「遅かったな」

すっかり日付変更線を跨いだ時間だというのに、帰宅すると珍しい事に俺の人生の唯一の障害である兄が起きていた。(いや、こんな奴を自分の兄貴だと認めたくはないんだけど)
いつもなら俺の帰りを待つことなくさっさとリビングの灯りを落として就寝しているはずなのに一体どういう風の吹き回しだろうか。こいつが夜更かしをする理由は特にないはずである。昨日も平日今日も平日、休日である土曜日までは後二日もある。一体全体、本当にどういう風の吹き回しか。
正直顔を会わせたくないんだけど。

「珍しいね、シズちゃんがこんな時間まで起きてるなんて。みたい深夜番組でもあった?」
「それなら録画してさっさと寝てるっつーの」

シズちゃんは吸っていた煙草をぐしゃりと灰皿に押し付けて二本目を取り出す。三男の目の前では副流煙を気にして絶対に吸わないくせに。
とりあえずこいつと顔を突き合わせているだけでどうにも苛々してくるから、さっさと退散しようと階段に足を向ける。しかしそれを見計らったように呼びとめられてちょっと来いと手招きされた。
……なんかすんげえ腹立つ動作だなそれ。

「何?俺眠いからさっさと寝たいんだけど」
「話があんだよ、帝人の事だ」

無視して上に行こうとした俺の動きはその名前を聞いた途端にぴたりと止まる。シズちゃんはこちらに背を向けて椅子に腰をかけているから俺の様子は見えないはずだ。見えないはずなのに、まるで俺が硬直するのを見越したかのように煙を吐き出して、空気を震わせる。

「あいつ、この家を出たいんだと」
「は……?」
「もう高校生だしな、一人暮らしして自立したいんだとよ。それをお前に伝えてくれって頼まれた」


(……なんだよ、それ、)


俺の頭を占めた思考というのはそれだけで、目の前が一瞬、白くなる。
帝人君がこの家を、出ていく。そう考えただけで、それを想像しただけで、不快感が胸中に渦巻いた。

小さい頃からそれこそ家族のように一緒に居て、本当の家族になってからもずっとずっと一緒だった俺の"弟"。その弟を、弟として意識する事が出来なくなったのはいつからだったのか、覚えていない。多分相当昔から、だと思う。それこそ彼が平和島に性を改名するよりも前から。
お兄ちゃんお兄ちゃんと舌足らずに俺とシズちゃんの後ろを付いて回っていた彼は、成長するにつれ俺達の事をお兄ちゃんと呼ぶ事は無くなったし、家族になってからもずっと俺達に敬語を使い続けているけれど、それでも俺達にとっての"弟"である事に変わりは無いはずだった。
それがいつの間にか彼の事を弟とは思えなくなって、むしろ弟に抱くよりももっと欲望に忠実な感情ばかり抱くようになって、いつからか俺も距離を置くように彼の事を"帝人君"とよそよそしく呼ぶようになって。
それが俺の無意識での防衛手段だった。

これ以上彼に近づけない、近づいてはいけない。

そんな無意識での防衛手段は、日を重ねるごとに強くなる俺の中の劣情に比例して顕著なものになっていった。
同じ家の中で生活しているという事実だけで、堪らなくなる。俺の部屋のすぐ隣で帝人君が寝ているのだと考えると、抑えきれなくなる。
自分の感情が変態じみてる事も常識を逸脱している事もはっきり自覚してはいたが、そんな良識で丸めこめるほど軽い気持ちでもなかった。
ぶっちゃければ、帝人君に触れたいしキスもしたいしそれ以上だってしたい。

だからこそ、そんな自分の浅ましい欲望と折り合いをつける意味で、最近は家にもあまり帰らなくなった。本当なら毎日帝人君の顔を見て帝人君の笑顔に癒されて、幸せを感じていたい。けれどそれ以上に首をもたげ始めてきた劣情はどうにも俺の理性を突き破りそうになっている。
彼を避けるように夜遊びに興じて朝帰りを繰り返す、そんな毎日。帝人君の顔を見たら咄嗟に触れようと腕を伸ばしてしまうくらいに、俺はもう相当重症なのだ。

