推しに尽くしたい話 | ナノ


▼ 57

 頭を撫でる手の感触で目を覚ます。瞬きをして焦点を合わせると、目の前で穏やかに微笑む推しの姿があった。射し込む朝日に金髪が照らされている様はやはり美しい。次いで白いTシャツを着ていることに気付き、とうに起きていた証だろうと負けた気持ちになった。
「おはよう、悠宇」
 挨拶をしてから一度口付けて、昨日散々したようにまたぺろりと下唇の傷を舐められる。
「──っ、れぃさ、」
 おはよう、と返そうとしたのだが掠れて声がうまくでなかった。
「昨日は無理させてしまったな」
 ちょっと申し訳なさそうに笑い、ほら、とベッドサイドのテーブルに置かれたコップを渡された。布団で胸から下を隠しつつ重い体を起こしてそれを受け取る。ありがと、と掠れ声でお礼を言って、冷たい水で喉を潤した。
 零さんがベッドに腰掛け、空になったコップを自然な所作で私の手から引き取り、元の位置に戻す。シャワー浴びたいなあとぼんやり考えた。
「体調はどうだ?」
「大丈夫」
 今度はきちんと声が出て、ほっとする。
「そうか」
 褐色の腕が腰に回り、横から抱き締められる。
「零さん、おはよう」
 抱き締め返して、先程言えなかった挨拶をする。お互い秘密があっても、信頼関係が築けていることが、今の関係が続いていくことが磨り減った精神を癒してくれている。零さんの胸に耳を押し当てて目を閉じ、とくとくと鳴る心音を確かめた。零さんは今ここで、私の隣で生きている。その事実だけで、私は生きていける。
 昨日のことがあったこともあり、しばらく東都に来るのは控えようと決心した。どのみち、ラムの関係で物語自体の不穏な空気が続くはずなのだ。
 自動的に三井くんにもしばらく会うこともなくなるのだろうが、あちら側に関わらないのであればなんら問題はないはずやし、と自分を納得させる。聞きたいことも言っていないこともあるけれど、そこまで急を要するものかと言われればそうではない。
「零さん」
 寄りかかっていた体を起こし、目を合わせる。
「なんだ?」
「好き」
 いつ呼び出されてもおかしくないから。確実に言えるうちに、早いうち伝えておかなければという思考が頭を埋め尽くし、愛の言葉が口をついて出た。
「大好き。愛してる」
 ──しばらくは、ばいばい。
「……僕もだよ」
 唇が重なり、そのままどさりとベッドに押し倒された。
「──それで、どういう風の吹き回しだ?」
 覆いかぶさった状態で探る口調だけれど、口元の微かな緩みを隠しきれていない。照れている、らしい。
「変やった?」
「いや。嬉しい」
 開き直ったのか、にへらと破顔する姿に私まで心がじんわりと暖かくなった。二十九歳という年齢を感じさせない童顔の彼は、笑うとますます若く見える。その瞬間が一等好きなのだが、きっとこれを言うと拗ねるだろうからそっと胸の中にしまっておいた。
 零さんが肩に吸い付き、チリと走った仄かな痛みでキスマークがつけられたことを感じる。
「もう一回、いいか?」
「え……時間大丈夫なん?」
 時計を確認できてはいないが、出張帰りの零さんにそんなにゆとりがあるのだろうか。いや、ないやろ。
「問題ない。悠宇、『お願い』」
「……うん」
 そう言われてしまえば仕方あるまい。寝惚けた頭の焦った判断で、突然告白したのは自分なのだ。明るい部屋での行為は全くもって気が進まないけれど、観念して零さんの首に手を回した。
 そういうことのためお願いフリーパスちゃうんやけどなあ。



