春の匂いがする。
朝アパートを出て帝人は真っ先にそう思った。草の匂いというか太陽の匂いというか、空気の匂いというかもしくは空気そのもの、というべきか。上手い形容の言葉は見つからなかったが、肌に感じる温かい空気だとか鼻腔を擽るやわらかい匂いだとか、そういったものが春の訪れを今年も感じさせた。
それと同時に、雨の気配も。
「まあ、大丈夫だよね」
降水確率は四十パーセント。
逡巡した後、帝人は傘を持たずに家を出た。
(失敗した、)
彼が今朝の自分の行動を悔いる事になったのはそれからおよそ八時間後。下校時の事である。
さあさあと決して強くは無いが弱くも無い雨が池袋の街を包み込む。春雨だ、と帝人は街を走りながら思う。梅雨時の様な冷たいだけの湿気にまみれた雨ではなく、どこか春の匂いを残した柔らかい雨。しとしと、そんな擬音がぴったりきそうだと思う。
それでも、いくら強くないからとはいえこのまま雨に打たれ続けるのはよろしくない。帝人は色とりどりの傘がひしめく通りを外れ、人の少ない道へと折れた。傘もささずに走り回る姿は、それなりに注視される。それもやはり、よろしくない。
飛び込んだのはシャッターの降りた古本屋の屋根の下。ここでひとまず雨をしのごう、だがしかしそこには既に黒い先客がいる事に、飛び込む寸前まで帝人は気付かなかった。
「……こ、んにちは」
「こんにちは。奇遇だね、こんな所で」
しかもこんな格好で、笑う彼は自分の姿と帝人の姿を見比べながら髪を掻きあげる。彼も傘を持っていなかったらしい。屋根の下に佇む二人は見事に濡れ鼠であった。
「天気予報見なかったんだ。失敗したよ」
「……僕は見たんですけど、持ってきませんでした」
「へえ、なんで」
「四十パーセントなら、降らないかなあって」
四割、実に微妙な数値だ。そもそもその四割という数値は一体何によって割り出されているのかも、帝人にはよく分からない。
「……」
「……」
しとしと、落ちる雨の音だけが響く。不思議と寒さはあまり感じないのが春の雨である。
しとしと、沈黙が妙に気不味い。沈黙を心地よさと感じられる程に、隣に立つ男との距離が近いわけではなかった。(帝人としては、その距離を埋めたいと思ってはいるのだけど)
(そうだ)
思い出した帝人は自身の鞄を漁った。そろそろ沈黙が耐えきれなくなってきた頃で、何か話のタネは無いものかと考えあぐねていた末に閃いたのである。
取りだしたのはタオルで、傘は持たなかったが小雨に降られた時に体を拭けるようにとここ最近持ち歩いていた物だ。帝人はそれを、隣に立つ男へと差し出した。
「どうぞ」
「……」
しとしと、妙な沈黙。臨也は何故か、帝人が差し出したタオルを見つめたまま黙っている。
あれ?と首を傾げる。何か間違えただろうか、帝人が更なる沈黙に首を傾げると、彼はようやく動いた。くるりと体をこちらに向け、帝人の手からタオルを受け取る。そしてそれを広げると、ぼふりと帝人の頭に被せたのだった。
「っ、わ、」
わしゃわしゃと広げられたタオルで乱雑に頭を拭われる帝人は、意味が分からずただ成されるがまま。臨也はその間も無言で、帝人は臨也の手を止める事も出来ない。
まるで犬か何かにするかのような乱暴な拭い方から帝人が解放された時、臨也はようやくその口を開いた。
「君は、」
「、はい?」
「自分よりもまず他人、なんだね」
タオルが取り払われた視界の先、臨也はどこか不機嫌そうな、無表情。ぱちぱち瞬きする帝人にため息を吐きながら、つい、とその長い人差し指を伸ばした。
「っ、」
「唇、青いよ」
突然唇に触れた臨也の指は、存外温かくて帝人は驚いた。いやそれ以上に、突然の接触に、驚いた。どきん、自分でも分かるくらい心臓が跳ねあがる。
「あ、の、」
「ほっぺたも冷たい」
臨也はタオルを、今度は自らの頭にかぶせ、これまた乱雑にわしゃわしゃと拭い始めた。近い距離に帝人がわたわたとしてる間に臨也はタオルで自身の衣服の水気も軽く取ると、そのままぐいと帝人の手を引く。
「わ」
近い距離が、ゼロになる。帝人の背に回った腕は、水分を含んだ服越しだというのにやはり温かい。
「あの、いざ、」
「冷たいね、ほんと」
ぎゅっと強くなる腕。突然の抱擁は、まるで雛鳥に体温を分け与えんと寄り添う親鳥の様で、帝人は慌てるのと同時にくすぐったくなる。服に染み込む水分が、沸騰していくような錯覚はあながち錯覚でもないような。
「……」
「……」
しとしと、雨が降る。
人のいない通り、閑古鳥の鳴く古本屋の屋根の下。
ただ黙って抱き合う二人は、傍目からどのように映るのだろう。
しとしと、しとしと。
けれど帝人は思う。臨也の腕に抱かれながら、彼の考えている事も分からないまま。
傘を忘れてよかったと、心底思うのだった。