「そういや静雄、最近幽から連絡あったか?」

予想よりも早めに仕事が片付き、それならこれから飯でも食いに行くか、という話になったところで己の上司であるトムはそんな事を口にした。
突然飛び出した弟の名に意図を測りかねて首を傾げるも、静雄は素直に返答する。

「幽からっすか?いや、特には無いっすけど……どうかしたんすか」
「いや……昨日、ってか今日だけど、偶然会ったからさ」
「幽に?」

おう、と頷くトムに静雄は黙り込む。こっちに来ているなら顔ぐらいに見せに来てくれればいいのに。最近連絡が無いのも心配だった、また無理しているのではないかと気が気ではない。
あの弟は自分の事には無頓着な節が昔からあった。俳優という職業に就いてからは自己管理も仕事の内のため幾分かは改善されてきてはいたが、それでもやはり元来からの性格を完璧に矯正する事は難しい。誰かが注意してやらなければ、幽はどこまでも突っ走る。自分は全く省みないで。
静雄が普段からそれなりの頻度で連絡を取り合うようにしているのは、そういった理由からだ。自身の体調を蔑ろにしがちな幽に休息を促すのはもはや兄である静雄の役目となっている。

「まあ本当に偶然だったんだけどな。静雄が気にしてた、って言ったら今度連絡するって言ってたぞ」
「そっすか……」
「最近忙しかったらしいからな、あんま気にすんなよ」

ぽんぽんと静雄の肩を叩くトムは、ふわぁと大きな欠伸をしながら目を擦った。その様子にそういえば、と静雄は思い出す。昨夜は別件があるとかで静雄が上がった後も仕事に繰り出していたトムは、そのせいだろう、今日の朝からずっと眠たそうにしていた。

「寝不足っすか」
「あー、まあな。昨日の遅くまでかかっちまったから……」
「やっぱ俺も行った方がよかったっすか?」
「いんや、話し合いだけだったし、大丈夫だったよ……他にもやる事あったから遅くなっただけだし」

横断歩道の信号が青に変わる。歩みを進めながら、そんなに寝不足ならば無理矢理飯に付き合わせるのも悪いのではと静雄は考える。話を聞くと結局帰宅したのは日付もとっくに変わった後だったらしいから、きっと何時間も寝ていないはずだ。
今日はもう帰って休んだ方がいい、静雄がそう口にするよりも先に、トムがやけに真剣な声で話しだした。

「なあ、静雄」
「なんすか」
「幽の事、よく見ててやってくれ」

トムの言葉に静雄はえ、と目を見張る。

「……どういう、事っすか」

自分の声が震えそうになっていた事に、静雄は気付く。
普段滅多に見ない重々しいトムの様子に、静雄は嫌な予感しか感じなかった。嫌な予感と言うか、胸騒ぎと言うか。
上司がこうして真剣な瞳を覗かせる事は、珍しい。だからこその胸騒ぎ。弟が関わっているとなれば尚更だ。

「……いんや、昨夜会った時疲れてるっぽかったからさ。無理、させないようにしてやってくれ」

しかし、トムはそれまでの真剣な様子がまるで嘘だったかのように相好を崩して見せた。それにまた違和感と胸騒ぎを覚える。
一瞬だけ垣間見えた上司の深刻な表情。直感だったが、こういう時の静雄の勘程よく当たるものはない。

すぐさま携帯を取り出す。時刻は午後七時前。仕事中かどうかも分からないが行動せずにはいられない。弟の番号を呼び出し発信しようとした所で、

「……、」

メールの着信音が鳴った。






「にい、さん……」

玄関を開けて静雄の姿を見た途端、弟の体と表情は大袈裟に強張った。まるで怯えるように自身を見上げる幽の姿に、怒りがまたふつふつとわき上がる。だが不思議と常のように怒りのままに衝動的に暴れる、という行動を起こすには至らなかった。
それが何故だかは分からない。理由は知れないがと、頭は冷静だった。人間は混乱の境地や怒りの頂点に立つと逆に冷静になる、という話はあながち嘘でもなかったらしい。

「幽、」

扉に手をかけて無理矢理中に入り込む。幽はびくりと震えて後ずさった。
室内は夜だと言うのに明りはついておらず、今の今まで彼が寝ていたらしい事を物語っていた。乱れた髪の毛や皺の寄っている上着から、恐らく昨日帰宅してからそのまま眠ってしまたったのだろう。
だが、彼の手には携帯と財布が握られていた。身なりも整えずに、何処かへ出かけようとしていた。

繰り返すが、こう言う時の静雄の勘は、よく当たる。

「……さっき、メールが来た。知らねえ奴からだ」

がちゃん、と後ろ手で扉を閉める。暗がりの中でも分かるほど、幽は動揺を露わにしていた。
恐らく、彼は分かっているのだ。静雄が受け取ったメールがなんなのかを、静雄が何を言いたいのかを。静雄が、これ以上ないくらい怒っている事を。