本気の本気で、あの子に惚れている。

だからもしかしたら、帝人君がこの家を出るというのは好機なのかもしれなかった。帝人君は、俺の傍に居るべきじゃない。実の弟にこんな欲望を抱く兄の傍には、居るべきではないんだ。
それが帝人君のためだし、俺自身のためでもある。自身が有するこんな感情、消し去ってしまうべきなのだから。

(……けど、嫌だ)

何とも子供じみている、自分で自分を嘲笑いたくなった。
本当に身勝手で勝手すぎる我儘。
それが帝人君のためでもあるって分かっている、分かっているのに、駄目だった。

帝人君が俺の傍から離れるなんて、絶対に許容出来ない。

いい年した大人が子供相手に何を考えているんだか、そう思わない事も無い。けどやっぱり嫌だ、許せない。帝人君が傍にいない生活だなんて耐えられない。
今まで散々彼を避けていたはずなのに、むしろ俺の方から彼に寄りつかなかったというのに、彼が離れると言い出した途端それは駄目だと拒絶する。
なんて滑稽で理不尽で我儘な大人なんだろうか、俺は。

けれど、そこまで考えて俺ははたと気付く。
嫌だ許せない、帝人君の一人暮らしなんて絶対に嫌だ。そう自身の中で結論は出ているはずなのに、それをどう帝人君に伝えればいいのか、それが全く分からない。シズちゃんは見たところ反対している風でも無いから、俺がここでそれを拒否するのはどう考えても可笑しい。なんで?と聞かれれば明確な理由を提示出来ない。まさか帝人君の事が好きだから、なんて言えるはずもない。

俺は帝人君を繋ぎとめる術を、何一つ持っていなかったのだ。

もっと素直になれたのなら、もっと普段から彼にとって兄らしく振舞ってやれていれば、状況は変わったのかもしれない。けれど今更そんな事考えたって後の祭りだ。帝人君をこの家に留めるに足る理由を持ち合わせていないというのが現状で、それが俺の現実。

「……別に、いいんじゃない」
「臨也?」
「本人がそうしたいって言ってんなら……俺に引きとめる理由なんてないし」

結局俺には、そう告げるしか選択肢は無いのだ。
帝人君の事は好きだ、けどこの愛は間違っている。間違っているからと言って正すつもりは毛頭ないけれど、この想いをそのまま帝人君にぶつけるなんて事も到底できない。結局は不毛なのだ、この気持ちも感情も全部。
だから消えるのを、俺は待つしかない。自然にこの想いが薄れるのを指をくわえて待つしかないんだ。

シズちゃんは何も言わない。話がそれだけしかないならと俺は今度こそ階段にかけていた足を動かす。ぎしりと音を立てる床板が今の自分の心の様で、らしくもない妄想にまた自嘲を浮かべた。

「……お前らはなんでそんなに面倒なんだろうな」
「……何がだよ」

不意に静寂の中に落とされたシズちゃんの声は存外に大きくて、俺は足を止める。相変わらず煙を吐き出しているシズちゃんは一体何処を見つめているのか、後姿だけでは伺い知れない。
正直シズちゃんの動向なんか気にする余裕が、俺には無い。予想以上に帝人君がこの家を出ていくという事実が堪えているようだ、と何処か他人事のように思った。

「じゃあ聞くけどよ、お前本当にそれでいいのか」
「良いも何も、だから俺に引きとめる理由は……」
「帝人がこの家を離れて一人立ちしてお前の目の届かない所に行っちまってよ、」

シズちゃんが肩越しに、こちらを仰ぐ。

「他の誰かに掻っ攫われちまっても、お前良いのかよ」

静かな声だった、と思う。けれどその言葉に込められた意味は深かった。
こいつは全部、分かった上で言っているんだ。
俺の気持ちも想いも葛藤も全部、全部。

(……ちくしょう)

だからこいつは嫌いなんだ。
無関心を装っているくせに、嫌悪感をあからさまに滲ませて反抗心を剥き出しにする俺を、それでもちゃんと見ている、この男が。

同じ血を分けたこの男の事が。
そしてこいつを心から憎む事のできない自分の事も。


ぎしりと階段を上る。一段一段、ゆっくりと。目指すのは自分の部屋じゃない。
彼の、部屋だった。











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