推しに尽くしたい話 | ナノ


▼ 63

 ゆるりと重い瞼を持ち上げる。
「うん?」
「おはよう、悠宇」
 眼前にある、穏やかに微笑む推しの顔。何故か腕枕されていて、理解が追いつかない。背中に回った腕も、絡みついた脚も、全くもって理解不能である。
「なるほど夢か」と納得して、目を閉じた。夢の中で夢と分かる夢、つまりは明晰夢らしい。悪夢で随分と慣れたけど、こういうパターンは初めてやなあ。
「寝惚けてるな?」
 夢の中推しはくすりと優しく笑う。その姿を薄目を開けて眺めた。悪夢の先で愛しい恐ろしい声を聞いた気がしたが、どうにもその続きらしい。顔も声も匂いも、筋肉質なのに細い身体も、再現率が高過ぎて自分に軽く引いた。大好きすぎるわ。けれど悪夢での顔も姿も血も臭いも全て生々しく焼き付いているから、ギャップに動揺する。ともあれ夢なら好都合だ。抱き着いて胸板に顔を押し付け、零さんの香りに包まれることにする。ふんふんと匂いを嗅ぎ、許される夢のうちに堪能しておきたい。零さんの匂いに新しいスウェットの匂いが混じっていて、妙なところでリアリティがある。零さん用に買っておいたスウェットが日の目を見るのが夢の中とはまた切ない話だ。内心気にしていたということか。
「夢で良かった……」
 何はともあれ、夢で本当に良かった。東都にいる本人には近付けなくなったので、夢でなければこんなことはできない。
 さらりと頭を撫でられ、手は髪を梳いて弄ぶ。零さんのこの手は好きだ。大好きだ。うとうとしていると、ちょうどこんな風にあやすみたいに撫でてくれる。こんな夢を見るくらい、あの人の隣を願っているらしい。ここまで来てしまうと依存やなあ、と苦笑いがこぼれた。
 この夢はいつまで続いてくれるのだろうか。目が覚めたら現実との差に落ち込むことになるのは容易に想像できたが、そもそも覚えていられるだろか。この、夢を。ずきりと胸が疼いて、苦し紛れに推しを見上げる。笑顔を見せて。少しでも強く、残るように。
 ああやはり美しい。
 蕩ける笑顔に見惚れた。手を伸ばして、その頬を両手て包み込む。さっき抱えたぬるりとした血に塗れた身体とは違って、こっちは随分と生気が──ん? 訝しんで眉根を寄せる。
「待って本物やん」
「やっと目が覚めたか」
「まじか」
 常日頃の悪夢と慢性的な寝不足で頭がバグったのかともう一度疑ったが現実らしい。そういえば今日は深夜に目が覚めなかった。なるほど推しのおかげで眠れたのか納得した。推しは精神安定剤だった。
「……おはよう? え、なんで」
「君の家で僕の家じゃないか」
「そうやけど」
 なんなら家賃払ってもらってるからどちらかと言うと零さんの家だ。まだ混乱している私の額にキスをする。
「まだアラーム鳴ってないけど、どうする?」
 私の髪を掻きあげで耳に触れながら零さんが尋ねた。
 スマホに手を伸ばして日時を確認する。昨日から一ヶ月以上戻っているし、突然の水曜日だった。またかという溜息は飲み込み、六時前かあ、と時間だけを口にする。眠れるわけもない。零さん自体も既に起きていたらしいので、私がちょっと寝ようと言ったところで休んではくれなさそうだ。二度寝から目覚めたら推しが朝食用意してましたなどという胃痛案件が目に浮かぶ。うわ無理しんどすぎるやろ。
「……起きる」
「そうか、残念だ」
 零さんが呟いて起き上がった。判断を間違えたかなと思ったが、零さんはにこにこと笑みを湛えたままだ。言動が全くもって一致していないが、本当にどっちでも良かっただけなのだろう。零さんに倣って身体を起こす。広いベッドのド真ん中ではなく壁際で起きるだけで、こんなにも世界が変わるもんか。
 立ち上がってカーテンを少し開いて外を覗くと、雨が降り始めていた。この前は雪やったのになあ。いつもは開ける遮光カーテンを閉じて、冷蔵庫の中身を思い出しつつ尋ねる。
「朝ごはんにしよっか。あ、そもそも時間あるん?」
「大丈夫だ」
 背後からの突然のハグで内心大荒れや。はいしんどい無理。やっぱ夢か。夢なのか。ドリームやんなわかる。
「目玉焼きとだし巻きとスクランブルエッグ、どれがいい?」
「目玉焼き」
 なるほど塩胡椒派としょうゆ派とソース派の仁義なき戦争を開始するらしい。とりあえず作れないから離れようか。

