「さすがに海の近くは涼しいね」

臨也さんはぽつりとそう漏らして、彼の膝を枕にして横たわる僕に上着をかけてくれた。僕はゆっくりと閉じていた目を開ける。九十度傾いた視界に映るのは夜空と、そして群青色の海。

「……いざやさん、」
「ああ、ごめん。起こした?もう少し寝ててもいいよ」
「いえ……目を閉じていた、だけなので」

少しだけ身じろぎして臨也さんの顔を見上げる。臨也さんは疲れたような顔をしていたけれど、それでも微かに笑って僕の頭を撫でてくれた。
砂浜とアスファルトの道路の境にある、コンクリートの階段。その一番上の段に臨也さんは腰を下ろして、そして僕は臨也さんの膝を枕に寝転んで、ただ静かに夜の海を眺める。

「……昼間に見る海と夜に見る海って、違うよね」
「そうですね……なんか、夜の方が、ちょっと怖いです」
「こわい?」
「なにか……出てきそうで」

臨也さんは僕の言葉に小さく吹きだすと、くくっ、と喉奥で笑い声を響かせる。そんなに笑わなくても、とむっとするが、自分でも些か恥ずかしい理由なのは自覚しているので、僕は臨也さんの膝に顔を押し付けた。

「そうだね、黒いし底が見えないし……確かに、何か出てきそうだ」

さらさらと臨也さんの指が僕の髪を行ったり来たりする。潮の匂いを孕んだ夜風が心地よくて、体に掛けられた上着をぎゅっと握りしめた。膝を抱えて、これ以上ないってくらい小さくなる。震えそうな体を、気付かれたくは無かった。

「……夜は好きだよ。特にこういう、静かな場所の夜はね」

俺達の姿を隠してくれるから、そう呟いた臨也さんに僕は泣きそうになる。髪を撫でてくれている臨也さんの手を掴むと、強い力で握り返された。

どのくらいそうしていただろう。

「……これ以上は冷えるから、車に戻ろう」
「……は、い」

臨也さんに促されて、僕は彼の膝から顔を上げる。ぐすっと鼻を啜ると、泣かないでよ帝人君と臨也さんが苦笑した。

「俺まで泣きたくなっちゃうよ」




運転席と助手席ではなく、後部座席を倒してスペースを広くした後ろ側へ僕らは乗り込んだ。海のすぐ傍の道路に停めていた車はそれなりの大きさのワゴン車で、シートを倒してしまえば僕ら二人が寝転がるのも容易い。

覆い被さってくる臨也さんの体をこれでもかというほど強く、きつく抱きしめる。離れないでと、そう口にしてしまえればどれほどよかっただろう。そんな願望を口にした所で、状況が変わる事は決してないとしても。

「帝人君、そんなにくっつかれちゃ動きにくいよ」
「っ……」

やんわりと体を離そうとしてくる臨也さんに、いやいやと首を振って離れないと意思表示をした。臨也さんは困ったように笑ってから、密着して動きにくいだろうにそれを咎める事もせず僕の服に手をかけた。

「……っ、ふ、」

シャツを脱がされて、素肌に臨也さんの掌が宛がわれる。脇腹から腰、胸を撫でるその動きがいつもより丹念でまるで僕という存在を確かめるみたいだっから、僕はもう耐えきれなかった。我慢に我慢を重ねた涙が、溢れる。

「っい、ざやさんっ……」

ひっくひっくと喉を鳴らして、それでも彼の名前を呼んだ。強くきつく臨也さんの服を握りしめる。臨也さんはまた困ったように笑って、殊更優しく僕の頭を撫でてくれた。

「ごめんね、帝人君」
「っ、あやまる、くらいならっ、いかないで、ください……!」
「うん、ごめんね。それでも俺は、謝る事しかできないからさ」

僕の懇願を聞きながら、臨也さんも苦しそうに顔を歪めた。
わかってる、臨也さんも辛いんだって事、そんなの僕が一番よくわかってる。でも、だけど、分かっていても、認められない事っていうのもこの世にはたくさん存在して、受け入れられない事っていうのも人にはたくさんあるんだ。

「っいやです、いかないでっ……おねがいっ……」

子供の我儘なんだって自覚はあった。こんな事言っても臨也さんの決意を鈍らせるだけだし、臨也さんの心を大いに傷つけるだけだって事も理解していた。それでもやっぱり先にも述べた通り、人にはどうしたって受け入れられない事はたくさんある。
今この状況は、僕にはどうしたって受け入れられない事なのだ。

「帝人君……ごめん、帝人君、」

号泣する僕の目元に口付ける臨也さんの声は、震えていた。泣きだす直前みたいな苦しげな表情に、胸が引き千切れそうな位痛む。

「それでも、君がどんなにそれを望んでも……俺は、もう東京にはいられないからさ」

だから、ごめんね。


臨也さんは、優しかった。その日はとても優しく、僕を抱いてくれた。丁寧に愛撫をして、前戯だけで何度も達して思考をぐちゃぐちゃに溶かされて、後ろを解される頃にはもう僕はただ泣いて臨也さんの名前といかないで、を繰り返す事しかできなくて。

