月が綺麗な夜だった。今日はちょっと奮発して高めのコンビニ弁当を買ってみた金曜日の深夜、日付も変わるだろう頃。明日は天気が良かったら布団を干そうかなあなんて考えて家路を歩いている最中、唐突に体を横から引っ張られた。
時間も時間だしもしかして通り魔か、なんて想像し身を強張らせた僕の背筋は瞬く間に冷えていき、たすけてくださいと反射的に叫ぼうとしたが口を押さえられてしまう。そのまま一瞬にして路地の中に引きずり込まれ、殺されるかもしれない恐怖にパニックを起こしかけたのだが。

「……ごめん、落ち着いて帝人君」

背後から僕の体と口元を押さえている人物が囁いた声に聴き覚えがあって、おそるおそる抵抗を止める。僕が暴れるのを止めたからか、背後の人物は僕の口を押さえていた手を外してくれた。

「臨、也、さん?」
「うん、そう。ごめんね、驚かせて」

怖かった?と振り向いた先にいた秀麗な顔の青年は困った様に苦笑して僕の目元を拭っていく。恐怖のあまり涙を浮かべていた事にようやく気付いて、微かに恥ずかしくなる。高校生にもなって泣くなんて、みっともない。

「あの……どうしたんですか?」

解放された体をくるりと回転させ改めて彼に向き直る。正直まだちょっと心臓がばくばく言っているけどそれには気付かない振りをして臨也さんを見上げた。見上げて、ぎょっとする。そういえば前にも月の綺麗な夜に臨也さんに出会った時の事を思い出して、デジャヴを感じた。

「臨也さん、怪我、してますよね?」
「うん、ちょっとね。ああでも安心して、もう匿って、なんて言わないから」

臨也さんもその時の事を思い出したのだろう、茶化す様に血の滲んだ口の端を持ち上げる。けれど僕はそれに笑みを返せる余裕はない。なんたって、臨也さんは先にも言ったように怪我をしているらしいのだから。唇の端に滲んだ血と、擦り切れた上着が何よりの証拠だ。

「気にしなくていいよ、前ほど酷くは無いし」
「あの、でも、」
「それより今日は君に頼みって言うかお願いがあって来たんだ」
「え?」

っていうかもう君の意志を聞くつもりはないから、誘拐?になっちゃうかもしれないけど。なんて物騒な事を酷く爽やかに笑いながら告げるものだから、僕はその言葉の意味を吟味するよりも先に、ああそのくらい笑えるなら怪我は本当に大した事無いんだなと、何故か安心してしまう。思考が大分的外れな事には、後になって気付いた。

「俺の家に来てくんない?」

今すぐに、必要なものもあるだろうから一度君の家には行くけど一週間くらいはいてもらうつもりだからそのつもりで準備してね。早口に告げられた言葉の意味もやはりすぐには理解できず、僕はただ「え?」と返す事しかできなかった。




「恥ずかしい話、って程でもないけどさ。これまた厄介な仕事でちょっと飛び火食らっちゃってね」

俺はただの情報屋で仲介人だから直接の関係は無いのにさあ、これだから直情型の人間は相手にしてて疲れるよ、観察する分には楽しいんだけど。
あれよあれよという間にタクシーに乗せられ連れて来られた臨也さんの自宅兼事務所に通された僕は、突然の状況の変化についていけずにただ右から左へと臨也さんの言葉を流していた。正直に言うと、混乱していたのだ。

あれから一度だけ僕の家に寄った臨也さんは外泊の準備をするよう僕に促し、最低限の着替えと荷物を持たせ戸締りもしっかりとさせ、そして僕を連れ出した。その間しきりに外の方を気にしたり周囲に気を配っていた事から察するに、以前と同じように危ない何かに追われているのかもしれなかったけれど、それをその場で尋ねる事は出来なかった。ただ促されるまま、引っ張られるままついてきたら臨也さんの自宅だ。唐突に変化してしまった僕の日常は、あっという間に非日常へと変貌してしまう。

「まあとにかく池袋はちょっと危ないから、暫くここにいてもらうよ」
「……えっと、それって僕が危ないって事ですか?」
「うん、そうだよ」
「僕、何か危ないことした覚えないんですけど……」

着替えの入った大きめのバッグを抱えながら、おずおずとデスクチェアに座る臨也さんを見返す。立ってないで座っていいよと傍のソファを勧められたから大人しく腰を下ろすと、臨也さんはうーんと小さく唸り声をあげた。

