死ぬかと思った。比喩表現でも何でもなく、死ぬかと思った。いや死んでもおかしくない。むしろ今こうして生きている事の方が奇跡だ。

「いやー走った走った。本当にしつこかったね、今日は一段と」
「っ、はぁ……はあ、はぁっ」

隣で何てことない風に笑う臨也さんは額に薄ら汗を浮かべていたけれど、息は一つも乱れていない。対する僕はもう息も絶え絶えで汗だらけで、膝に手を付いて呼吸を整えるのがやっとの状態だ。僕の左手と臨也さんの右手は相変わらず手錠でしっかりと繋がれたままだから、臨也さんは膝に手を付く僕に合わせて少しかがんでくれていた。

静雄さんとの死の追いかけっこ、まさにデスレースとも呼べるそれに興じて一体何時間たったのだろうか。辺りはすっかり暗く、静雄さんを捲いて臨也さんと逃げ込んだ公園は街灯の光が寂しく灯るだけだった。もっとも、深夜になっても活気の衰えないのが池袋であるから、公園から一歩外に踏み出ればそこには明るさと騒々しさが溢れている。

「まじアイツ本当にろくな事してくんないよねえ。さっさと死ねばいいのに。帝人君もそう思うだろ?」

臨也さんは僕に向かってぺらぺらと何事かを話しかけてきたが、呼吸を整える事に必死な僕には返事をするだけの余裕がない。ようやく落ち着いてきた頃になっても、何となく臨也さんの言葉に返答をする気にはなれなかった。

(もう帰りたい……)

じゃらりと僕と臨也さんを繋ぐ手錠を見遣る。これさえなければ、こんなものさえなければ今日という一日をこんな風に慌ただしく引っ張り回される事はなかったのに。
何時間がたったのかは分からないけど、僕が家を出る時には綺麗だった茜色の空がとっくの昔に地平線に沈んでいて、空に瞬くのは星だけだ。さっきまでは丁度良くて心地よく感じていた風も今では冷たい。
こんな事にならなければ、と恨めしげに手錠を見つめる。こんな事にならなければ、今頃買い物を終えて食事も終えてチャットルームに入り浸って眠くなってきたからそろそろ寝ようと布団に潜り込んでいる頃だったはずだ。そんな風に何も変わらずに、今日という日も終わっていくはずだったのに。

(臨也さんに会わなければなあ)

いや、けれど手錠をはめてしまったのは僕自身だから、結局は自業自得だ。呪うべきは好奇心に負けて短絡的な行動をとってしまった自分だろう。

「疲れたねえ、さすがに」
「……そうですね」

疲れなんてこれっぽっちも感じさせない表情は相変わらずで、僕は臨也さんから少し離れて彼を見上げる。微妙な距離感に臨也さんがおや?という顔をした。

「どうしたの」
「あの……僕、もう帰りたいです」
「俺もそれには同感。風呂に入って眠りたい」
「なら……」

じゃらり、手錠の鎖が揺れる。臨也さんがゆっくりと、開いていた距離を詰めた。

「俺の家、来なよ」
「……」
「こんな状態だ、仕方ないだろ」

分かってる、力ではどうやっても構わない僕に、臨也さんの決定に逆らう事は出来ないのだ。いや、もし仮に僕が臨也さんより力が強かったとしても、やっぱり彼に逆らう気になんてなれないけど。

(それにしても)

静雄さんと毎日こんなに壮絶な追いかけっこをしているのに息一つ乱さないなんて、やっぱり臨也さんも普通ではないなあと改めて思った。




テレビから流れてくるバラエティ番組の音が耳に心地いい子守唄に聞こえてきた頃、僕の頭はうつらうつらと船をこぎ始めた。広い臨也さんの家、大きなソファに二人でかけ、何をするでもなくテレビを眺める。

僕としては、だ。臨也さんの家に行けば、まずはこの手錠を外してくれるんだとばかり思っていた。家にならペンチなりなんなりあるだろうしとりあえず鎖だけでも、と。
けれどどうだろう。実際に彼に引きずられるようについてきてみれば、彼は手錠を外す素振りすら見せない。呑気に家に帰る途中に立ち寄ったコンビニで調達した晩御飯、もといサンドウィッチを齧っている。僕も促されるままにご飯を御馳走になったが、けれど僕が欲しいのは晩御飯なんかではない。

(なんのためにここまで来たんだ僕)

臨也さんの家に行けさえすれば、この手錠を外せる。せめて鎖を切るくらいは出来るだろう。生憎と僕の家には日曜大工セットなんて家庭的なものは存在しないから、だから恥を忍んで手錠を隠すためにまたあの恋人繋ぎをして、人が多く乗り降りする公共機関である電車に揺られ新宿まで来たというのに。
僕の我慢は何だったんだ。全くの無意味じゃないか、これでは。

だらだらと過ごすうちに気付けば時刻は深夜。もうじき日付も変わる。こんな時間ではペンチなり大工セットなりを売っている店も閉まっている事だろう。
臨也さんは不便だと思わないのだろうか。人と繋がれているこの状態が。思う通りに動く事が出来ないこの状態が。

「あの、」
「なんだい」

テレビから聞こえる音のみが広がる室内で、僕は耐えきれなくなって声を出した。臨也さんはテレビに向けている視線を動かす事もせず、僕に返事をした。

「僕帰りたいです」
「そうだろうね。けどこんな時間だ、外を歩くには危ないと思うよ」
「っ、誰のせいで……!」

思わず声を荒げてしまい、僕はそれ以上は言葉にせず口を噤む。いけない、手錠をはめてしまった事自体は僕の自業自得であるわけだから、一概に臨也さんのせいとは言い切れない。彼だけを責めるのは筋違いだ。

