豊かな国だった。俺が生まれ、生を謳歌する国は何世にも渡る王が治め飢餓も貧困も無い、平和で豊かな国であった。
一歩家の外へ出れば道を歩くのは着飾った貴族や国民、街の景観も美しく穏やかな空気を纏うこの国にいさえすれば何一つとして不自由を感じる事のない、安息の一生を約束される。王は国民に対し真摯であり、王族としての責務を全うする今の絶対王政が蔓延する世界の風潮の中では珍しい人間であった。おかけで戦争とか飢え死にとか、そういったもので苦しむ人間はこの国にはいない。俺も安穏と生を甘受する、一人の国民だった。この国に居ればなんでも叶う、王は国民に対しては優しい。善意の塊だ。望む物はなんでも与え、そして民衆から慕われていた。

ただ、王が真摯であり善意の塊である姿を見せるのは、あくまで国民の前だけである。自国の関係しない場所にはとことん無関心で無慈悲で、容赦はしない。王が愛するのはあくまで自分の国だけ。それは当然だった。そういう世の中だったのだ。


だから、たった一つのフェンスを跨いだ先に広がる隣国がどれほどの貧困と飢餓に苦しんでいようとも、王を含め俺たち国民には関係のない事だった。

国の西側一帯に広がるフェンス。そこから先は一歩踏み出しだけで別世界である。煌びやかな此方側の国とは違い、荒廃した土地と寂れた民家が広がるだけ。人の姿は滅多にない。皆家の中に引っ込んでいるのだ。時たま飢えで命を落とした人間の躯がフェンスの傍に転がっている事もある。隣国は小さく弱小であり、また王の手腕もこちらほどよくはなかったらしい。いずれ消える国である事は誰の目から見ても明らかだった。
最も、此方の国に隣国の事情に関心の示すものなどいなかったが。俺以外には。

「君、いつもこの辺に居るよね」

この国の人間は好き好んでフェンスの傍に寄ろうとはしない。明るく煌びやかな街中だけを歩き回る。自分たちの安穏だけにしか関心の無い人間ばかり。
俺は敢えてフェンスの傍に訪れた。周りからそれを咎められる事はない、そもそもフェンスの傍に人はいないのだ、俺がここによく訪れている事を知る人間はいないのだろう。
安穏だけは詰まらなかった。だが国の外に出る気も起きなかった。だから微かな気まぐれと退屈しのぎでフェンスの辺りを歩いては、隣の国を眺めていた。

声をかけた先に居たのは子供だった。薄汚れた外見と浮き出た骨、痩せすぎた体では子供の年齢をはっきりと判別する事は出来ない。まさか声をかけられるとは思わなかったのだろうか、子供は大きな目をぱちくりと瞬いた。

「……貴方も、いつもいますね」
「俺の事知ってたんだ」
「フェンスの傍にいる人は珍しいので」

子供はフェンスに凭れるようにして座り込んでいるのが常だった。そうしている人間は他にもぽつぽつといたが、毎日決まって同じ場所に居るのはこの子供だけである。声をかけたのはそれこそ気まぐれ、だ。

「いつもここで何してるの」
「なにも……家に居てもする事も無いし、殴られるだけだから」
「バイオレンスな家庭なんだね」
「……貧しさのあまり子供に八つ当たりする親なんて、こっちじゃ珍しくないですよ」

僕の友達もその八つ当たりで何人か死にましたし、そう答える子供の目は濁っている。俺はその子供と背中合わせになる様に座り込んだ。

「……なにしてるんですか」
「座ってる」
「どうして、」
「君に興味が湧いたから」

子供は驚いたようだった。微かに背中が震えたのがフェンス越しに伝わる。

「名前は?俺はイザヤ、っていうんだけど」
「……名前は忘れました」
「忘れる?まさか、そんな事ってあるの?」
「何年も何年も呼ばれなければ、忘れもしますよ」
「そっちは大変なんだね、想像つかないや」
「あなたは……いざやさんは、変わった人ですね」

それが子供と初めて交わした話の内容だ。
それからも俺は毎日フェンスの傍まで行った。そしていつものように同じ場所で座り込む子供の近くに腰をかけ、とりとめのない話をした。
彼の国の話、俺の国の話、俺の話。くだらない話をした、住んでいる世界の違いで話がかみ合わない事が大半ではあったが、それでも俺は毎日毎日彼と話をした。いつの間にか退屈しのぎではなく彼と会う事が俺がフェンスまで行く目的になっていた。

