人を好きになったのも人を愛したのも彼が初めてだった。

「ごめんなさい」

心から恋して心から愛して、そして心から幸せを感じたのも、全部全部彼が初めてで、そして、心から人を信じられなくなるのも、彼が初めてだった。

「……何が、ごめんなさいなの?」

仕事机に腰掛けたまま、臨也さんはパソコンから視線をそらさない。その口調にこそ微かな興味は含まれていたけれど、彼の瞳が僕を映すことは無かった。分かっていたことだ、いや、分からないことだ。自分の気持ちさえも彼の気持ちさえも、何一つ、僕には分からなくなってしまった。

「別れ、たいんです」

ありったけの勇気で絞り出した声は意外としっかりと部屋に響いて、自分でもびっくりした。臨也さんがキーボードをタイプしていた音が止まる。パソコンの影になっていて、表情は窺えない。これで少しでも彼が動揺してくれたり、悲しんでくれたりしたら、僕はまだ、この時引き返せたのかもしれないのに。

「……理由は、」
「え、?」
「理由だよ。急にそんなこと言い出すからには、何か理由があるんだろ?」

残念ながら、臨也さんの口調からは何の感情も読み取ることができなくて、僕は盛大に、こっそりとショックを受けた。やっぱり、彼にとって、僕という存在はその程度なのだという諦めが、心の中で強くなる。

「その……引っ越すことに、なったんです。家族で、外国に」
「……遠距離恋愛なんて、いまどき珍しいことでもないと思うけどな。何、離れ離れになるのが耐え切れないの?」

少しだけ揶揄を含んだ彼の声音は常通りで、僕はぎゅうっと手のひらを握り締める。僕はまじめな話をしているのに、臨也さんはまるで茶化すようだ。子供の発想とか稚拙さとか、そういうのを馬鹿にしている。僕にはそう見えた。

「……ごめんなさい、臨也さんのこと、嫌いになったわけじゃ、ないんです」
「じゃあなんで」

この時、追求する臨也さんの声に本当に微かながらの苛立ちが含まれていたことを、僕が気づけていたならば。それに気づいて、臨也さんの本心に真っ向から立ち向かうことをしていたら、結末は変わっていたのだと思う。けれど生憎ながら、人の顔色を窺う術に長けていない僕には、そんな芸当不可能だったのだ。

「もう、信じられないんです、臨也さんのこと……」
「、……」
「貴方が僕を好きだと言ってくれたその言葉は、うれしかったです。でも、時間がたつにつれて、分からなくなりました。人が好きだって、人間が好きだっていう臨也さんのその気持ちと、僕に向ける気持ち、それが一体、どう違うのかが」
「みか、」
「臨也さんは、僕よりも大人で、情報屋で、僕なんかが想像もつかない、手の届かないところに、いる……僕みたいな子供が隣にいるなんて、不釣合いです。それに……置いていかれることに、僕が耐えられない」

この時僕はもう、臨也さんの顔を見ていなかった。下を向いて俯いて、ただ自分の気持ちを吐露していた。昂ぶった感情を鎮めるように息を吐いて、少しだけ顔を上げる。

知らなかった。恋をすること、そして愛することというのは、人をこんなにも弱くさせる。相手のことが好きだと思えば思うほど、相手の心が見えなくなって、不安になる。相手の言葉すら信じられなくなって、自分の中の好きという気持ちだけが肥大化していくこの感覚は、酷く、苦しい。
彼が、臨也さんが普通の一般人と呼べる人ではないのも、一つの要因だったように思う。そして、僕よりも年上で、大人だったことも、僕の疑心暗鬼に拍車をかけた。僕は、彼に弄ばれているだけではないのか、とか。僕と付き合っているのは人間観察の一環なんじゃないのか、とか。

付き合っている間、大事にはされていたと思う。けれど、それが彼の本心なのだろうか。ただの作った笑みを貼り付けて、見かけだけの優しさを与えていただけではないのだろうか。僕には真実を見抜ける力なんてなかったから、分からない。分からないけれど、臨也さんにはっきりと尋ねる勇気も持てなくて、そんな問いかけをした時点でうざったいと思われるのも嫌で、こんな結論を出すことしか、できなかったのだ。

「僕の一方的な我侭なんです、ごめんなさい。でも、こんな、こんな僕が臨也さんの傍にいても、きっと荷物にしかならないと思うから……だから、これ以上、臨也さんに迷惑、かけたくないから……」

これ以上は不味い。緩みかけた涙腺を慌てて引き締めて、僕はポケットからこの部屋の鍵を取り出した。それをテーブルの上に置いて、一礼する。

「……今まで、ありがとうございました」

踵を返した僕の背後から、特に誰かが動く気配は無かった。ここでもし臨也さんが追いかけてきてくれたら、僕はまだ彼のことを信じていられただろうか。追いかけてきてくれて、そして、僕を引き止めるためにみっともない姿を晒してくれたりしたら、きっと僕はあっさりと彼の傍に戻ったことだろう。

