友人のお見舞いに来たのだというその男の人は、奇抜で派手なデザインの服を着ていた。病室がわからなくて迷っているところにわたしが声をかけたのが、最初。それから巻島さんはお友達のお見舞いのついでに、わたしのところにも顔を出してくれるようになった。お友達が退院した後も、わたしに会うためだけに足繁く通ってくれていたというのを知ったのはだいぶ後の話だ。 緑に染められた髪は遠くにいても目立っていて、青空の下で長い髪が風に揺れる光景を見るのがわたしは好きだった。話し方は独特だけど、投げかけてくれる言葉のひとつひとつはとても優しい。 わたしが出会ったその人は、とても優しくて、とてもとても、馬鹿な人だった。 「俺と、付き合って欲しい」 出会ってしばらくが経って、巻島さんは私にそう告げた。いつも掴めない笑顔を浮かべる表情は真剣そのもので、心臓が跳ねるのを感じた。わたしもです、わたしも貴方が大好きです。そう伝えて差し出された手を取ることが出来たなら、どんなに幸せだっただろう。伸ばしかけた手をぐっと堪えて、巻島さんから目を反らす。愛しい緑のない視界は、青空の下だというのに曇天に包まれた鈍色の空間のように感じられた。 「ごめんなさい、巻島さん。…お付き合いは、出来ません」 ぽつり、零した言葉は自分でもはっきりわかるくらい震えていた。少しでも俯いてしまったら涙が零れそうで、わたしは巻島さんから目を反らしたまま窓の外を見上げ続ける。断られる事を予想していたのか、巻島さんは小さく笑って「そう言うと思ってたショ」とわたしの頭を撫でた。くしゃりと髪を撫でる指先が愛しくて、どうしようもないくらい苦しい。 「理由とか、聞かせてもらいたいんだけど」 「……巻島さんも、ご存知なんじゃないですか?」 巻島さんは、何も言わなかった。それが何よりの答えだろう。――もうずっと前から、長くはないと言われ続けていた。今こうして巻島さんと言葉を交わすことが出来ていても、明日にはどうなっているか分からない。わたしの体は、医者の話ではもうとっくに限界を迎えているらしい。そんな状態でこの人の手を取るなんて無責任な事、わたしには出来ない。 「お気持ちは、とても嬉しいんです。…でも、巻島さん。わたしは、貴方に寂しい思い をして欲しくないの。…だから、お願いします」 わたしの事を想ってくれるのなら、どうか考え直して下さい。 震える声で告げたその言葉が、巻島さんの胸にどう響いたのかはわからない。けれど巻島さんは、困ったように苦笑いを浮かべた後、ゆっくりとわたしから手を離した。 「…わかった。それがお前の気持ちなら、考え直すっショ」 くるりと背を向けて、巻島さんは病室から出ていく。行かないで、と叫びそうになった。拒絶したのは自分なのに、今すぐ背中に縋りつきたくなるような身勝手さに嫌気が差した。 巻島さんが最後に来てくれてから、数日が経った。以前は毎日のように顔を出してくれていたから、たった数日間離れただけでどうしようもなく寂しくなる。病室のベッドの上でただ時が過ぎるだけを待つ生活は、ひどく退屈なものに思えた。巻島さんは、わたしの世界に色を与えてくれていたんだろう。鮮やかな緑色だけじゃなくて、巻島さんと見る世界はいつだって輝いて見えていた。考え直す、と巻島さんは言った。 先のない女なんて、側に置くにはリスクが高すぎる。巻島さんは頭の良い人だから、きっともうここには来ないだろう。わたしの知らないところで、わたしの知らない人と、幸せになってくれればいい。白いシーツに横たわり、枕に顔を埋める。じわりと目尻に涙が浮かんだ。この前は巻島さんの前だから我慢出来たけど、一人の今日は堪えられそうになかった。はらはらと流れ落ちる滴が、枕をどんどん濡らしていく。目を閉じれば思い出すのはあの人の姿ばかり。会いたいな、もう一度、会いたい。 「巻島さん、…っ」 「うん、呼んだ?」 返事はない筈、だった。零した名前は誰の耳に届くこともなく、静かに溶けて消えるだけだと思っていたのに。ばっと枕から顔を上げれば、そこには思い描いたその人が立っていた。 「ひでぇ顔してるショ」 「ま、きしま、さん」 涙の向こう側に見える巻島さんの姿は、ぼんやりとぼやけて見えた。それでもいつも見せてくれていた笑顔は変わらなくて、そのせいで益々涙が止まらなくなってしまう。巻島さんは親指でわたしの涙を拭って、双眸を細めた。 「…泣くくらいなら、強がったりしなけりゃいいのに。なまえ、絶対馬鹿っショ」 「ま、巻島さんにだけは、言われたくないです…!」 前と同じように続く言葉の応酬が愛しい。涙で顔がぐしゃぐしゃになるのも構わずに、わたしは泣き続けた。困らせるとわかっていても、一度零れだした涙は止まってくれない。巻島さんはそれを咎めるわけでもなく、黙ってそこにいてくれた。 「なあ、なまえ。俺、考えたんだけど」 さようならを、告げられるのだろうか。もう既に泣いてしまっているけど、どうせ最後になるなら巻島さんの前では笑っていたい。唇を噛み締めて、涙が零れるのを必死に堪える。シーツを握る手に自分の手を重ねて、巻島さんが告げたのは、本当に予想外の言葉だった。 「結婚、して欲しい」 指を絡め取られて、シーツからゆっくりと手を引き離される。そうして私の手のひらに乗せられたのは、綺麗な装飾の施された小箱だった。 「お前が、色々考えてくれてるのはわかるショ。…だけど、俺だって色々考えて決めたんだぜ?やっぱりどう足掻いても、なまえが好きだ」 ベッドの傍らに膝をついて、私の手を取る巻島さんの姿は王子様みたいだ。悔しい、狡い、格好いい。英国帰りだと、いつだったか巻島さんに聞いた事がある。こんなにかっこいい立ち居振る舞いは、その時に修得してきたんだろうか。 「…お前の残りの人生を、俺にくれないか」 触れた指先の温もりはどこまでも優しくて、ずっとずっとこの人といたいと、そう思えたんだ。 (0909) |