推しに尽くしたい話 | ナノ


▼ 37

 とりあえず最低限一時までは待とうと決めたものの、部屋にあったSF小説を読んでいればあっという間だった。なるほど、推定おすすめ本はやはりおすすめだったらしい。よくできているな、というのが感想だ。定番のボーイ・ミーツ・ガールで、過去と未来が繋がる話。工藤優作以外は何となく忌避していたあちら側の本も、面白いことに相違はなかった。
 伸びをして時計を見ると、もう二時近い。相変わらず連絡はない。まあ、こんなもんやろ。
 明け方震えたスマホでぼんやり目を覚ますと、零さんからごめん、とただ一言メッセージが届いていた。ここにはほとんど帰れないと言っていたから充分想定の範囲内だというのに、少し落胆した自分が嫌になった。気にしないで、お疲れ様、とだけ簡素な文を送って再び眠りにつこうと思ったが、眠気はとうに消えてしまったまま、帰ってこなかった。
 諦めて起き上がってどこかぼんやりしたまま昨日の残りを食べ、いつも通りしばらく家を空けられるようしっかり片付けをして、そうして逃げるようにして早々に東都を離れた。

「あ」
 帰りの新幹線でつい声をあげてしまい、慌てて隣の席のおじさんに愛想笑いを送ってから頭を抱えた。逃げ帰るのに必死で、結婚祝い本棚の脇に置き忘れてきてしまった。やってしまったが既に名古屋まできてしまっている。ダンナの写真、という三井くんの言葉が頭を過ぎり、なんとなく隠したい気持ちになっていたっていうのに。ほんまに、阿呆や。今からでも戻るかという暫しの葛藤の末、どうせ零さんがあの家に帰るのなんて滅多にないし慌てなくともいいか、という結論を出した。必死に隠す方が、悪いことをしている気分になっちゃうから、私はまた罪悪感から逃げただけやけど。何も零さんの写真を飾るためだけにあるわけやなくて、あれはただの写真立て。物と込められた思いを、一度切り離して考えて。そう念じながら家に辿り着いて、やっぱり後悔した。
「今は心の安寧を図っていざって時には踏ん張れるように……って無理あるわ。こんなことでいちいち動じててどうするん、ほんまに。阿呆」
 だらしなくソファに凭れて天井を仰いだ。逃げんなと自分に言い聞かせておいて、もうこれや。くそ、と吐き捨てて次の金曜の夜行バスを予約した。これなら土曜の友達とのランチに間に合う。バレない。大丈夫、大丈夫。
「お願い」
 一週間だけ、待って。



「なんでこの世はうまくいかんわけ?」
 弁当の最後の一口、本日のセロリを睨みにつけてぽつりと呟いた。
「前世の悠宇ちゃんはセロリに殺されでもしたんか」
「私そんな殺意に満ちてた?」
 向かいで同僚がツナのおにぎりを齧りながら笑っている。
「超満ちてた。セロリ好きになったとか言ってへんかったか?」
「言ったかもしれないし言ってへんかもしれない」
「実は好きやなくて克服するためやったん? いつからやっけ、セロリをありとあらゆる調理法で毎日持ってきてんの。ほんま、よーやるわ」
「結構経つかも。調べたら出でくるで、意外と。片っ端からやってお気に入り探ししとるだけやし」
「ふうん? まあ、私はセロリに拘りはないから知らんまま一生を終えそうやなな」
「意外と覚醒するかもしれへんで」
 そう笑い声を返してセロリを口に入れた。ほんまに、今週に限って終わんない。折り返し地点も過ぎてあと一日かと思いきや月曜だった時の絶望感はなかなかのレベルやった。焦りだけが募る。今日は今週二度目の木曜日だ。相変わらず何を言っているか分からない。
「そいやさー、悠宇ちゃんって色黒の高校生くらいの子に心当たりある?」
 おにぎりを食べ終えた同僚が不穏な内容を告げた。
「ん?」
「太眉の……いや、大学生かなあ。昨日悠宇ちゃんどんな人って聞かれてんけど。誑かしちゃった?」
 浪速の高校生探偵しかおらんやん、そんなん。
「残念旦那一筋ですぅ」
「ナチュラルに惚気やがった」
「さーせん。まあ、ないこともないけど……」
「適当に話しといたけどさ、何したん?」
 あー、と一度濁し、少し言葉を選びながら説明を試みる。
「もしほんまに思ってる人やけどな。先週東京行ってたって言ったやん? そん時にちょっと殺人未遂事件に巻き込まれちゃって」
「はあ!?」
「声でかい」
「でかくもなるわ! ガチ?」
「ガチ。ほら、未遂やし。で、被害者にめっちゃ近かったから疑われちゃって」
「ちょっと待って、ミステリーな感じなん? 通り魔的なのじゃなくて? 犯人不明?」
「でもその子の力もあってトリック分かって犯人ちゃんと捕まって……」
 ふと違和感を覚えて言葉が途切れた。
「それでもやん、怖いな。こう言っちゃ悪いけど、なんか小説とかドラマみたいやな」
 同僚は興奮した様子で会話を続けている。
「そう、かも?」
「どんな事件やったん?」
「……ごめん、そういうの、あんまり」
「突っ込んだらあかんかったか。ごめん」
「いや、こっちこそ。あの高校生のこと教えてくれてありがと」
「私は別に何も。なんというか、世の中色々あるもんやなあ」
 この話は終わりとばかりに昼食のゴミを捨てに席を立った同僚を尻目に、弁当箱を片付けながら違和感の正体を考えた。トリック、犯人、殺人未遂事件。なんやろう。ポアロの事件で、三人の探偵がいて、でも三井くんと朝倉とののみには行けなくなって。三井くんとリアクション全然違ったなあ。まあ、他人なんやし普通か。
「ん?」
 三井くん。あれ、なんで犯人不明前提になってしまった会話を飲み込んだんやろう。犯人が分かって、とか言ってしまった気がするのに、さも当然かのように会話が進んだ。血の気が引いた。私も、三井くんも、いつの間にか毒されている。私はこの世界の土台を把握してるからこその発言やったけど、じゃあ三井くんは? 職業柄? キッドを追ってて、それで本当に変わってしまった? あっちに、行っちゃう?
 青ざめたまま連絡しなきゃ、とついスマホに手を伸ばしたが、ホーム画面はまもなく午後の業務だと告げているので一旦ロッカーに戻ることにした。そもそも、何を言うつもりなんや。変わったねって? そんなん、困らせるだけや。大丈夫、大丈夫。腕時計に縋っていつもの呪文を唱えた。午後も、頑張ろう。