けれど彼がそんなことをするはずがないのも、知っている。彼は折原臨也だ。そんな些末事で、一々取り乱したりはしない。彼の中には不動の優先順位というものが出来上がっていて、そして、僕の存在がどうしたってその一番にくるはずがないのだから。

きっと、彼は追いかけてこない。そうして終わりだ、僕らの関係は。これでよかったんだ。こんな弱虫な心を抱えた僕が傍にいたとして、彼にいいことなんてありはしないんだから。
たとえ臨也さんが僕を本気で好きでいてくれたとしても、彼のデメリットになるようなこは、したくない。


結局、彼は追いかけてこなかった。それに落胆した自分と、安心した自分がいる。
このまま顔を合わせずに、後はこの国を旅立つだけ。それでいいんだ。これで、よかったんだ。




正臣や園原さんたちの盛大な見送りを受けて、僕は改札を潜った。キャリーを引きずりながら、もう一度だけ僕は振り返って、みんなに手を振る。見送りに来てくれた人たちの中に、当然あの人の姿はない。未だに彼が追いかけてきてくれることを夢見ている自分が、本気で嫌になった。

空港までは新幹線を使っての移動だ。間もなく発車の時刻になる。両親とは、空港で落ち合う予定だった。切符代をケチって指定席券にしなかったから、急がないと座席は埋まってしまうだろう。けれど、中々急ぐ気にもなれなかった。
この街から離れることに、いまさらながら寂しさが募ってきた。ネットは海外に行っても繋ぐつもりだし、ダラーズのサイトの管理だって、出来なくは無い。けれど、それでも、出来ることならこの街で、みんなと一緒に、ずっといたかった。

(……行かなきゃ)

ホーム内に発車を知らせるアナウンスが鳴り響く。重く感じるキャリーを引きずって、慌てて新幹線に飛び乗った。

ドアが、閉まる。




「あ、れ、……?」

飛び乗ろうとした新幹線は、目の前で、発車してしまった。あっという間にホームから見えなくなる新幹線。

僕は飛び乗れなかった。

キャリーを引きずる左腕を、思いっきり後ろから掴まれたから。

(な、んで、)

「君は、ずっとそうだったよね。最初から、俺のことは信じてくれてなかった。俺さあ、これでも俺なりに君の事大事にしてきたんだよ?君に、俺が君の事本当に好きだって信じさせたくて、毎日必死だったんだよ」

すぐ後ろから聞こえてくる声は震えていた。今までに聞いたことの無い、悲壮に満ちた声音だった。声は確かに彼のものなのに、彼じゃない誰かが喋っているかのように、彼らしくない、声。

「俺だって、自分が人に信じてもらえるような人徳持ってるなんて思っても無いよ。でも、君は特別なんだ。初めてだったんだよ、こんなに好きになったの。だから命いっぱい優しくしたつもりだった、大事にしたつもりだった。それでも君は、信じてくれないんだね」

左手を掴む力が強くなった。僕は耐え切れなくて、キャリーを手放す。怖くて振り返ることも出来ない。そっと視線を下げると、僕の手を掴む彼の手は、震えていた。力が入りすぎて、指が真っ白になっているのに、愕然とする。

(だって、こんな臨也さん、僕は知らない)

知らない、知らない。見たこともない、聞いたこともない。
こんな必死な臨也さん、僕は知らない。


「事務所も、閉めてきた」
「……え、」
「歳の差は、どうにもならないけど……情報屋の俺が信じられないんなら、そんな肩書き捨てる、人間を愛する俺が信じられないなら、そんなものも切り捨てる。だからさあ、別れる、とか、言うなよっ……これ以上、どうすれば、君は俺のこと……信じるんだよっ!」

彼の中には不動の優先順位があるはずだった。その一番に、僕という存在は入り込む隙も、ないはずだった。

(嘘だ、嘘だ嘘だ、臨也さんが、僕のこと、)

あってはならない、あるはずがない。あの折原臨也が、全てを投げ打ってまで、僕を取り戻そうとするなんて。僕を選ぶなんて。

(あるはず、ない)

ホーム内に人は溢れている。その喧騒が、どこか遠かった。僕はゆっくりと、後ろを振り返る。言葉だけでは、声だけでは、まだ信じられなかった。だって相手は折原臨也だ、そう簡単に信じられるなら、そもそも僕はあの日、別れ話なんて持ちかけなかった。

けど。

「……なんて顔、してるんですか」

大人のくせに、呟きながら、僕も自分の顔が酷く歪んでいくのを感じていた。
うれしかった。どうしようもなくうれしかった。言葉だけじゃない、声だけじゃない。臨也さんも、僕のために、こんな顔をしてくれるんだって分かって、うれしかった。

「みっとも、ない、ですよ、そんな顔……」
「……君が、そうさせたんだろ」

人の目も、喧騒も、気にならない。
僕はようやく、欲しかった物を手に入れた気がした。




涙すら浮かべた、情けない顔の彼。
僕が欲しかった彼の本心は、それだけで、充分だった。










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