 車内で食べるからとサンドイッチを持って、ハロを連れた零さんは家を出ていった。時間に問題がないというのは、単に一緒に朝ごはんを食べる時間が睦み合いに変わっただけのことだったようだ。それでいいのか降谷零。残された私は一人で零さんの作ったサンドイッチを食べる。零さんもハロもいない部屋の静けさは、特段珍しいことでもないのに、ひどく冷たく感じた。
 しばらく家を空けられる状態になったのを確認し、部屋を出る。沖矢さんからも、コナンくんからもメッセージは届いていなかった。
 新幹線の中では、次に会うことがあるなら、それは赤井さんと新一くんだったらいいのにな、と思いながらうたた寝をした。

 また例の悪夢を見た。初めて、血濡れのコナンくんが倒れていた。飛び起きたことで驚いた隣のおばさまに愛想笑いし、スマホに手を伸ばす。元々信頼し合っていたわけではない零さんとコナンくんの関係だが、それでも今回の一件で何か変わっただろうか。この前の分はチャラ、と言っていたということは、零さんがコナンくんに何らかの借りがあったということになる。他の形で返す未来があったのではないかと思うと、吐きそうになる。どう修復したもんか。
 こちらからコナンくんにどう連絡を入れればいいのか分からない。けど、それは向こうも同じだろう。お互い気まずさしかないはずだ。顔を合わせたのならまだしも、いざ文章をとなると一体何をどう伝えればいいのかさっぱり分からない。彼とのトーク画面を開いたが、結局何もできずに閉じてしまった。

 隠れカードであるはずの赤井さんをわざわざ引っ張り出してまで、コナンくんはあの場を設けた。情報が揃ったのが前日のことだったらしいから、私が東都に来るのは次いつになるか分からないからか、あるいは何かが手遅れになる前にできるだけ早くと思ったのか、それは分からない。けれど、零さんの存在をバックに感じながら、あのコナンくんが詰めの甘い手に出たということは、間違いなくそこに大なり小なり焦りがあったということだ。
 あの時はそれどころではなくそこまで頭が回らなかったが、今になってそういう結論に辿り着いていた。



『今時間ある?』
 願ったコナンくんからの連絡は、翌日の夜にあった。風呂上がりにスマホを見ると、数分前に届いていたメッセージを見つけて、即座に返信しながらヘッドセットを取りに向かう。
『どうしたん』
 案の定すぐに電話がかかってきて、ヘッドセットを接続してから通話を開始した。
「もしもし? こんばんは、コナンくん」
「こんばんは、悠宇さん……」
 らしくなく覇気のない声に戸惑う。
「どうし──」
「ごめんなさい!」
「え」
「この前の、その、勘違いでお姉さんを傷つけちゃったから、謝りたかったんだ」
「ああ……気にしてへんよ。助けようとしてくれたんやろ? せやのに怒鳴ってしもて、こっちこそごめんな」
 一回り年下の子供に謝らせるとは、なんと大人気ないことか。しおらしいコナンくんは珍しいなあと思う反面、きちんと謝れる人であることにひどく安心した。この子は大丈夫だ、と。
 赤井さんは知らん。あれほど執拗かったメッセージもパタリと途絶えてしまい、それっきりになっている。いや、意外と今もコナンくんの背後にいるのかもしれない。蘭ちゃんが聞いているかもしれない家でこの電話を始めたとは少し考えにくいし。
「で、でも!」
「ならお互い様、じゃあかん?」
「……怒ってないの?」
 弱々しい声に、くすりと笑う。
「うん。そりゃあ驚いたけど……福山──悪いヒトから守ろうと思って焦って動いてくれたんやろ? あんな無茶……そやから、ありがと」
「うん……」
「元気ないなあ」
「悠宇さんは大人だなあ、って思って」
「コナンくんよりはね。一回りくらい違うやん」
「……もっとだよ、お姉さん」
「あらら若作り」
 この場合コナンくんが、ではある。
「てっきり嫌われちゃったと思ってた」
「それは私に? それとも、あの人?」
 ぽそりと吐き出された呟きに問いかけると、コナンくんが言葉を詰まらせた。
「大丈夫やで」と直ぐに声をかける。
「でも」
「大丈夫。やだなあ、私もあの人も、こんくらいでコナンくんを嫌いになるほど狭量ちゃうって」
「ホントに?」
「ほんまやって。保証する」
 明るく笑うと、疑わし気な声をあげつつもなんとか頷いてくれる。
「悠宇さんが言うなら、そうなのかな……」
「そうそう。ポジティブにいこう。あー、さてはポアロに行きにくいな?」
「そりゃまあ、ちょっと」
「正直やな」
「だってあの時の安室さんの眼を見たら……そこまで図太くないよ」
「よく分からんけど、貸し借りナシになったんやろ? やったら気にせず行ってあげてくれへん? あの人、君のこと大好きみたいやし」
「はあ?」
「え?」
「安室さんが? オレを?」
「うん。絶対そう。大のお気に入りやろ。だからお願い」
 素が出たことに笑いそうになりながら、顔を見られないのをいいことににやにやしながら言った。
「……それは気の所為じゃない?」
「執着してる気がするけど……まあ、そういうことにしとこか」
「……避けるのは、やめておくよ。無理にも行かないけどね」
「そか」
「それと、昴さんも『すまなかった』って言ってたよ」
「直接謝ることもできない大人は無視するから安心して」
「なにも安心できないんだけど」
「私が甘いのは年下と可愛い生き物にだけや」
「昴さんギリ年下じゃん」
 年下設定なだけで実態は年上やろ。私は知ってるんだからな!
「ふうん?」
「火に油を注ぐことになりかねないから、ボクが止めたんだよ」
「ほー……」
 否定できない。しかし、確執を知らないはずの上に赤井さんという実態も知らないことになっているので肯定もできない。
「時にコナンくん、今君はどこにいるの?」
「昴さんの家だよ!」
「仲良しか」
 不安なって何度か確認したが不審者が聞き耳を立てているなどということは本当にないらしく、今度は学校のことや何気ないことで連絡をしようと約束して、電話を切った。

