に向けて」

「めんどくさい」

「とか、言ってる場合じゃありません!見てくださいこの特訓メニュー!」

プールサイドに座り込んでいる遙に、江は声を上げた。
しおりの中のページを開いて、海での遠泳特訓を行なうことを説明する。無人島から無人島へとひたすら泳ぐ。持久力をつけるには最適な訓練だと思いませんか?と口にして。

「待って!江、海じゃなくても!」
「ダメです!樹先輩も海なら出来るかも知れないじゃないですか!」
「違う、そういうことじゃなくて……」

乗り気になっている話を、遮らないように小声で江へと話しかければ、樹は押し切られてしまう。
嘗ての栄光の水泳部のように、合宿を敢行しましょうという意気込みは止められない。海という言葉に、真琴の顔色が変わったことに江や渚、怜は気付いてはいなかった。

「とにかく、今の岩鳶水泳部に必要なものは持久力です!そして夏といえば、合宿です!海です!無人島です!」
「いやぁ、そもそも無人島は関係ないいでしょうが」
「でも、なんか、ドキドキするよね。無人島っていう響き」
「でしょーう!!だから、行きましょう!合宿。部長、決断を」
「えっ、…まあ、いいんじゃないかな。県大会に向けて強化合宿っていうのは」

樹はプールサイドの手摺に寄り掛かっていた。言いたかった言葉を飲み込んで。
そして遙は、プールの水にずっと手をつけながら、真琴の様子を気にしながら事の成り行きを見守っていた。



“夏といえば合宿”



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