小説 | ナノ


(笠黄)


「黄瀬」
久しぶりに呼ばれた名前は、悲しげな響きを伴っていた。
そのあとに続く言葉は、聞かなくてもわかる。今まで何度も想像し、恐れてきたことだから。
聞きたくなかった。
彼の言葉で聞いてしまえば、それは現実だと認識してしまう。
その響きはもう、夢でも妄想でも冗談でもなくなってしまうから。
そんな俺の想いを知ってか知らずか、悲しげに目を伏せたまま、彼は言葉を続ける。
俺が、一番聞きたくなかったそれを、続ける。
「別れよう」

今年大学を卒業した俺と、大学院を出て就職して、今年で二年目になる笠松先輩は、恋人になって六年になる。
先輩達の卒業式、涙で顔をぐちゃぐちゃにしながら告白した。
まさか、応えてもらえるとは思っていなかった。ただ、そのまま離ればなれになるのが嫌だった。
だから、抱きしめてもらって、耳元で「俺も」って返されたときは、夢だと思った。
力の入らない指で頬をつねって、痛さにそのときは嬉しくなったけれど。
こうなった今、いっそそれが夢だったらよかったと思う。
送った想いと、同じだけ返してくれた想い。二倍、苦しいから。
知らなければ、よかった。手の温かさも、声の甘さも、唇の柔らかさも、全部。

違和感を感じ始めたのは、かなり前のことだ。
…いや。違ったのはそれまでの、幸せだった時間だと、今ならわかる。
会って、抱きしめて、声を聞いて、身体を重ねて。
そんな回数が減る中で、ずれを感じていた。
共に歩いていくことは、不可能に近い。俺達は同性だから。他にも、理由を挙げればキリがない。
最初からわかっていた。ずっと一緒にいられないことは。
でも、認めたくなかった。失いたくなかった。だから必死で目をそらして、隣で笑い続けてた。
だけど、これ以上は無理だと。はっきりと、感じるようになった。
だって俺も笠松先輩も、もう子供ではいられないから。

「先輩」
「ん?」
「…俺、幸せだったっス。この六年間、一生分くらい幸せで、俺ばっかりこんなに幸せでいいのかなって思って…」
「……ばぁか。お前だけじゃねぇよ。俺も、幸せだった」
この幸せが続きますようにって、何度も願った。
最初の頃は無邪気に、でも最近ではもう、それは世界平和なんかと同じくらい途方もない願いだった。
きっと、笠松先輩も同じだ。辛いのは、俺だけじゃなくて。

抱きしめてくれていた体温が離れる。
次会うのはいつだろう。その頃には、お互いに別の人が隣にいたりして、彼への想いは薄れて、あるいは消えてるのだろうか。
そのときには、このことも笑って話せるのかな。
遠ざかっていく背中を見つめて、そう思った。
きっと誰もが通る道。これを乗り越えないと、先には進めない。だから、俺の意志とは関係なく流れていく時間の中で、この別れは必然。
頭では理解している。
けれど心は、今はまだ。

ぼやけていく背中を見るのすら辛くて、目を閉じた。


モラトリアムは戻らない
(大人になんてなりたくなかった)

20130430

瞼の裏に星雲を様に提出。
モラトリアムの意味を盛大にはき違えている気がしないでもない。猶予期間とかそんな感じなんですが…
大人になるには別れが必要。そんなふいんき(なぜかryを感じとっていただければ幸いです。目ではなく心で読むのよ!



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