無様だと思った。散々考えて考えて考え抜いて、思考を巡らし策を巡らし追いつめて、僕ならできる、やれば出来る、絶対にやり遂げて見せると誓いを立てたはずだったのに、いざ現状を目の当たりにしてしまうと体はおろか自分の脳みそすらまともに動かせなくなってしまう僕は、本当に無様だ。きっと、この人もそう、思っているに違いないだろう。

「……どうしたのさ、帝人君」

僕の下で笑うこの人は、自分の置かれている立場と状況をその回転の速い頭でしっかりと理解しながらも、けれども少しも慌てた様子も無く、いつものように底の見えない笑みを浮かべて見せた。

「君が少しでもその手に力を込める、あるいは横に引きさえすればそれで俺の絶命は確実だよ?まあ運よく死ななくとも重体はまず間違い無いだろう」
「っ……」

赤い瞳が真っ直ぐに僕を射抜く。この人はどうして、こんな風に笑っていられるんだろう。いくら僕が見知った相手だとはいえ、僕なら顔見知りの人間に馬乗りになられて首筋にナイフを宛がわれたりしたら、とてもじゃないけど笑ってなんていられない。
臨也さんは、僕を甘く見ているのだろうか。僕が彼を傷つけるはずかないと、そう思っているのだろうか。だったら見くびらないでほしい、僕がここまで来たのは、ここまでしてこの人と相対したのは、それなりの覚悟を持ってしての事だ。何の覚悟も無しにナイフを突き付けたりは、しない。
なのに。

「ほら、早くしなよ帝人君」

臨也さんは笑う。僕を見上げながら、今まさに刺される寸前だとは思えないほど、いつも通りの笑顔で。

駄目だった。無理だった。ナイフを持つ手が震えて体まで震え始めて、それを抑える術を知らない僕はとうとう、彼から奪ったナイフを取り落としてしまった。カラン、とコンクリートの上を滑ったナイフが高い音を立て、しかし廃ビル内の静寂に溶けてすぐに消える。ガラスのない窓から差し込む月の光の中で、臨也さんの赤い目だけが煌めいた。

「っ……はぁ、っく……」

汗が止まらなかった。ついでに言うならば、溢れた涙も、止まらなかった。どうして、なんで、そんな疑問ばかりが頭の中に渦巻く。
覚悟もした、決意もした、誓いも立てた。絶対この人を許しはしないと、そう誓ったはずなのに。この人に一矢報いるのだと、そう決意したはずなのに。この人を傷つける覚悟だって、したはずなのに。

(なんでっ……)

どうして僕は、この人を刺せないんだろう。

「……刺さないの?って、聞くまでも無いか。初めから君には無理だったんだよ、君には刺せない。俺を刺す事なんて、絶対に」
「っ、そんなこと、ない……!」
「じゃあなんでナイフから手を離したの?なんで刺さなかったの?俺を殺す絶好の機会だったのに」

反論なんてできない。刺せなかったのは事実だ。でも認めたくはなかった。涙の止まらない両目を手で何度も拭いながら、僕は奥歯を噛み締める。なんで、どうして。

「あなた、はっ!ダラーズを、正臣を、園原さんをっ……!」
「うん、そうだね。めちゃくちゃにしたね」
「っ絶対に許さない、僕はあなたを、絶対にっ……!」

許さない、許せない。絶対に許してはいけないんだと、この人の所業を全て知った瞬間から湧きあがった深い憎悪にまみれながら、ただ報復する事だけを考えてきた。けれど無理だった。僕には、無理だった。
なんで刺せないんだろう、こんなにも憎くてたまらない。こんなにも許せないと強く思うのに。どうして、僕はこの人を刺せないんだろう。

「帝人君、君はね、俺の事を愛してるんだよ。だから刺せないんだ」
「、ちがう……」
「俺の事が好きで好きでたまらないから、君の友達と君の組織をめちゃくちゃにした憎くて憎くて堪らない俺を、君は刺せない。人を殺すとか刺すとか、そういう覚悟以前の問題だよ」

臨也さんははっきりと、静かに、その声を響かせる。僕にとってみたら、認めたくない事実であるそれを。

「断言してもいい……君は絶対に、俺を傷つける事なんて出来やしないんだ」

ずしりとその言葉が圧し掛かってくるようだった。ただの声、ただの音のはずなのに、それが確かな質量をもって僕に重く圧し掛かる。臨也さんは相変わらず笑ったままだった。僕はみっともなく泣きながら、ただ首を横に振る事しかできない。だってそうだ、僕の大事なものを壊したこの人を刺せない理由が、この人を愛してるからだなんて、そんなの認めない。
認められるはずがない。

