「……珍しく君がここに来たと思ったら、そういう事情だったわけか」
「すいません、いきなり押し掛けて……」
「気にしなくていいよ。君のお父さんにはお世話になったし、患者を診るのが私の仕事だからね」

僕の住む家から街寄りの位置にある一軒家。早朝にも関わらず門扉を叩いた失礼な僕を非難する事も咎める事もせず、中から出てきた岸谷先生は僕を中に招いてくれた。

「悪鬼とは……これまった厄介なものが出たね。その毒ともなれば猛毒だ、下手な低級妖怪は触れただけで腐敗する」
「っ、じゃあ、」
「ああ、安心して。君にとり憑いてるっていう妖狐は中々上位の妖怪みたいだし?死ぬ事はないよ」

窓の外から窺える空は段々と明るくなり始めていて、もうじき夜が終わる事を示している。臨也さんを境内から連れ出し家に連れて帰ってから真っ直ぐにここにやってきたから、まだ時間はそんなに経っていないはずだ。
でも、胸騒ぎが消えない。

「出来れば直接患者を診たい所なんだけど……」
「……すいません、人間には関わらないって、どうしてもゴネて」
「子供みたいだね。本当に齢二千年の妖怪なのかい?」

僕の硬い表情を解すためだろう、岸谷さんは意図的に明るく笑いながら、薬の調合をしてくれた。

彼は普通の町医者じゃない。妖怪や物の怪、異形を専門とした医者だった。妖怪そのものだけでなく、妖怪によって傷つけられ負傷した人間の治療も行っている、その道では名の知れた凄腕のお医者さんの家系の人らしい。
岸谷先生の家は古くから竜ヶ峰の家との交流が深く、特に先代である僕の父が頭首だった頃は岸谷先生自身、父の弟子として相当懇意にしてもらっていたのだそうだ。その縁で、岸谷先生は自身の師の息子である僕に対してもよくしてくれている。

妖怪が見えない僕から関わる事は今までもあまりなかったが、今回ばかりはお世話にならざるを得ない。臨也さんが悪鬼から受けた傷と毒。それは僕ではどう足掻いても治療できないのだから。

「傷は多分治癒能力で回復するとは思うけど、毒のせいでそれも機能しない可能性が高いからね。外傷にはこの薬と、あとこっちは解毒剤だから」
「はい」
「多分、今日一日が山場だ。妖狐はそれなりに稀有な存在だし力も強いから、毒如きじゃ死なないだろうけど……その毒の苦しみは、半端な物じゃない」
「……っ」
「今日一日は、君がついててあげた方がいい」
「はいっ」

貰った薬を抱えて岸谷先生の家を後にする。岸谷先生は玄関まで僕を見送りに出て来てくれた。

「今日の事と君の事は、本家の方には内緒にしておくよ」
「……何から何まで、ありがとうございます」
「うん、いいって。それより早く行ってあげな」

気をつけて帰るんだよ、その声を背に受けながら、僕は朝が迫りつつある街の中を駆け抜けた。

(はやく、はやく)

臨也さんの所に行かないと。
臨也さんが苦しんでいる。

(っ、はやく、)

ぼろぼろと、眦から零れた涙は宙を舞って消えた。







「っ、臨也さん」

ばたばたと音を立てて家に入り込む。臨也さんは僕が家を出た時から変わらぬ姿勢で、壁に背を預けて目を閉じていた。

「臨也さんっ、しっかりしてくださいっ」
「……ん、ああ、帝人君か……おかえり」
「くすり、もらってきましたからっ、早く飲んで横になって下さいっ」
「うん……わかったから、泣かないでよ」

家に帰ってくる途中からずっと泣きっぱなしだった僕の目元をなぞりながら、臨也さんは笑う。その辛そうな表情が見ていられなくて、僕は慌てて布団を敷いた。

貰った解毒剤を飲ませ、外傷に薬を塗って包帯を巻く。羽織を脱がせて臨也さんを横たわらせると、濡らした布を彼の額に置いた。毒の影響で、高熱が出ているのだ。

「なさけないなあ……妖狐ともあろう俺が、毒なんかで動けなくなるなんて……」
「今は、喋らないで……眠って、下さい」
「うん……悪いけど、そうするよ」

解毒剤の中に睡眠作用のある薬も入っていたのだろうか、それからほどなくして臨也さんは意識を失うようにして眠りについた。
僕は苦しげな表情で眠る臨也さんを、ただ見つめる事しか出来ない。

(臨也さん……)

死にはしない、と岸谷先生は言っていた。でもそれが絶対であるとは限らない。いつ、何かの拍子に、命が失われるかも分からない。人間だって妖怪だってそれは変わらない。
人の死なんて、いつだって唐突だ。

(父さん……)