 翌朝、沖矢さんから簡易なメッセージが届いた。
『先日はすみませんでした』
『こちらこそお見苦しい所お見せしました』
 以来、連絡は取っていない。



 さらに三日後、とはいえ今日は日付が飛んだので暦上ではなく私の中ではという条件付きだが、零さんと連絡がついた。
「……そういや、コナンくんに謝られちゃったわ。助けようとしてくれたのに、私も大人気なく叫んじゃったのになあ。私がいらんこと言っちゃったから、福山っていう悪い人と、あー、シゴトの関係で結婚したと思ったみたいで、焦って助けようとしてくれたみたい。あれから会った?」
「いや……」
「お願いなんやけど、コナンくんがポアロに来たらアイスコーヒー出してあげてくれへん?」
「……」
 少し不満そうに唸る。
「子供に謝らせっぱなしってのも、な」
「……そうだな」
 少し不服そうな了承の返事に、ありがと、と軽く返した。
「最近もポアロに出勤自体はしてるんやろ?」
「ああ、昨日は……ん?」
「どうしたん?」
「いや、一瞬昨日が水曜だった気がして。疲れてるのかな」
 息を呑む。昨日は水曜日だ──けど、零さんはそれを認識できるはずがない。
「おい、また珍しいって思っただろう」
「……や、それ私も今日やったんよ」
「へえ、妙なところでシンクロしているな」
 くすくすと笑い、さらりと話題が家庭菜園に移る。その後の会話内容はほとんど頭に入らなかった。

「また連絡する」
「うん」
 仕事の合間だったようで、あの後そこそこで通話が終わったのはラッキーだったのかもしれない。長くなる程に動揺を悟られてしまう。
 腹の底から込み上げる不快感に、ヘッドセットを外す余裕もなくシンクに身を乗り出す。
「──っは、あ」
 空気以外を吐き出せるでもなくすっきりしないまましばらくが経ち、その場で水を飲んでずるりと足の力が抜けてへたり込む。
「……ぶ、だいじょうぶ、大丈夫」
 たまたま偶然、や。そんなことあるわけがない。こんなことでいちいち動揺してて、これからやってけるんだろうか。この貧弱メンタル、と自分を叱咤した。

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