暫くたった日の事だった。いつものようにフェンスの傍に座り込んでいた子供の背中が、不規則に揺れている。近づくと酷く咳き込んでいた。

「大丈夫?」
「っ、は、い……」
「風邪かなんか?大変だね」

子供は咳き込み続ける。その様子が尋常ではなく、俺は軽口を叩いていた口を閉じた。子供の背中に向き直り、フェンスをカシャンと掴む。

「ねえ、ほんとに大丈夫なの」
「っ……こっち、最近病気が流行ってるんです……」
「病気……?」
「空気感染はしないみたいなので、安心して下さい」

そう言う事を聞いているんじゃない、俺は苛立ちに任せてフェンスを乱暴に鳴らした。子供は一度だけ肩を跳ねされる。ようやく咳が収まり、彼はこちらを振り返った。その顔色は、驚くほど悪い。

「何人も、その病気で死にました。僕の親も……」
「……なんだよ、それ」
「次は、僕の番みたいですね」

力無く子供は笑う。俺は気付いていた、色の無い濁った目をしていた彼がここ最近、微かながらも瞳に光を宿らせ、俺の話を聞いていた事に。
だからこそ、その瞳を、もっと近くで見ていたいと思うようになったのだ。この時になって俺はようやく自覚する。自分はこの子供に惹かれているのだと。

「嘘だろ、それ、そんなのっ……」
「いざやさん……?」
「……俺さ、君の事、好きなんだ」

子供はその大きな瞳を命いっぱい見開いた。そんなこと初めて言われましたと、弱々しく呟く。カシャンと、フェンスを握り込んでいた俺の指に彼の指が触れる。思えば、触れたのは初めてだった。

「うれしいです、僕。僕も、いざやさんのこと、好きです」

嬉しそうに、幸せそうに笑う彼の瞳には涙が浮かんでいた。俺は初めて、このフェンスが憎いと思った。そしてこの国が憎いとも思った。この子に何もしてやれない国も王も、そして自分も、酷く憎かった。どうにかして助けたかった。この憐れで惨めな子供をどうにかして抱き締めたかった。でも出来ない、俺は無力だったのだ。

(……ちくしょう、)

だから俺は、とうととう神様とやらに祈るほかなかった。神は人を救う、神は平等で慈悲深い存在、神は完全にして万有、それが神様なのだと言われている。宗教を信じていたわけではない、普段から神を讃え崇めていたわけでもない、けれど俺は他に頼れるものを知らなかった。何でもよかった、この子を救ってくれるのならなんでも。

(何を犠牲にしてもいい、だから、どうか……)

この子供だけは助けて下さい、神様。




次の日、その次の日、それからずっと。
子供が俺の目の前に現れる事は、二度と無かった。







「輪廻転生とかも、やっぱり信じてないんですか?」

昨晩見たテレビの内容を思い出し、何となしに尋ねてみた。臨也さんはデスクでパソコンを操作していた手を止め、急に何?という顔をする。

「無神論者な臨也さんは、やっぱり生まれ変わりとかも信じてないのかなあと思って」
「……極論だね。まあ確かに俺は無神論者だよ。っていうか神様なんて信じてる奴の思考が理解できないけどね」
「そうなんですか?」
「まあ信じる信じないは人の自由だからどうこう言うつもりはないけど……俺は絶対、あんなもの信じない」

珍しいな、と思った。基本的に感情を人に悟られる事はあまりないだけに、臨也さんがはっきりとした苛立ちや憎悪を滲ませているのは本当に希少な事だ。それくらい、何か神様に恨みでもあるのだろうか。

「神様を信じていないって言うよりは、嫌いなんですか?」
「……そうだね、大嫌いだね。俺が救いたいと思った一人すら、見殺しにしたんだから」

何だか物騒な話である。一体全体それはどういう事なのか、は、怖くて聞けなかった。聞いてはいけないような気がして、僕は慌てて話題を戻す。

「じゃ、じゃあやっぱり輪廻転生も信じてないですよね?」
「……いや、それは信じてる」
「え?」
「信じてるっていうか、信じざるを得ないっていうか……」

自分が生き証人だしなあ、なんてぶつぶつ呟いている臨也さんの言葉も意味は分からなかったけど、その返答は正直意外だ。無神論者のくせに輪廻転生は信じているなんて、おかしな人である。いや、この人がおかしいのは今に始まった事ではないけれど。

「まあ、今が幸せならどうでもいいじゃない、そんな事」
「は、はあ……」

臨也さんが笑顔で無理矢理そう話を纏めるから、その話は変な形で終わってしまった。話を振ったのは僕だったはずなのにどこか釈然としない思いを抱えながら、僕はそれっきり口を噤ぐ。深く追求してはいけないと、なんとなく思ったからだ。

ただ、少し様子のおかしかった臨也さんはその話の最後に、懐かしいような愛しいような、そんな目で僕を見つめて、一言呟いた。

「……また次も、会えるといいね」

今度こそ幸せな形で。
彼はそう、笑った。











第3回BLove小説・漫画コンテスト結果発表!
テーマ「人外ファンタジー」
- ナノ -