「……臨也さん、これ、外しましょう」

互いのためにも、こんな手錠さっさと外してしまうのがいい。左手と右手、繋がれたままでは一人で何もできないし一人でどこかにいく事だって出来ない。臨也さんにも仕事があるだろうし、僕は春休みだからいいけどこのままでは着替えもお風呂に入る事だってままならない。
外す、それが普通に考えて優先すべき事項だろう。なのに外す気配のない臨也さんは一体何を考えているのやら。本気で分からないけれど、このままでは困るのは臨也さんも一緒だ。だからはっきりと、僕はそう提言してみたのだが。

「嫌だよ」

臨也さんの口から飛び出してきた言葉に、僕は耳を疑った。は?と思わず左隣りに座る臨也さんを見上げる。先程までテレビに向いていたはずの彼の視線は、いつの間にかひたりと僕に据えられていた。

「な、に……」
「だって外したら君は帰るだろう?」
「あ、あたりまえです」
「なら駄目だ、外さないよ」

鼻歌でも歌い出しそうなほど、何故か上機嫌に臨也さんは笑う。僕と言えば、全く持って意味が分からず、ただただ臨也さんの横顔を見つめるばかりだ。
嫌だって、じゃあ最初からこの人は手錠を外す気が無かったのか?だから無意味にこんな繋がった状態のまま、過ごしたというのだろうか。

「意味が分からないって顔をしているね」
「あ、えっと……」
「時間もそろそろだし種明かしをしようか。実はここにこの手錠の鍵がある」

臨也さんがポケットから取り出した銀色の鍵がちゃらりと僕の眼前で揺れる。突然過ぎて僕の思考回路はフリーズしたままだ。確かこの人、鍵はなくしたって、だから困ってるって、そう言っていなかったけ?

「なん、で、」
「君を繋いどきたかったからだよ」

その言い回しに、僕はなんとなく、察する。もしかして、いいやもしかしなくとも、この人が手錠を片手にぶら下げて僕の前に現れたのは、偶然ではなく、必然だったのではないか、と。

「君の方の錠は壊れてるって言ったけど、実はそれも嘘だったんだ。ごめんね」

臨也さんは笑っている。つまり、今の僕たちのこの状況は仕組まれた物であり、僕はまんまんと臨也さんの思惑通りに繋がれてしまったと、そういう事だろうか。
僕は怖くなって、ソファの上で少しだけ後ずさる。けれど逃がさないと言うように、臨也さんが右手を引いた。手錠で左手を繋がれている僕はそれ以上後ろに下がる事も出来ず、そのまま強い力で左手を掴まれてしまう。

「そんな顔しないでよ。騙したのは悪いなあと思ってるけど、こうでもしないと君とこんな時間まで一緒にいれないと思ったからさ」
「な、んの話、」
「ああほら、もうすぐだ」

臨也さんの視線が壁掛けの時計に向けられた。つられて僕も時計を見ると、時間は深夜十二時、日付が変わった事を示している。ああ、結局今日中に家に帰る事が出来なかった、そう落胆するのと同時に耳元に触れた吐息。

「誕生日、おめでとう」

はっとした。慌てて顔を横に、臨也さんに向け直せば、今度は唇に吐息が降ってくる。
ぽかんと、自分でもそんな擬音がつきそうな位間抜けな顔をしている自覚はある。案の定、臨也さんは間抜け顔、と僕の顔を見ながら笑った。

「一番にね、君に言いたかったんだ。君が生まれた日を迎えるその瞬間まで、一緒にいたかった」

この手錠は、まあそのためだけなんだけどね、赤味がかかった瞳を細める彼は悪戯が成功した子供のように、けれど何処か悪い大人を臭わせる雰囲気でそう言った。
なんだ、たったそれだけのために僕はこの人に振り回されたのか、とか、もっと他にやりようがあっただろうにどうして手錠なんだ、とか、そもそも何でこの人僕の誕生日を祝おうなんて気になったんだろう、とか。
色々な思考がめぐりめぐってパンク状態、許容量を超えた脳みそはまさにフリーズ。出来の悪いパソコンのような自分の頭を呪いながらも、ただ一つだけ分かるのは。

彼に自分の誕生日を覚えてもらえてた事が、一番に祝われた事が、とても嬉しかった、という事だ。

「非日常好きな帝人君にとびっきりの非日常をプレゼントしてやろうって思って色々考えたんだよねこれでも。まあ、喜んではもらえないかもしれないけどそれなりに貴重な体験だったろ?」

言いながら、臨也さんは小さな鍵で手錠のロックを解除した。何時間も金属に触れていた左手首の肌が擦れて、少しだけ痛い。見れば赤くなっている。ちらりと臨也さんの右手首を視線を投げれば、そこは僕と同じように赤くなっていた。

「さて、どうしようか。汗もかいたしまずは風呂にでも入る?ケーキはその後にでも食べようか」
「……ケーキ、あるんですか」
「誕生日なのにホールケーキも食べられないようじゃ、貧乏学生君が可哀想かと思ってね」

かちゃりと外れた手錠。臨也さんはそれをゴミでも放るようにテーブルの上に投げ捨てた。席を立って、おそらくお風呂の準備をしに向かったのだろう彼の背を眺めながら、僕の頭はまだフリーズから立ち直らない。

あれだけ外したいと思っていた手錠。いざ外してしまうと少しだけ、本当に少しだけ、もったいないと、思った。




(happy birthday 3/21)






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