がちゃりと扉の開いた気配がして、僕はぼんやりと微かに意識を浮上させる。一瞬まどろみの中でここは何処だったけ、と思ってその一瞬後には自分の部屋でベッドの中か、と認識してさらにその一瞬後には開いたらしい気配を辿る様に扉に視線を向けようとした。
けれどそれよりも早い一瞬の間に、どさりと布団の上に何かが覆い被さってきて僕の意識は唐突に覚醒する。重い、と感じるもその認識は直後に聞こえてきた「帝人君、」という言葉に塗り潰された。
布団の中で体を僅かに動かす。暗がりの中で見上げれば、布団にのしかかる様にして僕を見下ろしている彼と目があった。
見間違えるはずもない、確かに、彼だった。

「い、ざやさん、」

直前まで寝ていたせいで掠れた声が出た。臨也さんはぎしりとさらに体重をかけると、真正面から至近距離で僕の顔を覗きこんでくる。寝起きの頭は突然の状況についていけず、混乱をもたらすばかりだ。何で、どうして、臨也さんが僕の部屋に?
室内は相変わらず暗いから、今が深夜なのに変わりはないんだろう。最近の臨也さんが真夜中にならないと帰ってこないのは知っていたけど、こうして僕の部屋に押し掛ける事は今の今まで一度もなかった。むしろ、顔を合わせたのも久しぶりかもしれない。
同じ家で生活しているにも関わらず、だ。

「あ、の、」
「……この家出る、ってどういう事」
「、」
「何で……」

眠気に支配されたままだった脳がようやく正常に動き出す。大分はっきりとした意識と視界。僕は唖然と臨也さんを見上げた。
もう静雄さんから話を聞いたのだろうか。今日の朝(いや、正確にはもう昨日なのかもしれないけど)静雄さんに話したばかりだというのに。

「何で、だよっ、」
「いざやさん、」
「何でシズちゃんには言って、俺には言ってくれないのさ……っ」

ぎゅっと布団が体に巻きついて圧迫される。いや、布団に圧迫されているんじゃなくて、臨也さんが掛け布団ごと僕を抱きしめているのだと気付くのにそう時間は要さなかった。

(なに、これ、)

何で、どうして僕は臨也さんに抱きしめられているんだろう。何で、臨也さんはそんな悲しそうな顔で僕を見るんだろう。覚醒したと思っていた思考回路だけれど、やっぱり混乱からは完璧に抜け出せていないみたいで、相変わらず僕は今の自分の状況についていけない。
いや、正確にいえば思考どころの話じゃなくて、臨也さんがこうも近くに居て僕に触れているという事実にたまらなくどきどきしているから、余計な事を考える余裕が無いんだ。

こんなに近くで臨也さんを感じた事は、今の今まで一度も無かった。

「何でなんだよっ、俺の事が嫌いだから?だからこの家にも居たくなくなった?」
「っ、ちが、」
「じゃあなんでっ、俺には何も言わないで出て行こうとするんだよ!」

悲痛な叫びだったように感じたのは、僕の気のせいだろうか。けれど臨也さんのその叫びに一番悲しくなったのは、僕の方だ。
そんな風に面と向かって理由を尋ねられたくなかったから、だから静雄さんに言伝を頼んだというのに。理由を言えば、絶対に臨也さんは僕の事軽蔑して、嫌悪して嫌って、きっと気持ち悪いって思うだろうから、だから何も言わないで出て行こうと思ったのに。

(ぜんぶ、ぜんぶ、)

臨也さんの、せいなのに。

「っ、嫌いになんて、なるわけないっ!」

自分では思いっ切り大きな声で叫んだつもりだったけど、実際に声帯から紡ぎ出だされたのは頼りないくらいに弱々しく、引き攣った声だけだった。なんで思う通りに声が出せないんだろう、感じた疑問は頬に伝う濡れた感触ですぐに理解できた。

僕は、泣いていた。

「臨也さん、のことっ、こんな、好きなのにっ……なんでそんなこというんですかっ!」
「みかど、くん、」
「好きで好きでっ、苦しいくらいなのに……くるしいのにっ、すきなのに、きらいだなんてっ、なんでっ」

それ以上は言葉にならなかった。ただ喉を震わせて嗚咽と涙を一緒に零す僕は、高校生にもなってなんてみっともないんだろう。臨也さんは、どう思っただろうか。呆れただろうか、引いただろうか。こんな風にぐずぐずと泣く僕を見て、愛想を尽かしただろうか。

けれど僕の予想に反して、触れてきた掌は驚くくらい、優しかった。優しく、慈しむように僕の髪を梳いてくれる。

「ごめん……泣かせたいわけじゃなかったんだ」
「っ、いざっ、さん……っ」
「好き、なんだ。帝人君の事」

掛け布団を剥ぎ取られて、阻む物が何もない状態で直接臨也さんの腕に抱きこまれる。ぎゅうっと痛いくらいに、苦しいくらいに。僕の後頭部に手を添えて胸に顔を押し付けられる。滲む涙が臨也さんの黒いシャツに染みて、間近で香る大人の男の人の匂いに頭がくらくらした。香水か何か、付けているのだろうか。

「好きで好きで堪んないんだよ、」
「っ、ぇ、……?」
「だから君が家を出るって聞いてすごく嫌な気分になった……離したくないって、心の底からそう思ったんだよ」
「いざやさん……」
「……帝人君も、俺の事好きでいてくれたんだね」