「君は何もしてないよ、それは確かだ。でも向こうはそう思ってくれないみたいでね」
「はあ……」
「ま、とりあえずここにいれば安全だから」

だからごめんね、そう笑う臨也さんの意味の分からない言葉よりも、僕はその顔を汚す血の方が気になった。

「……あの、」
「なに?」
「手当て、した方がいいと思います」

それ、出血している口の端を指さしながら告げると、臨也さんは一瞬だけ驚愕に目を見開く。前にもこんな顔を見た気がするなあと思い出していると、その表情はすぐに笑みへと移り変わる。

「……相変わらず、お人好しだね」
「そ、ですか?」
「うん。でも君のそういう所、好きだよ」

ふわりと笑ってそんな事をいうから、僕の心臓は一瞬、大きく脈を打つ。びっくりした。あんなに顔の綺麗な人から好き、だなんて言葉を言われると、いくら自分と同性だからといっても意識してしまう。イケメンは本当に得だなあと思いながら、僕はバッグの中から念のためにと持ってきた救急箱を取り出した。

「わざわざ持って来たんだ」

からかうような声は敢えて無視して、とりあえず臨也さんの手当てに取りかかる事にした。




急だったから客用の布団も用意できなくてねえ、申し訳ないけど我慢してくれるかな。手当てをし終え、頃合いになって、臨也さんはそう僕に言った。口調は全然申し訳なさそうには聞こえなかったけど、それもこの人らしいなあと思いながら、けれど示された広くて大きいベッドにちょっとだけ、動揺する。臨也さんの寝室は二階にあり、まあ一人暮らしなのだから当然と言えば当然だけど、ベッドは一つしかなかった。

「俺がソファに寝てもいいんだけど、ちょっと怪我に触れるからさ」
「い、いえ、大丈夫です」

臨也さんを家に匿った時も同じ布団を共有したのだから、今更一緒に寝る程度で動揺すべきではないのかもしれない。けれどやはり、ここは臨也さんの家であって僕の家ではない。自分の家で自分の布団で眠るのと、他人の家で他人のベッドに眠るのとでは、やはり違うのだ。現に、僕の心臓は先程から、緩く鼓動を続けていた。

俺は仕事があるから先に寝てていいよ、と言い残し臨也さんは寝室を出て行った。
もぞもぞとベッドに潜り込む。当然だけど自宅のせんべい布団とは寝心地が全く違う。ふかふかだ。枕やシーツから香る甘いような匂いに、鼓動が速くなる。きっと他人の家で他人の布団に緊張しているだけなんだと自分に言い聞かせて、後から来るだろう臨也さんの分のスペースを空けるように体を隅に寄せた。

(羊が一匹、羊が二匹、羊が……)

変な動悸のせいで、上手く眠気を手繰り寄せる事が出来ない。脳裏に羊の姿を思い描いてみても、それは変わらなかった。

それからどの程度時間がたったのかは分からない。ようやく訪れた眠気とそれでも眠りに落ち切れない中途半端な状態でうつらうつらとしていると、不意に隣で人が身じろぐ気配がした。もぞりと動いてそちらに体を向ければ、いつの間に二階に来ていたのだろう、臨也さんがいる。上半身を起こし背中を壁に預けながら、何をするでもなくぼんやりと窓の方を見つめていた。

「……いざやさん」
「……ああ、ごめん。起こしたかな」
「いえ、寝ては、なかったので」
「そう」

それっきり会話は途切れる。僕はこのまま寝た振りをしてしまえばそれでよかったのだけど、どうしてか、僕は今この時になって、ふと臨也さんの視線の先が気になった。視線の先は窓に向けられているけれど、その先に広がる夜明け間近の夜空を眺めているようには、僕には思えない。じゃあ何を眺めているのだろう。何を、考えているのだろう。

「、あの、」
「……ずっとね、考えてる事があるんだ」

僕の言葉を遮るような臨也さんの声は、まるで独り言のようだった。僕は横になったままじっと、目の前のシーツの皺を見つめる。ただ臨也さんの言葉を聞き逃さないように、耳を澄ませながら。

「君が危ない連中に目を付けられた理由っていうのは、まあ簡単に言うと俺のせいなんだよね」
「え……?」
「どういう経緯でかは知らないけど、君が俺の関係者だってのが連中に知られたみたいでね。まあそれだけならよかったんだけど、何を勘違いしたのか君は俺が懇意にしている子供、って事になったらしくてさ」
「……えっと、つまり、」

