困ったなあ、と全然困った風には見えない笑みで臨也さんは右手を眼前まで持ち上げた。じゃらりと金属が触れ合う音がし、臨也さんの右手の動きにあわせて僕の左手も持ち上がる。彼の右手に巻き付く金属の輪っか、そこから伸びる銀色の鎖が繋がる先はやはり何度見ても、僕の左手首に巻き付く輪っかに繋がっているのだった。
僕は困った、という感想を抱けなかった。冷静に考えてみればこの状況は「困った」という一言に尽きるのだが、あいにくと唐突に目の前で起きた出来事に冷静になれるだけの余裕を、僕は持ち合わせていなっかたのだ。は、とかえ、とかそんな間抜けな空気を口から漏らしつつ、僕は臨也さんの顔と自分の腕と臨也さんの腕を何度も見比べる。
困ったなあ、全然困った風ではない様子でまた臨也さんは呟いた。




春休みに入ったばかりの日曜日は気温こそ春並と呼べるほど暖かいものではなく風もそこそこ冷たかったが、ここ最近の寒波はすっかり形を潜め大分過ごしやすい空気を池袋に齎していた。軽く日が傾き始めた今になっても左程寒さが気にならないのが春の証拠だろう。
三月も終盤、あと一週間もすれば春が訪れあっという間に暖かくなる。そうなれば、あの狭く寒いアパートでの辛い冬越え生活とはやっとおさらばだ。
ちょうど去年の今頃、この街にやってきたばかりの僕は季節を楽しむ余裕を持たなかったから、今年はじっくりと街を眺めてみよう。そんな事を考えながら最寄りのスーパーへの近道を通るため人通りのあまりない路地に足を踏み入れた。そして日が射さない分先ほどよりもひんやりとした空気に肩を震わせる僕の目の前に、その人は現れる。いや、現れたというより彼がいた場所に僕がやってきただけなんだけど。

「やあ奇遇だね帝人君こんにちは」
「こ、こんにちは……」

人当たりのいい笑みを相変わらず張り付けた臨也さんは僕がやってきたのに気づくと、社交辞令そのものな笑みで一息に挨拶の言葉を告げる。彼の姿はぱっと見、また平和島静雄とやり合ったんだな、というのが分かる様相だった。けれど僕が驚いたのは彼の姿そのものではなく、臨也さんの右手で明らかに悪目立ちしている物体が視界に飛び込んできたからだ。僕の不躾なまでに分かりやすい視線に臨也さんもさすがに気づいたのだろう、ああこれ?と自身の右手を持ち上げる。

「仕事でさあ、入り用だったんだよね。だから持ってたんだけど運悪くシズちゃんに見つかってさあ。走り回ったりしてる内に気づいたらはまってた」
「そうなんですか……」

すごく不自然というか違和感というか、臨也さんの右手首で存在を主張するそれは普通に生活している中ではまず間違いなくお目にかかれないものだろう。というかお目にかかるような状況にもなりたくない。そんなものが入り用になる臨也さんの仕事がどんなものかを詮索するのは、止めておこう。
臨也さんの右手にはまっている手錠は、じゃらりと鎖の音を立てながら鈍く光を放つ。右手にかかっている方の輪はしっかりとロックされているようだが、そこから鎖で繋がれたもう一方の輪はただ虚しくぶら下がっているだけだった。
僕は、今ものすごく貴重な光景を目の当たりにしているのかもしれない。片腕だけとは言え、あの折原臨也が手錠をはめている図なんて、きっとすごいレア中のレアだろう。正直に言うと、僕は臨也さんの腕に手錠がはまっているのを見て真っ先に、とうとう警察に捕まった臨也さんが警官を振り切り逃走した図を想像してしまった。本人に言ったらきっと嫌味をこれでもかというほど返されるだろうから、言わないけど。

「帝人君は?どうしたの、こんな夕方に。遊びにて行くには少し遅い時間じゃないかな」
「あ、いえ、夕食の買い物にいくところです」
「ふうん。あ、そう言えばもう春休みなんだっけ?いいよねえ、学生の特権だ。今の内にせいぜい謳歌しておくといいよ」
「……あ、の。それ、外れないんですか?」
「ん?ああ、鍵があるんだけどさ、さっきのどさくさでそれもどっかに落としたみたいでね」

