「ふざけんなよ」
兄から暴力を振るわれた事は、多分無かった。取っ組み合いの喧嘩程度なら何度か子供のころに体験している。その時もそうだが、静雄が幽に本気でその力を行使すると言う事は一度も無かった。生まれてきてから、一度も。
(いた、い)
これは暴力に入るのだろうか、と考えて幽は自分の右手首を恐ろしい力で掴んでいる静雄を見上げる。尋常な力ではない。冗談でも比喩でもなく、骨がみしみしと音を立てて軋んだ。
珍しく本気で怒っているらしい兄は、自身が有する力を惜しみも無く放出して幽の手首を捻り上げる。いや、恐らく手加減はされているのだろう。でなければ幽の細腕などとっくに折られている。
「兄貴、痛い、」
「うるせえ」
ぐしゃり、静雄の足元から音がする。目線だけを下げるとそこには踏み潰されたビニール袋が転がっていた。先程幽が兄の家を訪ねる際に持ってきたものだ。そういえば、兄がこんなにも激怒したのはこの手土産が原因だったんだと思い出す。
「あいつには、」
すごむような静雄の声に、しかし表面上は眉の一つも動かさずに幽は兄の瞳を見返した。
「絶対関わるんじゃねえ」
本当に、腕を折られるかと思った。
「ふーん、それじゃあその手首はシズちゃんの仕業なんだ」
折原臨也はけらけらと愉快な様子で声を上げた。幽は包帯の巻かれた自身の手首をちらりと一瞥すると、目の前の青年に顔を向ける。
路地に入ったところで声をかけてきたのは臨也の方からだった。先日のお土産はお気に召してもらえた?と尋ねてきた彼にいいえ、と首を振ると臨也はやっぱりという風な笑みを浮かべる。
「怒られたんだ」
「はい」
「可哀想に、痛いだろ?」
「……いいえ」
「君は良い子だね」
あいつとは大違いだ、臨也は笑った。何が楽しいのか、兄が心の底から嫌悪しているらしい青年の言動や思考は、幽には全く理解が及ぶものではなかった。ただ、兄がいつしか言ってくれたようにこの人には関わるべきではないと、それだけはなんとなく感じ取れる。
「すいません」
「え?何が」
「……折角頂いたプリン、駄目にしてしまいました」
「ああ、そんな事。別にいいよ、こうなるのは分かってたし」
先日、幽は臨也からプリンを貰った。何故彼がプリンを持っていたのか、何故それを持って幽の前に現れたのか、そして何故それを「シズちゃんと食べなよ」と言って幽に渡してきたのか。その時は分からなかったが、今は薄らとその理由が分かる気がした。
(こうなる事を、この人は予測してたんだ)
兄が怒った原因は、幽が臨也から受け取ったプリンを手土産として持っていったからだ。伏せていれば問題は無かったのだろうが、幽は律儀にもそれを臨也から貰ったのだと言ってしまった。結果、腕には痛々しい痣ができ、貰ったプリンは静雄によって見るも無残に踏み潰された。
兄は心底、この人の事が嫌いなのだなと幽は思う。学生の頃も毎日のように青筋を立ててはイラついていたし、そんな相手からのプリンなど、触れるのも汚らわしいといったところだろうか。
「ああ、それは違うよ」
「え?」
「シズちゃんが怒ったのは俺からのプリンが理由じゃない。君と俺が接触した事が理由だ」
「…………」
「気に入らないんでしょ、君に俺が近づくのが」
わかりやすねえシズちゃんは、臨也はくるりと背を向けるとそのまま立ち去って行った。まるで暇潰しに飽きたと言わんばかりに。
だが、臨也は少し歩いたところで立ち止まる。肩越しにこちらを振り返ると、
「あいつ独占欲強いみたいだし、壊されないように気をつけなよ。俺は君の事は気に入ってるから」
今度こそ姿を消した。取り残された幽はぽつんと、そこに立ちつくす。
(俺は、兄貴になら、)
壊されても、構わない。
包帯の巻かれた手首を持ち上げる。痛みはまだ引かない。それでも、これが不器用な兄と不器用な自分を繋ぐ、唯一の証なのだ。
幽は歩き出す。包帯の巻かれていない左手にはプリンの入った袋がぶら下がっていた。
今度こそ兄と二人で食べようと、家路を急いだ。