顔も覚えていない父親の、唯一覚えている思い出。それは、あの人の、呆気ないくらいに容易い最期だった。
強いと、偉大だと、そう豪語されていた父が呆気なく死んでしまった場面。その死に様が臨也さんに被って、ぶるりと背筋が震える。

(いやだっ)

死んでほしくない、死なないで、死なないで。
この人を失うのが、怖い。

苦しいのは臨也さんなのに、僕が泣いてどうするんだ。そう思っても涙は止まらない。
引き攣った嗚咽を噛み殺しながら、僕はただ彼の額に浮かぶ汗を拭う事しか出来なかった。





「っ……かど、くん、」

ふと暗い中で名前を呼ばれ、はっと体を起こした。看病の最中で眠ってしまったらしい。僕の名前を呼んだらしい臨也さんを見ると、彼は苦しげに顔を歪めていた。

「いざやさんっ、どうしました?苦しいんですか?」
「っ……み、かど、くん……」
「っ、臨也さん、まってください、今薬を……」

鎮痛剤も確か処方してくれたはず。そう思って暗がりの中手探りで薬の袋を漁る。灯りをつけるという思考すらも浮かんでこないくらいに、この時の僕は狼狽して動揺していた。

(だって、)

臨也さんの表情が、本当に苦しそうでつらそうで。声も出せないくらいに、彼は衰弱しきっている。

(いやだ)

手繰り寄せた薬と脇に置いていた水差しを臨也さんの口元に差し出した。

「臨也さん、薬です。飲めば楽になりますから、」
「……っ、ぅぁ……」
「臨也さん、飲めますか?」

苦しげに呻くだけの彼に問うと、臨也さんは首を緩く横に振った。それすらも辛そうで、いよいよ僕の頭は混乱の極みに立たされる。

(どうしよう、)

冷静にならなくちゃ、どうすればいいのか考えなくちゃ。でも頭の中にちらつくのは臨也さんの死という最悪の光景ばかりで、薬を持つ手が震える。確実に命を削りつつある彼を目の当たりにして、体までもががたがたと震えた。

(いやだ、いや、)

死なないで、死なないでお願い。

持っていた水差しの水を口に含む。そのまま薬も口の中に入れて、荒い呼吸を繰り返す臨也さんに口付た。

「っ、ふっ……くっ」

意識が混濁しているのか、僕を振り払おうと動いた臨也さんの頭を震える両腕で押さえて、その唇を割り開く。元より熱のせいで力の入らない臨也さんはそれ以降さした抵抗もせずに、僕の唇を受け入れてくれた。
彼の頭を抱えながら、そっと口の中の薬を彼の口内に送り込む。接吻なんて初めてだし口移し自体も初めてだから、上手く飲ませる事が出来なくて口の端から水が零れた。

(いざやさん、)

この時の僕は、自分が何をしているのかとかどんなに恥ずかしい行為をしているのだとか、そういう考えは全く頭に無かった。ただ彼が死なないように、彼の苦しさが少しでも薄れるように、そのためには薬を飲ませるしかない。その薬を自力で飲めないのなら、僕が飲ませるしかない。

「ん……」

何とか薬を全部彼の口内に移して、飲み干したのを確認する。よかった、そう安堵しながら唇を離そうとすると、急に後頭部を押さえこまれた。

「っ!?」

ぐっ、と一気に深くなる口付け。熱のせいか酷く熱い臨也さんの舌が、先程まで水を含んでいたために冷えている僕の口内へと入り込んできた。

「んっ……ん、ふっ、」

離そうとしても、一体病人のくせに何処にそんな力を持っているのやら、彼の腕は強く僕の頭を押さえこんでいて離れない。ぬるぬるした舌が僕のそれと絡んで、まるで伝染したみたいに体が熱くなった。

(あ、つい)

熱いのに、気持ちいい。彼から伝播した熱で浮かされ始めた意識が遠くなりかけた頃、ようやく唇は離された。ふは、と息を吸い込みながら臨也さんを見下ろす。相変わらず苦しそうな表情の彼は、暗がりの中でもはっきりと輝く赤眼で僕を見ていた。

「み、かどくん、」
「はい、」
「帝人君……みかどくん、」

魘されているのだろうか、僕に向かって伸ばされた腕を迷わずに掴んだ。

「みかどくん……」
「臨也さん、僕、ここにいますからっ」
「帝人君……」
「はい、こにいます。だから、安心、してっ、くださいっ」

臨也さんの腕にそっと頬を寄せる。臨也さんは僕の頬を確かめるように一撫でした後、安心したのかそのまま目を閉じた。
ぽろぽろと彼の手に涙が落ちる。もう臨也さんが苦しまないように、強く強く掴んだその腕を決して離さなかった。




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(09/26)






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