※静雄視点
平和島静雄はゆっくりと紫煙を吐き出した。縁側に腰を落ち着けその長い脚を組みながら、豪華とも美麗とも取れる広い庭に視線を送る。サングラス越しの視界は黒いフィルターがかかっているが、それでも鼻につく程華美な庭の外観は損なわれなかった。
不意に、背後から障子の開く音がする。微かに首を後ろに向ければ、案の定障子の隙間から顔を出しているのはこの三カ月ですっかり見慣れた子供だった。
「あ……おはよう、ございます」
「おう、はよ」
控え目に頭を下げる子供は、名前を帝人という。静雄の大事な"仕事内容"だ。
この折原組で雇われ用心棒をしている静雄は、三か月前からある仕事をするように言い渡されていた。その内容は静雄の本業からは些かかけ離れたものであり、どうして俺がそんな事をしなくちゃならねえんだと己の雇い主に食ってかかった程でもある。
静雄に言い渡された仕事は子供の見張り役だった。常に帝人の傍に控え、何かあったら報告する、ただそれだけの仕事だ。
「あ、の……」
「あ?どうした」
障子の隙間から顔を出していた帝人は、おずおずと言った風に静雄に声をかけてきた。それに応えると、彼は不安そうな顔を浮かべながら大きな目でこちらを見返してくる。
「少し……お話しても、いいですか?」
「別に、構わねえけど」
そう静雄が言うと、帝人は嬉しそうにはにかんだ。やけに裾の余っている着物を引きずりながら静雄の隣にやってくる。縁側に腰を落ち着けた子供の薄い肩を見て、また紫煙を吐いた。
静雄自身、この組織に雇われて用心棒まがいの事をしているだけなので、どういう経緯でこの子供がこの屋敷にやってきたのか、どういう理由で臨也がこの子供を手元に置くようになったのか、そういった事情は知らなかったし、知りたいとも思わなかった。
ただ、どうして静雄が見張り役として指名されたのか、どうして子供に見張りを付ける必要があったのか。それだけは見張りとしての仕事をこなす内に理解ができた。
「あの……平和島さんは、もう長くここで働いているんですか?」
「そうだな……もう三年になるかな。雇い主は気に入らねえけど払いだけはいいから、ここ」
「そうなんですか」
今でこそ静雄とそれなりに会話を交わすようになったが、三か月程前、この子供がここにやってきた当初は酷い状態だった。
言葉も碌に喋らない、少し目を離せば自分の手首をかっ切ろうとする、刃物を遠ざけても自分の舌を噛むときたものだ。これにはさすがの静雄も手を焼いた。臨也もそんな子供の危険な状態を危ぶんだのだろう、だからこそ静雄を見張り役に立て子供が少しでも自傷する素振りを見せたら止めるようにと言いつけたのだ。
とても危険な状態だった、この子供は。誰かが傍についていなければいけい存在だった。
それが、この子供に見張りが必要な理由だ。
「平和島さんは、今日は出かけないんですか?」
「ああ、今日は出ねえよ」
「昨日は、出かけてましたよね」
「……こっちの島で色々と騒ぎがあったんだとよ。それに俺も駆り出されただけだ」
「そう、ですか……臨也さんも、昨日は帰りが遅かったです」
「やる事あんだろ、あいつはここの頭だからな」
大分短くなった煙草を携帯灰皿に押し付け、新しい煙草を取り出しながら隣を見遣ると、帝人は暗い顔をして俯いていた。帰りが遅かった上に今日も早朝から出ている臨也の事を心配しているのだろう、静雄はここ最近の子供の変わり様に目を細める。
経緯も理由も知らないが、臨也がこの子供に対して何をしていたのかは知っている。子供の生い立ちも原因なのだろうが、臨也が彼に対して行っていた行為も帝人をあんなに危うい状態にまで追いつめた一因だろう。それこそ知りたくもない話だが、毎日のように体中に鬱血を散らせ腰を庇うように歩いているのを見れば何をされているのかなど一目瞭然だ。
趣味が悪い、とは思ったが口を出す事はしなかった。
子供は明らかに臨也に怯えていて、自傷を繰り返そうとしていたのも恐らくは本気で生きる事に絶望を感じていたからで、本気で死にたいと思っていたに違いない。
臨也とこの子供の関係は酷く破綻していたはずだ。それは第三者である静雄にも理解できるほどに明確な溝だった。
支配する側と支配される側。そんな関係が崩れたのは、一体いつ頃からだったのか。
静雄は、尋ねた事があった。己の雇い主に、何故あんな子供を傍に置くのか。
「同情だよ、理由なんてそれしかない。だって、見てて可哀想だろ?あの子」
"シズちゃんもそう思わない?"
