電車でおよそ十分。池袋駅とはまた違った賑やかさで溢れかえる新宿駅は、どこか違った空気に満ちている気がする。改札を抜けて、そのままへたりこみそうになってしまったのを懸命に堪える。
外出自体そんなにしない。そもそもこんな遠出すらしないし、この三年は人を避けるような生活を送るばかりだったから、想像以上の人の多さに気持ち悪さと眩暈が同時に襲いかかってきた。昔はそれほどでもなかったのに、今では道行く人の群れが怖くてたまらない。若干の人間不信に陥っている自覚は、ある。けれどこんな所で足を止めている場合ではないのだ。

(急がないと、)

いつだったか教えてもらった住所。携帯のアドレス帳に登録してあるそれだけを頼りに明るい繁華街を駆け抜けた。


臨也君が事務所と自宅を兼ねて使っているマンションは駅からそう離れているわけでもなく、全力疾走の甲斐あってか割とすぐに辿りつく事が出来た。とはいっても、僕の全力疾走などたかが知れている。加えて体力のなさが祟ったのか、エントランスの前に着く頃にはもう苦しくて苦しくて仕方のない状態だった。

「ここ、だ、よね……」

ちょうどマンションの住人らしき人が入っていく所だったので、それにあやかって僕も中に入り込む。エレベーターに乗って臨也君の部屋がある最上階のボタンを押した。その間に息を整えようと深く息を吸い込むが、中々どうして整わない呼吸にもどかしさが募る。こんな状態じゃ、まともに自分の言葉が紡げそうにない。

言いたい事はたくさんある。けれどそれが明確な言葉として形を成さない。まだ自分の気持ちの整理がついていないのも確かで、もしかしたら今これから僕がやろうとしてる事は間違った事なのかもしれない。こんな心理状態で出してしまった答えは、不正解なのかもしれない。
それでも僕はここに来た。自分の意思で、自分の足で。どうしても伝えたい気持ちがあったから。

「留守、なのかな……」

部屋の番号を確認してもここで間違い無いはずなのだが、いくらインターフォンを鳴らそうとも中から人が出てくる気配は無い。時間が時間だし就寝している可能性もあるから、僕は諦めてインターフォンから手を離した。無計画に飛び出してくるんじゃなかったという後悔と、会いたいと思った時に会えない寂しさ。その両方が胸をじわじわと蝕んでいく。

やっぱりもう、会わない方がいいのだろうか。臨也君に甘えてばかりではいけないのも分かっているし、利用してはいけないのも分かっている。彼からの連絡が絶えた事も彼が僕に付き合う事に疲れたからだとしたら、これはいい切欠なのかもしれない。僕と臨也君の関係は普通じゃない。ただの惰性だ。このままじゃどっちも報われない。

踵を返した僕の視界に、階段が映る。屋上に続く階段なのだろう、僕の足は自然とそちらに向く。何を思ったわけでもない、ただなんとなく、臨也君が普段どんな景色を眺めているのか。それが気になっただけ。
カンカンと足音を響かせながら吹きさらしの階段を上る。吹き付ける風はやはり冷たく冬のそれで、先程走ったおかげで火照った体を急速に冷やしていった。

(もし、臨也君に会ったら)

まずなんて言葉をかけよう。伝えたい気持ちはあるのに、やはりどんなに考えても明確な言葉にはならない。輪郭線のあやふやな感情ばかりが濁流して、喉の奥でつっかえる。

階段を上りきった。開けた屋上の柵には鍵がかかっておらず、押せば簡単に開いていく。ネオンが瞬く夜景。転落防止用の手摺に、見慣れた背中が寄り掛かっているのを見つけて鼓動が速くなった。ひゅうひゅう吹く風が、彼の背で揺れるコートのフードを揺らす。はたはたと解けかかった自分のマフラーもそのままに、よろよろと近づいた。

気配に敏感な彼は、すぐこちらに振り返る。
見開かれた赤が夜色に染まって、綺麗だと思った。

「帝人さん……」

ああ、久しぶりだ。彼の声を聞くのも、彼の姿を見るのも。じわりと浮かび上がる涙が何故流れるかも分からないまま、臨也君に歩み寄る。臨也君も手摺から体を離し、こちらに向き直った。

「いざや、くん、」

言葉が出ない。なんと言おう、何を言おう。臨也君の赤黒く光る瞳が僕をまっすぐ射抜いて、足が竦む。臨也君はいつもみたいに笑みを浮かべているわけでもなく、ただ無表情だった。何を考えているのか分からない、そんな表情で僕を見据えている。