「ふぁ、ああぁっ……いざや、さんっ、いざっ、」
「うん……帝人君、」
「いざやさんっ、すき、すきですっ……ずっと、すきっ」
「俺も、好きだよ」

ぐちゃぐちゃと狭い空間に水音が響く。常ならば僕の羞恥を煽るだけのその音すら、今は悲しみしか生まなかった。
これが最後の行為なんだと、そう実感させられるようで。

「う、あっ!ひっ、いざや、さんっ……!」

奥を穿つスピード速くなって、必死に臨也さんの体に縋りつく。体は気持ち良さに打ち震えているのに、心だけは杭を打たれたみたいに痛くて痛くて、仕方ない。

「あ、やっ!ゃあっ、いざっ……だめ、ゃうっ!」
「帝人君……」

シートがぎしぎしと音を立てる。目の前に迫った限界に、僕は心の中だけで嫌だと必死に抗った。この行為が終われば、それで僕らのこの短い逃避の時間は終わってしまう。まだ一緒に居たい、ここから離れたくない、臨也さんと離れたくない。
行為の終わりなんて関係なしに時間は進んでいるのに、それでも僕は、まだ臨也さんの熱を、体温を、匂いを、声を、感じていたかった。

「いざやさっ……あっ、ひゃっぁあ!」
「くっ、ぅ……」

ぐりぐりと前立腺を抉られ、僕は耐えきれずに涙を散らしながら達した。ほぼ同時に中が熱で満たされていくのを感じて彼も達したんだとぼんやり思う。
荒い息と噎せ返る青臭い匂い、そして汗臭さが、行為の余韻を一層強く僕の脳裏に刻みつけていった。

「みかどくん……」
「い、ざ……やっ、さん……」

汗で貼りつく前髪を払われる。見上げた臨也さんは僕と同じように汗ばみ上気した頬で、酷く優しげに、愛おしげに、笑って見せた。

「あいしてるよ、帝人君」

涙は、最後まで止められなかった。




帰りの電車の中で、僕らは無言だった。
あのワゴン車は足がつくと不味いからという理由であの場所に捨て置いてきた。最初からそのつもりだったのだろう、臨也さんは始めから心変わりする気なんてこれっぽちもなく、最後の時間を、僕と過ごすために使ってくれだのだ。

段々と赤らんでくる空に、日の出が近い事を悟る。
都心に近付いていくにつれ電車の中に人は増えていったけど、僕らはその間一度も繋いだ手を離さなかった。

「……荷物、これで全部ですか」
「うん」

池袋駅まで僕を送り届けた臨也さんは、コインロッカーに預けていた荷物を取り出して時計を覗きこんだ。時刻は、そろそろ朝の六時になろうとしている。

「ここまででいいよ」
「いえ……中まで、いきます」

改札を抜け、朝だからか人の多くないホームに並んで立った。あと三分もしない内に電車が来る。そうすれば、もう僕らは、一緒にいられない。

本当なら、僕も臨也さんについていきたかった。それが僕の本心で本音で、嘘偽りない自分の心であるのに、それを彼に告げたら、駄目だよと首を横に振られた。

(この街には、君の大事なものがたくさんあるだろう?)

その通りなのだ。僕は臨也さんにみたいに全てを捨てていけるほどの勇気も度胸も無くて、まだ捨ててはいけないものがこの街にはたくさん残っている。
友人、知人、仲間、家族、居場所。
そのどれもを、僕は手放す事が出来ない。

ホームから吹きつける風は生ぬるく、ひらひらと臨也さんのパーカーの裾を揺らした。

「帝人君、あんまり夜更かししちゃだめだよ」
「……しませんよ」
「あと危ない事も。好奇心旺盛なのは結構だけど、所詮君はただの高校生なんだから」
「……わかってます」
「俺は……もう、助けてあげられないしね」

ホームにアナウンスが響く。僕は咄嗟に臨也さんの服の裾を掴んだ。

「……臨也さん」
「なんだい」
「ぼく……ぼくはっ、」

それ以上は言葉にならない。言いたい事はたくさんあるのに、そのどれもが嗚咽にしかならなかった。
ホームに電車が入ってくる。時間だ。

「帝人君」

僕の体を離しながら、臨也さんは真正面から僕と向き合った。その顔はやはり疲れと、そして悲しみに満ちている。

「俺はもう表に顔を出せなくなる。日本からも出ていくつもりだから、きっともう、君と普通に顔を合わせる事はない」
「っ……」
「でも、」


「君が、それでも俺を望んでくれるなら、その時は……」


臨也さんが電車に乗った。拭っても拭いきれない涙もそのままに、僕は臨也さんをただずっと、見つめる。

「いざやさんっ」

ドア越しでは僕の声も届かないだろう。案の定、臨也さんに僕の声は届かなかったみたいだけれど、僕の唇の動きで何を叫んだかは察したらしい。酷く顔を歪ませながらも、臨也さんは笑って手を振った。その唇が、小さく動く。




電車の見えなくなったホームで、僕はただ只管に泣き続けた。
最後に臨也さんが紡いだ言葉が、どうか「さよなら」ではない事を願って。











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