 仕事をしたことでクールダウンし、三井くんに連絡をすることもないまま今度こそ無事に金曜を迎え、残業の末に夜行バスに乗った。新幹線だと間に合わなかったから、夜行バスを選択したのは英断だったらしい。三列シートタイプの夜行バスにして寝ながら待つだけだと思ったが、疲れているはずなのにどうにも眠れない。サービスエリアでの休憩では体を伸ばしつつ、何やってんやろなあと自嘲の笑みを漏らした。
 さっぱり眠れないまま新宿に降り立った。トイレで鏡をみればなかなかにひどい顔だ。せめてもの抵抗として化粧とマスクで誤魔化してから電車に乗ってリュックを抱えて目を閉じたが、やっぱり眠気は来ない。時々睡眠剤があればなと思う時もあるのだが、そんな状態だと零さんに思われるわけにはいかない。そうこうするうちに駅まで着いてしまい、冷たい朝の空気を感じながら道を歩いた。先週、迎えに来させてしまった公園の脇を重い足取りで歩く。
「──!?」
 息を詰めて屈み、植物の陰に隠れた。風見さんと斎藤さんが、なんでこんな所に。零さんか? 別件でただの偶然か? 連絡もせずこんなところにいる私という可能性もゼロではないか。ペンギンちゃんがいるだけに、なんとも言えない。斎藤さんは横顔だったにしても、二人の顔が見えたということは、逆も同じだ。難しい顔をして話をしているようだったし、斎藤さんが何かを風見さんに見せているところだったから少なくともこちらに意識は向いていなかったはずや。それでも、零さんというエースに接触できるくらいに優秀な公安の二人なのだ、注意のし過ぎということはない。今日でなければ何食わぬ顔で挨拶でもできたのになあ、と自分を恨んだ。話し声など到底聞こえないくらいに距離があるのはいいんだか、悪いんだか。
 できるだけ気配を消して背負っていたリュックを抱え直し、這うように移動して公園を通り過ぎた。不審者のできあがりである。その後追われる気配も尾行されている様子もなくマンションに辿り着き、駐車場を確認したがRX-7はなかった。いないらしい。ほう、と息をついてエレベーターをあがり、それでも慎重に静かに鍵をあけた。やっぱり零さんはいなかった。
 先週から何かが変わったようには見えないが、元々生活感はあまりない部屋なので絶対にとは言えないのが悲しいところではある。記憶のままの場所に紙袋はあったし、シャワーだけ浴びて早く帰ろう。本当は今すぐ撤退したいところやけど、この近くに公安の二人がいるなら少しは時間をあけた方が良さそうや。

 ふう、さっぱりした。鞄から冷蔵庫に移しておいた水で喉を潤した。テレビをつけながら頭を拭いていると、朝のニュースの時間だった。殺人事件や、大物芸能人の結婚報道、もうすぐ変わる法律、それから現在逃走中の連続殺人犯というラインナップらしい。相変わらず物騒やなあと溜息が出た。最初の殺人事件の話の途中で画面の上にテロップが出て、件の連続殺人犯が逮捕されたと報道される。やはりこの世界の警察官は優秀らしい。すごい。いや、もしかしたらどこぞの探偵が関わったのかもしれへんけど。探偵甲子園とかいう話があったようなうっすらとした記憶があるくらいやし、名探偵以外にも探偵はいるんやから。
「ん?」
 キャスターが話した潜伏先、この辺やん。これは、ニアピンというやつか。やっぱりここ東都は危険すぎる。
 ニュースをつけたままソファに座り、スマホも用いて最新情報をチェックする。報道陣がこの近くに来たらちょっと面倒やな。もしなんかの弾みに画面の端に映ろうものなら、誰に指摘されるか。零さんがメインの映画でそんなシーンがあったはずや。みんな目敏すぎてほんまに怖い。公安の二人はその件で動いてたのかもしれないなと検討をつけつつ、現場と駅がここから逆方向であることを祈った。

 願いが届いたのか、無事にカメラとは遭遇することなく、そして公安の二人を見かけることもなく最寄駅まで辿り着いて、紙袋を抱えたまま安堵した。三十六計逃げるに如かず、このまま大阪に向かって全速力や。



 その三日後の零さんとの電話では写真立てはおろか、私が東都に足を踏み入れたことに関しても話題にあがらなかった。先週帰れなかったことの謝罪や、こちらのなんてことない近況報告、梓ちゃんとの勤務の話、冬至とは何かやクリスマスの起源や派手なイルミネーションをしている家の話など、他愛のない雑談をした。深夜徘徊をしないようしっかり釘を刺されてから通話が切れて、ガッツポーズした。
 喜んだその次の日、また季節が飛び、布団の暑苦しさで目が覚めてその事に気付いた。

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