「……臨也君に、言いたい事が、あるんだ」
「俺に?」

返された言葉も平淡で怖気づきそうになる。怖い。拒絶されたら、否定されたら。そればかりがぐるぐる頭を回った。

「彼女の事は、忘れられない。あの人が僕にとって大事な人だったのは事実だし、それは昔も今も、これからも変わらない……だけどっ、」

意を決して臨也君を見上げる。臨也君は驚いたように目を見張っていた。いつも余裕ばかりが感じられる笑みを浮かべていただけに、彼のそんな表情は貴重だ。でもきっと、今の僕の顔だって余裕なんかない。

「僕は、今、臨也君の事が……好き、」
「っ……」
「臨也君はもう、僕なんかの相手に疲れちゃったかもしれないけど、僕は……」
「駄目だっ!」

臨也君が拳を振り上げる。ガンッ!と手摺を乱暴に叩いた鈍い音が屋上の空気と僕の言葉を引き裂いた。
びくりと震えながら臨也君を見遣れば、彼はきつく唇を噛み締めていた。憎しみ、苦しみ、後悔、そんな負の感情ばかりが剥き出しの、彼の表情。どくどくと胸の鼓動のが速くなる。まだ息が完全に整っていない。

「帝人さん、俺は最低な人間なんだよ……あんたが独りになったって聞いた時、俺なんて思ったと思う?」
「え……?」
「喜んだんだよ、俺は。あんたが最愛の人を失って絶望して涙して悲しんでいるのに、それを心の底から喜んだ。そして付け込んだ……俺は、最低な人間だ」

絞り出された声は、震えていた。

「だから……俺は帝人さんにそんな風に言ってもらう資格なんて、ない」

そもそも最初から、あんたの傍にいちゃいけない人間だったんだ、俺は。




「、そんなのっ!」

叫んだ喉が熱かった。整わない息が苦しかった。喉の奥で絡んだ痰が苦しかった。
けどそれよりも、今の臨也君の表情を見ている方が、苦しかった。

「臨也君がそう思っていても、僕は臨也君が好きだから……臨也君の全部が好きだから……っ」
「、あんた俺が言ってた事聞いてなかった訳?俺は、」
「分かってるっ、理解もしてる!臨也君がそんな酷い事思ってたなんて知らなかったし確かに最低だとは思うけど……」

足を踏み出した。一歩、二歩、三歩。手を伸ばせば届きそうな距離。

「今の僕が臨也君と同じ立場だったら……多分、同じ事考えると思うから」
「っ、」
「臨也君」

その時だった。とうとう堪えていた涙が一筋、眦から零れ落ちる。悲しいから流れたわけではない、嬉しいから流れたわけでもない。単なる感情の高ぶりで流れてしまった涙だ。僕の気持と感情全部が詰まった涙。口だけで、言葉だけで伝える切る事の出来ない想いは、そうやって涙という形を持ってして外に溢れていく。

左手を伸ばした。それを見て臨也君がはっと息を飲む気配がする。

「帝人さん、それ……」

臨也君の視線の先。左手の薬指。そこで輝く銀色の指輪。

「僕の、薬指、もらってくださいっ……」

そこで輝いていたはずの指輪は、今はもう無かった。
ずっと肌身離す事のなかった彼女との絆。これから先もずっと外す事は無いんだろうと思い、そうやって自分の罪を忘れないための枷として付けてきた指輪。外すつもりも無かった指輪。

臨也君のためなら、それを外してもいいと、思えたんだ。

「……帝人さん、これ、俺がもらってもいいの?」

臨也君の指が僕の左手に触れる。掬うように持ち上げられて、僕は頷いた。

「臨也君じゃなきゃ、やだ……」

左手を強い力で引かれる。傾いだ僕の体は迷うことなく彼に受け止められ、そうして僕らは抱き合った。遠回りを繰り返した僕らは、ここでようやく一つになる。

「嬉しい、すごい嬉しい、帝人さん」
「臨也君……」
「俺、ずっと夢だったんだよ。帝人さんとこうするのが」

何年も僕を想い続けてくれた君は、今ようやく、心からの笑みを浮かべてくれた。張り付けたようなただのポーズとしての笑顔じゃなく、心からの笑顔を。泣き笑いの様でみっともない顔だったけど、それで僕は十分だった。なぜなら、僕も散々泣いた後の酷い顔だったのだから。

「好きだよ、帝人さん」
「うん……僕も、」

すき。すきだよ、だいすき。











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