「君は怒りのままに人の手にボールペンを突き立てるような人間だ。その君が憎悪の対象である俺を刺す事を躊躇うはずがないだろう?なのに刺せないのは、そう、愛故さ」
「ちがう、そんなことっ……!」
「違わないって」

ぐるりと突然視界が回る。涙で霞んだ視界に次に映ったのは、僕を見下ろして笑う臨也さんと、その背後に広がる廃ビルの天井。先程までは僕が彼に馬乗りになっていたはずなのに、今の一瞬であっさりとその態勢を逆転されてしまったのだと気付くのにそう時間は要さない。
臨也さんは僕が取り落としたナイフを手繰り寄せると、先程の僕と同じように、それを僕の喉元に押し当てた。

「ひっ……!」
「はは、いい顔だねえ帝人君」

ひやりとしたナイフの感触に、一瞬本気で視界が遠のく。少しでも臨也さんが力を入れれば、ナイフは容易く皮膚を切り裂き首の肉を抉るだろう。この人は僕とは違う、ナイフを扱うという事、つまり他人を傷つける事に躊躇するような甘い人じゃない。僕を傷つける事に、この人は何も躊躇いはしないだろう。

「君は多くを知りすぎた。そして力を持ちすぎた。まさに進化、と言ってもいい成長ぶりだよ……まあ、俺にとっては厄介な方向への進化でしかないけど」

なんとか臨也さんの下から抜け出せないかと体を動かそうとしたが、相手は僕より身長も高ければ体格もいい大人の男だ。どこをどういう風に押さえつけられているのかは分からないけど、指先一本だって動かせない。臨也さんは喉奥で笑いながら、その端正な顔を近づけた。

(、こわい……!)

殺される。この人に、殺される。恐怖のあまりひっくひっくとしゃくりあげながら、けれど彼から目をそらせなかった。そらせば容赦なく刺されると本能が告げていたからだ。

「君はもう俺にとってただの駒にしておくには目障りすぎる存在だ。まあ、簡単に言えば邪魔なんだよね。だからここで消しておいた方が今後のためなんだよなあ」
「っ……」
「……その方が俺にとって最良だってのは、分かってるんだけどね」

その時、初めて、彼の顔が変わった。
ずっと底の見えない、人を嘲るような笑みを浮かべていた臨也さんに変化が現れる。
彼は、困ったように笑っていた。ちょっとだけ苦しそうな、自分の気持ちを持て余しているような、そんな表情。仕方ないなあ、と、そんな風に諦めたような苦笑。

「いくら君が目障りで俺にデメリットを齎す存在だとしてもね……刺せないんだ」
「え……」
「情報を操って君を追いつめる事も、こうして君にナイフを押し当ててその首を掻き切る事も、俺には出来ない」

どうしてだか分かる?と臨也さんは僕に問うた。月の光に照らされる彼の瞳が悲しげに揺れているのに気付いてしまって、僕はあ、と空気のような声を漏らす。

「好きだから、君を愛してるから」
「う、そ、だ……」
「嘘じゃないよ……でなかったらとっくの昔に、君の事なんて手放してる」

からんとまたナイフがコンクリートの上を滑る。いつの間にか臨也さんの拘束が緩くなっていて、今ならこの人を突き飛ばして体の下から抜け出せる事ができそうだった。けれど僕にはもうそれが出来ない。あまりに現実味を帯びない展開に、脳が追いついてないというのもある。けれど、一番の理由は気付いてしまったから。

「君と同じだ。君が好きで、好きでどうしようもなくて……だから、傷つけられない」
「っ……!」

気付いてしまった。臨也さんが先程言っていた事が、全て事実であるという事に。認めたくなかっただけで、僕は彼の言う通り、臨也さんの事が、好きなんだと。
この人は最低で最悪で僕の友達にもたくさんたくさん酷い事をした人だと分かっているのに、それなのに、愛してしまった。

「嘘だ……」
「いい加減諦めなよ」
「いやだっ、だって、それじゃ、僕は……っ」

どうしろというのだ。これから僕はどうすればいいんだ。臨也さんが好きだ、たまらなく好きだ、だからこの人の所業を知った時、裏切られたと思ってショックを受けた。許せないと思った。でもやっぱり、好きなんだ。なら、どうすればいいんだ僕は。この人を、許せと言うのか。僕の大事なものを傷つけたこの人を。
そんな事、出来っこない。けど、臨也さんを拒絶する事も出来ない。

僕は、本当に。

(どうすれば、いいんだろう)


「……揃いも揃って、俺達はとんだ愚か者だね」

静かにそう呟いた臨也さんが落とした口付を、僕は拒めなかった。










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