さすがにみっともなかったなあ、と後になって湧いてきた羞恥を自覚しながら、暫くがたった。
僕がみっともなく赤子のように泣き喚いてしまったあの日、臨也さんは呆れる事も怒る事も同情する事も無く、僕の傍に居てくれた。ただ話を聞いてくれるという行為は、僕にとってのたった一つの救いだ。彼はあの日も変わらず、そう接してくれた。
ちょっと、少しだけ、いや実はものすごく、臨也さんを頼りにしている自覚はある。臨也さんが僕よりも年上で大人というのもあるし、何より彼は聞き上手で話上手で、そして僕に対して好意的だった。理由は分からないけど、とにかく優しい。だからついつい彼に頼りきりになってしまう。それではいけないと、自分でなんとかしなければいけないと思う心は確かにある。
臨也さんに迷惑はかけたくない、そう思うのに、彼は少しもそんな素振りを見せないから、僕はまた甘えてしまう。頼ってしまう。悪循環だ。
そんな臨也さんに本格的に泣きついてしまった先日の出来事は、いよいよ本気で僕にとってはアウトな出来事だった。絶対あれは、臨也さんでも引いたんじゃなかろうか。
(高校生にもなって号泣だなんて……)
穴があったら入りたい。地中深くに埋まってしまいたい。
僕は一体どんな顔をして臨也さんと会えばいいのか、てんで分からないのだ。お礼を言うべきか、何事も無かったかのように接するべきか。
そんな事をぐるぐる悩んでいる時に限って、臨也さんとはあれから顔を合わせていない。それはそれで好都合だった。時間が解決してくれる事というのはよくあるし、僕は僕でもう少し自分の気持ちに整理をつけたいから。
(このまま臨也さんに頼りきってちゃ、駄目だ)
自立しなきゃ、そうしなければいけない。臨也さんのためにも自分ためにも。
そんな事をつらつら考えながら歩いていると、それは突然現れる。路地からにゅっ、と出てきた腕に首根っこを掴まれ無理矢理引き込まれた。突然過ぎて悲鳴も出ない。
呆気にとられていると今度は腕を引っ張られて路地の奥へ投げ込まれる。尻もちをつくまではいかなかったが、ちょっとふらついた。
振り向くと、そこにいたのは案の定というか、臨也さんだった。
「臨也さん……」
また怖い不良達に囲まれたらどうしよう、と無意識に警戒していた体が彼の姿を視界に入れるなりほっと弛緩した。
臨也さんは珍しい事にフードを被っている。今日はそんなに寒い日でもないのにどうしたのだろうか。纏う雰囲気も、いつもりちょっと鋭くて、僕は首を傾げた。
臨也さんの瞳が、フードの中からこちらを伺う。その光に気圧されながらも、僕は気付いてはっとした。
「臨也さん、どうしたんですかその怪我!」
「ああ、これ?大したことないよ」
「大した事大ありですよ!血、出てるじゃないですかっ」
フードを被っていたのは怪我を隠すためだったのかと納得する。そのくらい、酷かった。頬には痣が出来てるし口の端は切れている。瞼の上からは血も出ていた。顔だけじゃない、上着の方もぼろぼろで、多分体のあちこちに傷を負っているのだろう。
僕はハンカチを取り出して、それを痛そうな瞼の傷に押し当てた。赤く染まる布に怖気づきそうになるのを堪える。
「なんで、こんな怪我……」
「……ちょっとシズちゃんとやりあっただけだよ」
本気の殺し合いをね、呟く臨也さんの瞳にぞくっとした。臨也さんが静雄さん相手にこんなに怪我をするなんて、珍しい。それだけ本気で、本気の、戦争。殺し合い。
「ああ、だから気にしなくていいよ。あいつの体にも散々切り傷付けてやったから」
頑張れば刺さるもんだよ、ナイフも、なんて笑う臨也さんは、確実にいつもの臨也さんじゃない。冷汗が流れる。さりげなく距離を取ろうとすると、ハンカチを押しつけていた腕を掴まれた。
「っ!」
「まだ、あいつの事好き?」
「臨也さん……」
「答えろよ」