 零さんはひっつき虫になっていた。料理中はもちろん、服は選ぶわ脱がそうとするわ化粧中はハグタイムだわで相変わらず分からない。笑顔デイの次はハグなのか。どこに何のスイッチがあるのかはミステリー。ヒントください。
 職場まで送ると言ってくれる零さんを丁重に丁重に遠慮しようとしたが舌戦でいつも通り敗北を喫し、送ってもらうことになってしまった。早く自分の時間に戻ってくれ頼むから。
「休日ならもっとゆっくりできたんやろうけど……なんか、ごめん」
 職場が見えるところまで来て、再度謝った。通勤の最中雨足はどんどん強くなり、大粒の雨がフロントガラスに打ち付けて騒々しい音を立てる。外界から遮断された密室がひどく窮屈に感じた。
「いや、顔が見れたから充分だ。仕事は休めないだろう。月曜だから仕方な──ん、水曜か。ダメだな、曜日感覚が狂ってる」
 前を見たまま、零さんが苦笑する。
「……定期的な休みないから、そういうこともあるやろ」
 ヒーローに向けた笑顔の裏で、私は逃亡を決意した。

「ありがとう、零さん」
 少し離れたところでと固辞したのだが、悪天候を理由に病院のロータリーまで送るよ、と車は止まらなかった。運転者に全ての権限があるので、私にはどうしようもなかった。
「ああ、いってらっしゃい」
「うん。じゃ、ばいばい」
 一番の笑顔で別れを告げてドアノブに手をかけたところで、右手が掴まれた。空色の双眸が私を……いや、私を通して何かを見ている。良くない四文字やったなと内心舌打ちした。しかしサヨナラは露骨だから仕方の無い選択肢だったのだ。
「……零さん?」
「あ、いや」
 はっとして、手が離れる。
「仕事、頑張って」
「ありがとう」
 雨の中走り去る稀有な新宿ナンバーのスポーツカーを、姿が見えなくなってもしばらく見つめていた。いってきます、と口の中で呟く。ごめん、仕事は頑張れへん。
 その日、私は退職を願い出た。



 私が東都に会いに行かなくとも、都合次第で零さんは来てしまう。そうすれば、会ってしまう。もしかしたら、気付いてしまう。大阪にいればいいというのは勘違いだと分かったのなら、私はここを去らなければならない。
 突然の退職は容易には認められず、上司との面談が行われた。協議の結果として、来月から年度末にかけての休職ということで話は落ち着いた。理由は家庭の事情で押し通した。渋い顔だが深く聞かず、人手は足りないからと復帰を待つ選択肢を掲示してくれたのは、正直言って有難かった。けれど逆に言えば、それ以上は体裁上待てないという線引きだった。
 同僚や後輩には少し休むとだけ言って業務の引き継ぎをして、長期であることは告げずに数日を過ごした。幸いと言うべきか、来るべき時に動けるように以前から引き継ぎ文書は作っていたので、多少手を加えるだけで済んだ。その合間週末にかけて、少しずつ現金を下ろした。
 三井くんは日曜に行けると思うと言ってくれたけれど、無理せんといて、と断った。自由の身なので三井くんが余裕のある時で構わないし、なんなら私が会いに行けばいいのだ。そんなことを思っていたら予定日はキッドの予告状で本当に潰れてしまい、そうなれば三井くんほ無理も流石に通らない。
 コナンくんや沖矢さんに連絡しないどころか、梓ちゃんや零さんへの返事も翌日に回した。そうやって一週間も過ごしていれば、月末はすぐに訪れた。



 着実に逃避行の準備を整え、最後の朝を迎えた。ボストンバッグに最低限の荷物と多めの現金、多様な化粧品を詰め込む。冷蔵庫は空っぽにして、貼り紙も捨てた。窓は閉まっているし、ガスの元栓も閉めた。
 この部屋もしばらくさよならだ。当分零さんは来れやしないはずだ。だからそこまで急ぎはしなかったし、むしろ優先すべきは実家や零さんに連絡がいかないことだ。そんな準備期間はあっという間に過ぎ去った。
「……待つって言ったのに、ごめんな」
 腕時計とネックレスという拠り所は置いていけなかった。今日だけは勇気を出すために服に隠れるように身につけた。ボールペンは持っていけないからこれで全部か──いや、何か忘れている気がする。ドアノブに手をかけたところで止まる。時間に追われているわけでもないので、玄関に荷物を置いて部屋をぐるりと一周しよう。それで思い出せなければその程度のものなんやろうし、違ったのなら最悪取りに戻ればいい。
 二人で料理をしたキッチン。紅茶を飲んだテーブル。転がってたくさんのメッセージを送ったソファ。トレーニングマットの上で電話もよくしたなあ。戸棚の隠した変装道具はもうない。零さんの熱を感じたベッド、涙を染み込ませた枕。変装の練習をした鏡。零さんの服のスペースを確保された箪笥。世界の入り交じった本棚。「神棚」に残された、ボールペンと写真。
「あ」
 歌詞カード。これや。それに写真も、零さんの写ったものを出しておくのはまずいか。詰めが甘いなあと顔を顰めつつ、歌詞カードの回収ついでに写真を取り出す。私の写真の裏には斎藤さんの付箋を貼り付けられているが、二人の写真の裏は当然真っ白だ。少し考え込んでボールペンで空白に文字を書き付け、だらしなく笑う私の写真の後ろに重ねて戻した。
 何も知らない自分の笑顔が憎らしい。嫌になって写真立てを伏せ、今度こそ家を出た。

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