僕はまるっきり飛び火を受けたと、そういう事になるんだろうか。

「まあ考え事についてはここからなんだけど」

シーツの皺を見つめながら、僕の脳は段々と覚醒に近づいていく。まだ眠気のせいで頭のに靄がかかったようだったが、それも徐々に消えてきた。

「懇意にしてるかどうかはさておき、君に目をかけてるのは事実だ。けどそれだけなら、それだけ終わるはずだった」

臨也さんの視線がまるで滑る様に動いて、僕へと向けられた。僕は無意識に布団の中から臨也さんの顔を見上げていたようで、唐突にかち合ってしまった視線をそらす事も出来ない。
捕われたと、一瞬思った。

「俺の関係者がどうなろうとも、それで俺に火の粉が飛んでこなければそれでいいんだよね。そういう奴に関しては今までも切り捨ててきたし見捨ててきた。君に関してもそうするべきだったんだけど、」

なんでかなあ、呟いた臨也さんの表情を見て、僕は一瞬本気で息が詰まった。
臨也さんは、笑っていたのだ。

「君が危ない目に遭うってのを想像しただけで、君の事を誘拐してきちゃったんだ」

いつもの人を馬鹿にしたような、嫌な笑顔じゃない。確かに、微かだけど、優しい感じの笑み。普通に、それこそ人が嬉しかったり楽しかったり微笑ましかったりすると自然に口元が綻ぶような、そんな風に、笑っていた。

「君が危険に巻きこまれる想像をしただけで背筋は冷えるし、もし君に傷を付ける人間がいたら俺は問答無用でそいつを切り殺すだろうね。君を俺の目が届く範囲に置いておかないと安心して仕事も出来ないよ」

するりと伸びた手が僕の頭を撫でていく。この人に頭をなでられた事なんてないから比較対象ももちろんないけれど、この人にしては酷く、優しい手つきのように感じられた。

「それが、なんでかなあって」
「……」
「人はすべからく愛しているけど、君みたいな例外は初めてでね。一体君のどこに俺をそうさせる何かがあるのか、もしくは何故俺が君にそうするのか。ここ最近、考えてるのはずっとそんな事ばかりだよ」

まあ未だに答えは出ないけど、いやもう出かかってはいるっていうか見当はついてるんだけど。
臨也さんはすごく楽しそうだった。分からないと言いつつ考え事に没頭しているとその口で述べながら、その考え事自体を楽しんでいるみたいだった。この人が何を楽しいと感じ何をつまらないと感じるのか、僕のものさしで測れる事ではないけど、僕はそんな思考をしている場合ではない。

眠気は、とうに消えていた。靄がかかったような意識も、今でははっきりしている。
ただ僕は、シーツに顔を埋めて布団に出来るだけ潜り込んで、この熱くてしょうがない、きっと赤くなっているだろう顔を見られないようにするので精いっぱいだった。
臨也さんの考え事、それが指す意味が分からないほど、さすがに僕も馬鹿じゃない。うぬぼれかもしれないけど、それでも、それ以外に答えなんてありはしないんじゃないだろうか。

「好きだ」
「っ……」
「……きっと、これが答えなんだろうね」

布団の上から、臨也さんはぽんぽんと僕の背中を叩くように撫でた。まるで赤ん坊か何かにするような手つきだ。

「実を言うと、前に君に匿ってもらった時。あの時からなんだよね、こんな考え事してたの」
「……も、」
「ん?」
「……ぼくも、です……」

気になっていた。気になってしょうがなかった。僕の日常に紛れこんだかと思ったら、あっという間に消え去ってしまったイレギュラー。非日常を深く刻んで、けれどそんな跡一つも残さずに消えてしまった人。
ほんの短い間に強烈な違和感を残して行ったからこそ、こんなにも惹かれたのかもしれない。興味を抱いたのかもしれない。それが日増しに悶々と、不穏な下心を伴う感情にまで発展してしまったのは、きっと多分、僕の日常に紛れこんだ非日常が、臨也さんだったから。

彼もそう、思ってくれているのだろうか。

「ねえ帝人君、朝になったらさ、ご飯作ってよ。また君の料理が食べたい」

特別美味しいってわけではないけど、また食べたくて仕方なかったんだ。
導き出した答えが正解だったのを喜ぶように、臨也さんの声は弾んでいた。撫でてくれる掌が熱くてでも心地よくて、僕は布団の中でこくこくと頷くのに留めた。今どんな顔をして彼を見上げればいいのか、分からない。

(……後でお金返そう)

とりあえず、以前彼が僕にジャージを返した際に一緒に入っていた殴り書きのメモ。それを未だ大事に大事に保管している事は、一生秘密にしておこうと思った。











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