ぞっとするほど臨也さんの眼は凍っていて、僕は肯定も否定もできない。怖い、それだけが頭を占めて、体が勝手に震える。こんな臨也さん、僕は知らない。それとも、この臨也さんが、本当の臨也さんなんだろうか。
僕が何も答えないのに焦れたのか、臨也さんがチッ、と舌打ちをした。それがまた怖くて肩が跳ねる。掴まれた腕は痛かった。よくよく見ると、僕の腕を掴む臨也さんの手の甲にも切り傷がある。それを告げようとしたら、強引に引っ張られた。
キス、された。
「っ、――――!?」
血の味が口の中に広がって、それを飲ませるかのように舌が割り入ってくる。僕は動けない。血の味に怯んだのもあるし、初めて交わした口付けががっつくようなものだったから怖かったのかもしれない。
とにかく、不躾な舌を追い出す事も出来なくて、僕はされるがままだった。
「ぅっ、んっ……んぅ!」
髪の毛に差し入れられた臨也さんの指が緩く耳を擽って、項を摩る。それがくすぐったくて恥ずかしくて、でもどうしてか心地よくて、体が一気に熱くなった。
僕はこの時、完全に考える事を放棄していた。何故臨也さんがこんな事をするのか、どうして僕は抵抗しないのか、抵抗するべきだ、そんな考えは一切頭に無い。本当にただされるがまま。
口が離されて、唾液が糸のように僕と臨也さんの唇を伝う。それがまたとんでもないほどの羞恥を喚起させた。いつの間にか両腕でしっかりと拘束されていた体は離されない。未だに息がかかるほどの距離で、臨也さんは僕を見る。
「俺は、君が幸せならそれでいい」
「え……」
「けどさ、もう駄目。君が悲しむからとかそういう事考えるの止めた」
体を押される。背中が行きついたのは壁だ。上半身も下半身も密着して、臨也さんの顔がまた近づく。けれどキスはされなかった。不自然に近い距離のまま、彼は苦しそうに、痛そうに、歯痒そうに、唇を歪めた。
「あいつの事こんなに殺したいと思ったの初めてだよ。まあ結局仕留め損ねたけどさ……ほんと腹立つ」
「いざや、」
「君が誰を好きとか、そういうのもうどうでもいいから……俺は君が好きだ」
紡がれる言葉も、見た事の無い怖い眼差しも、密着する体温も、全部が全部遠いもののように感じられた。ぱさりと、握っていたハンカチが僕の手から落ちる。
「俺なら絶対君を泣かせたりしないのに……何で、あんな奴の事好きなのかなあ君は」
臨也さんの顔が僕の肩に埋められた。苦しいほどの抱擁。でも、臨也さんの体は震えている気がして、僕は何も言えなかった。
(好き……?臨也さんが、僕を……?)
僕には好きな人がいる。それは臨也さんも知っている。だって、僕はずっとその人の事を臨也さんに相談していたのだから。
もしかすると、もしかして、臨也さんはずっと、僕に対してそんな想いを抱えながら相談役を続けてくれたのだろうか。ずっとずっと、その気持ちをひた隠しにして――――
(あ……)
どうしてだろう。悲しい事は何もないはずなのに、涙が溢れた。
不審がった臨也さんが顔を上げをようとするのを、首に腕を回す事で止める。
「帝人君……」
「臨也さん……ごめんなさいっ、」
まるで先日のようだ、と僕は思った。僕が泣いていて、ごめんなさいと彼に謝って。
違う事と言えば、あの時僕が言ったごめんなさいは泣いてしまってごめんなさい、という意味だったけれど、今言ったごめんなさいは、臨也さんの気持ちに全然気付かなかった事へのごめんなさいだったという事と、
あの日は背中合わせだった臨也さんの温もりが、今は向かい合って僕を包んでいるという事。
「ごめっ、なさいっ、ごめっ……」
「帝人君、」
好きなんだ、俺。だから、泣かないでよ。
(そんな声で言われたって、泣き止めないですよ)
僕は何でこんなにも泣いてるんだっけ。
そんな事も分からなくなるくらい、ただ、この温もりが、愛しいと思ってしまった。