イレブンへの調査報告書をパソコンから送信したところで、図書室のドアが静かに開いた。
「旭、いるかしら?」
「おばあちゃん、お帰りなさい。遅かったね」
時間は午後九時を過ぎていた。
「来客が長引いてしまったのよ」
「お疲れ様。ごはん食べるよね? おでんだからすぐに用意できるよ」
「いただくわ。でもその前にお話があります」
旭は立ち上がりかけた椅子にまた腰を下ろした。
「今日の仕事、まずかった? 勝手に処理してごめんなさい。でもイレブンに連絡する時間もなくて、携帯も濡れて壊れちゃってて」
「いいえ。仕事のことではありません。栞子さんのことよ」
祖母の口から栞子の名を聞いて、旭はとくんと心音が高まるのを感じた。
「今日、栞子さんのお父様が正式に申し込みをしてきたわ」
ソファの上で人の姿で本を読んでいた焔がガバっと起き上がる。
「その場で断ったんだろうな」
「いいえ、まだよ」
「なんでだよ。あっちは乙葉の力が欲しいだけだ」
「大人の思惑はどうでもいいのよ。問題は二人がすでに知り合いだということ。焔、あなたの今日の報告に『旭は栞子にほの字』とあったわ」
「ばあちゃん! ばらすなよ!」
「いまどき、ほの字とか言うっ!?」
「そこかよ、ツッコムところは!」
日向はスマホを取り出すと旭の前に画面を掲げた。
今、中学生や高校生に人気のSNSアプリに、焔からの報告が延々続いていた。まるで旭の生活の実況中継だ。
「これって……SNS? おばあちゃん、焔とこんなことしてたの? しかも、栞子さんと一緒の写真まで撮ってる! いつのまにっ!?」
結界がなくなった後の公園で撮られたものだった。
写真の中で旭が笑っていた。その顔を栞子が大きな瞳で見つめている。
あの時だ。
『つまり襲ってくるには理由があったってことですわね』
初対面では何の前触れもなくあやかしを攻撃していた栞子が、あやかしの方にも行動する理由があることに気づいてくれた。
旭にはそれが、ひどく嬉しかったのだ。
あやかしの心を伝えるのは難しい。
妖怪退治屋としてあやかしを敵と見做してきた者たちに、あやかしを理解しろといくら唱えたところで、伝わるはずもない。
けれど栞子は、旭の言葉に耳を傾けてくれた。
まっすぐな素直な心で、受け止めてくれた。
ありがとう、という言葉さえ発してしまいそうだった。
そんな瞬間を、焔のカメラは捉えていた。
旭の頬がかっと紅く染まる。
「家同士の問題は考えなくていいわ。単刀直入に訊きます。旭、あなたは栞子さんと婚約したいですか?」
祖母の問いは唐突であったが、旭の中で一つの答えが出ていた。
いきなり婚約しろと言われても、そのような覚悟などできない。けれど、栞子と出会えたことまで消してしまうのがとても残念だった。
それは、栞子が初めて出会った同年代の仲間だからだ。
同じ力を持ち、同じものを見て、同じ話ができる友人。
それは、これまでの旭にないものだった。
そういう存在が最初からいないから、欲しいと感じたこともなかった。けれど栞子との出会いによって、いつのまにか近しい者との居心地の良さを感じ、それを求めていた自分に気づいた。
もう少し、話をしてみたい。
もう少しだけ、近づいてみたい。
胸に溢れる想いを、栞子のようにまっすぐに伝えてみることはできるだろうか。
旭は祖母の顔を見あげた。
ゆっくりと呼吸を一つ。
旭は口を開いた。
「婚約とか……結婚とか……そんな確かな約束ができるほど、僕はまだ大人じゃないから。おばあちゃんの質問の答えはノー。だけど、栞子さんのことをもっと知りたいと思っている。友だちになりたい」
拙い言葉だったけれど、心からの想いを紡いだ。
日向はふっと目を細めて旭を見つめた後、焔へと視線を送る。
「そのようにあちらにも伝えます。いいですね、焔」
何故か、焔に同意を求める。
「旭がいいならそれでいいけど」
焔はしぶしぶといった口ぶりだ。
前から過保護すぎると思っていた旭だったが、旭が本当に誰かと結婚するときにはこの白狐はどうするのだろうと、少し心配になった。
「あ、それからこれを」
祖母は手にしていた封筒を旭に渡した。
「栞子さんからだそうです」
旭が封筒を開けると、中にはサイトや写真を印刷した数枚の紙が入っていた。
一枚目に留めてあった大きな蝶の絵が描かれた便せんを読む。
『三日月の模様を持つ鯉のいる池を見つけました。京都のS寺にある百入茶池です。年が明けたら行って見てきます。また報告します。栞子』
「栞子さん……もう調べてくれたんだ」
「妖怪は敵って言って、いきなりおれを撃った女だぞ? ほんとに友達になりたいのか?」
「すべての妖怪が敵じゃないって、伝えたいんだ」
旭は、便せんに描かれた蝶の絵に栞子の姿を重ねた。
栞子はわかってくれた。
だから、いつかきっと伝えられるだろう。
妖怪退治は、闘うだけじゃないということも。
「まあがんばれよ」
「では着替えてくるわね」
「ぼく、おでん、温めてくるよ」
旭は栞子のメモとコピー用紙を机の上に置いた。
旭と日向が部屋を出ると、焔は電光石火のごとく起き上がり、栞子のメモをひっくり返した。そこには小さな文字が隠れるように並んでいる。
さっき旭がメモを読んだときに、ソファに寝転がっている焔の位置から、メモの裏側にも何か書かれているのが見えたのだ。
『一つ、誤解を解いておきます。乙葉なら誰でもいいのかと聞かれたとき、ちゃんと答えられたなかったけれど、それは誤解です。私は小さい時から、あなたのことを祖母から聞かされて知っていました。乙葉旭、あなただから会ってみたかったのです』
「旭がこれに気づくのは、来年かもな。まあ、がんばれよ、お嬢様。応援なんかしねえけどな!」
焔が一人、図書室で笑い転げているころ、何も知らない旭は祖母のためにおでんを温めていた。
乙葉家におでんの汁の優しい匂いが満ちていた。
(了)