そこでようやく、僕は気が付いた。
感情の昂りのままに自分がどれだけ恥ずかしい告白をしたのか、そして臨也さんが僕にどれだけ予想外の告白をしてくれたのか。
泣いた事でどっかに飛んで行ってしまっていた理性が戻って来た途端、顔が羞恥心でじわじわと熱くなる。

だって、僕は臨也さんの事が好きで、苦しいくらいに好きで好きで、だから泣きながらみっともない告白してしまって。けれど臨也さんも僕の事が好きだって言ってくれて。
つまり、それって、その、両想い……っていう事に、なるんだろうか。

「あ、の、」
「何?」
「ぼく、その、兄弟とか、そういう括りで好きなんじゃなくて、えっと……」

恥ずかしさを偲んで言葉を紡ぐ。上手い言葉が見つからなくてあわあわしていると、僕の足りなすぎる言葉の端々からこちらの意思を汲んでくれたらしい臨也さんがくすりと口の端を上げる。

「見てれば分かるよ。君が俺の事を恋愛対象として好いてくれてるの」
「……、気持ち悪く、ないんですか」
「その言葉、そっくりそのまま君に返すけど」

帝人君は気持ち悪くない?俺の事。
どこか寂しそうに聞かれてすぐさま首を横に振った。
気持ち悪いとかそんな風に思う訳ない、好きで好きでたまらない、こんなにも焦がれてるんだから。
それを告げると俺も同じだよとまた髪を梳かれる。涙はもうとっくに止まっていた。

「帝人君……」

さらさら頭を撫でられる感覚が心地よくて、うっとりと眼を細めていると臨也さんの甘ったるい声が降ってきた。改めて彼を見上げる。

ずっとずっと好きだった、僕の"兄"。五つも年の離れた臨也さんは大人で、小さい頃からそれこそ家族のように接してきたけれど、いつからか昔のようにお兄ちゃんと呼べなくなって、好きになってた。一緒に家で生活している、その事実だけでどきどきして、意識して。大きくなるにつれてどことなく臨也さんとの距離は開いてしまったけれど、その背中や姿を焦がれるような眼差しで見つめる事は止められなかった。
最近になってあまり会話もしなくなって、顔を合わせなくなって、それを少し寂しく思う同時にどこかほっとしている自分もいて。このままずっと顔を合わせなければこんな不毛な恋も忘れられるかなって思っていた。
でも結局は駄目だった。だから、家を出ようと思った。
絶対にこの想いは叶わないと思っていたから。

でも実際はどうだろう。今僕の目の前には臨也さんがいて、僕の事を優しく抱きしめてくれていて、頭を撫でてくれている。そして、好きだって、言ってくれている。
夢の様だと思った。けれど不意に近づいてきた臨也さんの顔に、これは夢なんかじゃないって唐突に自覚させられる。
生まれて初めてのキスの感触は、とても鮮明に、これを現実だと僕に認識させてくれた。

「好きだ、帝人」
「っ……!」

ずっと帝人君帝人君とどこか他人行儀に呼ばれていたのに、今になって急に、そんな、愛おしげに名前を呼ぶなんて反則だって、すごく思った。僕の顔はまた沸騰したように熱くなって赤くなる。
でもそれ以上に、嬉しかった。
僕の事、認めてもらえたのかなって。臨也さんのあの低い声で帝人君って呼ばれるのは嫌いじゃないけど、やっぱり何処か線引きされているような気がしていたからこれでようやく僕も家族として認められたのかなって、嬉しかった。
すごくすごく、嬉しい。

「僕も、好き、です……」
「帝人……」

また甘ったるい声と一緒に唇が降ってきた。啄む様なそれが次第に深くなってきて、口腔内に入り込んできた臨也さんの舌が甘く優しく、僕の口の中を嬲る様に舐めつくしていく。引っ張りだされた舌を無理矢理に絡ませて、ちゅうっと音を立てて吸われた。それでも飽き足らず、臨也さんは僕の舌と口腔内の至る所を舌で丁寧に愛撫する。

「ん、……ふっ、あっ、」

どうしよう、くらくらする。酸欠で苦しいのに、どうしようもなく気持ち良かった。
兄弟同士っていう後ろめたさが完全に消えたわけではないのに、そんな事も気にならないくらいにキスと言う行為に溺れていた。
するするとシャツの下に臨也さんの手が差し込まれたのに気付いて、ぼんやりした顔で臨也さんを見上げる。

「いざ、やさん……?」
「あのさ、昔みたいに呼んでよ」
「へ?」
「お兄ちゃんって、昔は呼んでくれてたじゃん。何で呼ばなくなったんだよ」
「だ、って……恥ずかしい、じゃないですか」
「それは俺の事が好きだから?」

その通り過ぎて僕は押し黙る。臨也さんはそんな僕の胸の内を見透かしたように笑いながら、言ってよと尚も強請ってくる。
結局根負けしたのは僕の方だ。下手すると告白するよりも恥ずかしい気がする言葉を、せめてもの抵抗で本当に小さく、小さく呟いた。

「す、き……おにい、ちゃん、」




その晩、僕は確かに幸せだった。叶わないと思っていた恋が実って、好きな人の温もりを間近に感じられて。
キスも初めてだったのにそのまま大人の階段とやらをいっぺんに上ってしまったのは完璧に想定外だったけど、臨也さんはとても優しかったし何度も僕の名前を呼んで好きだと言ってくれたから、僕はそれだけで幸せだった。

何度も何度も、僕らは互いを求め合う。
すれ違ったままだった時間を埋めるように、何度も何度も。










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