八方塞がりでほんと困ってるんだよなあ、わざとらしく肩を落としながら臨也さんは苦笑混じりに言う。それは気の毒な、と思いながらも、僕はまじまじと手錠に見入った。

「本物は見るの初めてかな」
「あ、はい。おもちゃのなら見たことあるんですけど……」
「興味あるなら触ってもいいよ」
「え、いいんですか?」
「別に危ないものってわけじゃないしね」

はい、と右手を突き出した臨也さんの手首で、ぶら下がった手錠がまたじゃらりと音を奏でる。僕はおずおずと、ロックのかかっていない方の錠を手に取った。
興味がないと言ったら嘘になる。僕自身自分がいかに好奇心旺盛かというのも自覚しているし、普段お目にかかれない何かが目の前に現れれば興味を抱くのも自然なことだ。

「こっちもロックかかるんですか?」
「いや?そっちは壊れてるみたい」
「そうですか」

かちゃかちゃといじりながら、試しに自分の左手首に当ててみる。へえ、結構重いんだなあと感想を抱きながら、刑事ドラマなんかの警察はどうやって手錠をかけていたっけ?と思い返してみた。確かこう、わっかのこの部分を手首に押し当てて、それでそのままがちゃりと……

ガチャリ

「え」
「あ」

確かな金属音を響かせた手錠はばっちりしっかりロックがかかり、僕が輪から手を離しても、ロック外そうとしても、びくともしなかった。そして僕の左手首にはまる錠から伸びる鎖が確かに臨也さんの右手首の手錠と繋がっているのを視線で辿って、冗談ではなく、本気で目眩を覚えた。




「どうしたもんかね」

僕の左隣に立つ臨也さんがそう呟く。壊れてると思ったんだけどなあ、となんとも無責任な発言が聞こえてきたが腹を立てる気にもならなかった。
僕は無意味に左手を揺らしたが、そんな事で手錠が外れるわけもちぎれるわけもない。先ほどよりも幾分落ち着いてきたけれど、やはり夢であってほしいと脳は現実逃避を試みる始末だ。
言葉にするともっと気が滅入るだろうから、あえて言葉にしないけれど、こんな、つまり、その、臨也さんと、繋がれた状態、になってしまうなんて……
当たり前だが、意気揚々と買い物のためにアパートを出てきた約一時間前の僕には予想すら出来ない展開だ。

「鍵はないし片手じゃうまく外せない、引き千切ろうにも鎖は頑丈だから多分手錠よりも先に俺たちの手首の方がイカれるだろうね」
「そ、そうですね……」
「つまり、現状この手錠を外す手だてはない、って事だ。俺たちは暫くの間、この状態で過ごさなくちゃならない」

ああもう!僕があえて言葉にしなかった事実をどうしてわざわざ懇切丁寧に口に出しちゃうんですかあなたは!
と、臨也さんに声を大にして言ってやりたい気分ではあったが、それはまたの機会にしよう。生憎と僕にそんな勇気はない。

「で、でも、鎖を切るくらいならなんとかなりそうじゃないですか?」
「まあそうだね、ペンチとかあれば切るくらいはできるだろうね」
「なら……」

とりあえずどこかでペンチを調達して鎖だけでも切りましょう、そう続けたかった僕の言葉は、臨也さんに華麗に遮られてしまった。

「ごめん、実はまだ仕事の途中でさあ。これからどうしても行かなきゃいけない場所があるんだよね」
「え」
「だから悪いけど付き合ってもらうよ」

すごくいい笑顔でそう言った臨也さんから思わず距離を取る。取ろうとして、じゃらりと左手がそれ以上引っ張れないことに気がついた。

(もしかして僕、とんでもない人と繋がれちゃったんじゃ……)

かなり危ない厄介事と手を繋がれてしまったのだと気付いたが、気付いた所でもう手遅れだった。










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