静雄の元に届いたメール。アドレスは見覚えのないもので、本文も無い空メールのようなものだった。だが、そこに添付されていた画像を見た瞬間、冗談でも何でもなく目の前が赤く染まった。それくらい一瞬にして、怒りに支配されたのだ。

画像は、静雄がこの世で一番大切にしている弟が、犯されている写真だった。

静雄は無言で手を伸ばす。幽の腕を掴むと来ていた上着を無理矢理脱がせた。そのまま体を壁に押し付けてインナーを捲り上げる。幽が息を飲む気配がしたが、そんな事よりもその体の惨状に静雄は目を見張った。赤や紫や青の痣が無数に散る、痛々しいそのありさま。みしりと、意図せず幽の腕を掴む力が強くなった。

「幽、何で言わねえんだっ」
「あ……」
「何で、言ってくれなかったんだよ!俺は、俺はそんなに頼りない兄貴なのかっ!」
「ちが……」
「お前にとって、俺はその程度の奴なのかよ……!」

幽を犯した連中にも、もちろん殺意のような怒りを抱いている。だがそれと同じくらいに悔しさややるせなさも、感じていた。
悲しかったのだ、幽が自分に打ち明けてくれなかった事が。幽が望むなら、静雄はなんでもしてやる。してやりたいと思っている。もっと頼って欲しいと思っている。
そう思っているからこそ、幽から何も言われなかった事が悔しかった。
いや、結局はただの自己嫌悪に過ぎない。弟の身に起きている事に気付いてやれなかったのは、静雄の責任だ。もちろん幽が意図的に悟らせないようにしていたのだろうが、自分がもっと早く気付いてやれれば幽の苦しみを少しでも和らげてやれたはずだ。

幽の首元に顔を埋めながら、静雄は嘆く。自分の無力を、弟から求められなかった事を。もっと自分が強い兄だったならば、こんな事にはならなかった。
幽を、助けてやれたはずだ。

「違うっ!」

家中に響き渡るほどの叫びに、静雄ははっとして顔を上げた。弟の顔を覗きこんで、そして絶句する。

泣いて、いたのだ。
ぼろぼろと、両の瞳から大粒の涙をこぼして。

「兄さんが頼りないなんて、そんな事ない!……っ、にいさんに、嫌われたく、なかったからっ……」

嗚咽の合間から零れる幽の本音に、静雄はまた言葉を失う。
大好きな兄だからこそ、言えなかった。知られれば、軽蔑されるかもしれない。知られれば、見放されるかもしれない。それがずっと、怖かった。
怖くて怖くて、だから言えなかった。

幽は体を震わせて、そう語る。

(……馬鹿か、こいつは)

泣きじゃくる弟の体を抱き寄せる。強く強く腕の中に閉じ込めて、一部の隙も出来ないように体を密着させた。
震える体が、愛おしい。自分の力を怖がらず、受け入れて、ずっと傍に居てくれた弟を、こんなに愛しいと思うのに。
自分が彼の事を嫌って、見放して、軽蔑するなんて、そんな事ありえないと言うのに。

「馬鹿野郎……この、馬鹿やろうっ……!」

頑丈でも無い体であんな事をされて、それを一人で抱え込んで、耐えて、兄から嫌われる事に怯えて怖がって、泣いて。

どうして、この弟はこうなのだろう。何でこうも自分を蔑ろにするのか。

「俺は、お前が大事で、大事で大事でしょうがねぇんだよ……嫌うとか、んな事はありえねぇ」
「っ、に、さん……」
「だから、黙ってんな。黙ってられる方が、余計……辛い」
「にいさん……」

静雄の胸で泣きながら、幽は小さく、涙声で呟く。

「ごめん、なさい……」


昔、だった。静雄も幽も小学生の頃、その性格からか弟は上級生に目を付けられていた時期があった。いじめなど、よくある話と言えばそうだったのかもしれない。ただ、何人かの上級生に囲まれて暴力を振るわれていた弟の姿を見た時、静雄は誓ったのだ。

この弟は、自分が守らればならないと。

その時は結局静雄が助け、それ以降幽がいじめを受ける事は無くなったが、暫くは包帯とガーゼまみれだった弟の姿に、静雄は思ったのだ。この人間は酷く脆い存在なのだと。だから、絶対、自分が守るのだと。

(……幽、ごめんな)

守ると誓いながら、守る事が出来なかった。元々心身ともに疲労もピークだったのだろう、泣き疲れて再び眠ってしまった弟の髪を梳きながら、静雄は強く決意する。


今度こそ絶対、お前を守ってみせる。










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