静雄は、尋ねた事があった。自分が見張るべき子供に、どうして己を支配する存在である男を受け入れているのかを。
「あの人は、僕に優しくしてくれるんです。それが嘘でも気まぐれでも……僕が欲しいものをくれのは、あのひとだけだから」
"だから、どんなに怖くても拒めないんです"
馬鹿らしい、と静雄は思った。彼と子供の関係は破綻から立ち直ったものの、酷く歪なままだ。いっそ滑稽とも言えるかもしれない。
「臨也さん、大丈夫でしょうか……」
「あいつは刺しても死なねえような男だ。心配すんな」
「はい……」
帝人は笑うようになった。
心からの笑顔にはまだ遠いかもしれないが、微笑やはにかむような笑みを臨也の前でよく浮かべるようになった。拙いながらも、言葉だって話すようになった。
「あの……」
「なんだ?」
「静雄さんも、気を付けてくださいね」
「…………おう」
そして、静雄に対して、他人に対して、気遣いや優しさを見せるようになった。
その変化を心の奥底で喜んでいる自分がいる事を、静雄は自覚していた。
「見せつけてくれるねぇ、お二人さん」
不意に横からかかった声に、静雄はそちらを見遣る事もせずに小さく舌打ちをした。分かりたくも無いが声だけでその主が分かってしまう。それだけ忌々しい相手という事だ。
静雄が心底嫌う雇い主はひたひたと廊下を歩いてこちらにやってきた。
「おかえりなさい、臨也さん」
「ただいま、帝人」
そんな静雄が心底嫌う人間に、心底嬉しそうな笑顔で帝人は抱きつこうと立ち上がる。しかし立った拍子に着物の裾を踏んでしまい、帝人の体はつんのめって傾いだ。静雄が手を伸ばすよりも先に、それを臨也が苦もなく受け止める。ぼすりと景気のいい音がした。
「そろそろちゃんと服、買った方がいいかもね」
「あ、でも僕、これで大丈夫です」
「けど危ないだろ?今みたいに転ぶかもしれないし」
「これの方が……臨也さんの匂いがして、落ち着くんです」
臨也に抱きついたまま微かに頬を赤く染め、帝人はそう漏らす。臨也は不意を突かれたのか一瞬だけ硬直したが、すぐに帝人の体を強く抱きしめ返した。
「……見せつけてんのはどっちだよ」
「なに、シズちゃん妬いてるの?」
「馬鹿言ってんじゃねえ」
「あげないよ、この子は」
静雄の額に青筋が浮かぶ。煙草を指で捻り潰すとぎろりと雇い主を振り返った。
「目障りだから部屋でやれっていってんだよっ!」
力んだ拍子に縁側の床板をばきりと割ってしまい、それを見た帝人がびっくりしたように目を見開いた。しかし臨也は慣れたもので、帝人の軽い体を抱え上げるとさっさと部屋に引っ込んでしまう。
「邪魔したら減給だから」
ムカつく捨て台詞付きで。
帝人は変わった。それと同時に、臨也も変わった。帝人の前限定でだが、酷く優しい、人間臭い顔をするようになった。それを本人は自覚しているのかどうかは、定かではない。
同情で傍に置いていると、臨也は言った。
欲しいものをくれるのは彼だけだと、帝人は言った。
けれど二人は気付いていないのだろか。今にしてみれば、それがただの建前になっているという事を。二人の間にあるのは確かな愛情だという事を――――二人は気付いているのだろうか。
建前が無ければ一緒になる事も出来ないのかと、静雄は少しだけ二人を憐れに思う。本当に少しだけだ。微かな良心がそう思わせただけにすぎない。
静雄は三本目の煙草を取り出して火をつけた。割れた床板は、まあ後で適当になんとかしよう。
静雄は正直、この職場が好きではなかった。払いは良いが雇い主が気に入らない。心底気に入らない。それでも三年間ここに居続けたのはやっぱり払いがいいからだ。けれどそろそろ潮時か、とも思っていた。
けれど、今はそれら全てが過去形だ。
少し陰のある、何かと手を焼かせてくれた子供。彼が最近になって浮かべるようになった笑顔が見れるならば、こんな職場でも悪くないかもしれない。
そう感じる事が満更でもない自分が、静雄は不思議でならなかった。