推しに尽くしたい話 | ナノ


▼ 36

「しゃ、シャワー浴びてくるね」
「んー」
「零さーん」
「ん」
「おーい」
 やべぇ離してくれないんやけど? どうした。え、昨晩何があった。ポアロから逃げて、コナンくんに捕まって、そんで零さんに回収されて、ああ、そっか、寝落ちしたんか。……おはよう、零さん至上主義の私。寝落ちに関して色々言いたいけどまずは目の前の案件や。いきなり難問なんですけど。声をかけても離さないどころか腰に回った腕の力は強くなり、私の首に丸い頭を擦り付ける。寝ぼけてるんやとして、あんまり動くと起こしそうで嫌やし。起きてるとしてもこの行動の意味が分からん以上動けへんし。うん、詰んだわ。
「悠宇……」
「あ、起きた?」
「起きてるよ」
「……あの、零さん、私シャワー浴びたいんだけど」
「だめだ」
「なん……だと……!?」
「んー」
 ぎゅうぎゅうと抱き締められ、触れ合う肌の面積が増え、胸元にかかる吐息が擽ったい。どきどきとうるさい心音が伝わってしまいそうで、そういう意味でも恥ずかしい。
「ちょ、え、なんで脱いでるの」
「ああ。……皺になりそうだったから脱がせた」
 その微妙な間はなんや。
「零さーん?」
「悠宇」と名前を呼んで、顔をあげた。
「な、なに?」
「好きだよ」
 突然の愛の言葉に一周してスペースキャット顔になった。それを見て、零さんが吹き出す。
「──っく、はは!」
「え、え?」
「おはよう、悠宇」
「……オサヨウゴザイマス」
 零さんの綺麗な笑顔に見蕩れながら、なんとか改めて朝の挨拶を返した。
 何がどうなってんの。やっと心臓に悪すぎるハグから解放され、パニックのままなんとか風呂場に逃げ込んだ。もちろんクローゼットから服を適当に引っつかむのも忘れない。

 ちょっと待って、このキスマークなんや。胸の真ん中より少し左に鬱血痕を認めて思わず全身を確認したが、他に身体を重ねた形跡も感覚もない。混乱の挙句、一旦見なかったことにして頭からお湯を被った。朝から待ってしか言ってない。



「ちょうど良かった。朝食できたぞ」
「え、あ、ありがとう……」
 入念なお肌のケアの後に戻ると、食卓に並んでいるのはハムサンドと紅茶だった。
「悪いな、簡単なので」
「いや、充分なんだけど……。もしかして今材料買いに行った?」
 あまり帰れないこの家にパンがストックされているとは思えなかったし、今までの経験上も冷蔵庫がほとんど空っぽというのはさして珍しいことでもなかった。だとすると、申し訳なさしかない。
「ああ、まだスーパー開いてなくてこれくらいが限界だ。座って」
「ほんとにありがとう。いただきます」
 向かい合って朝食を取り始める。まずは紅茶を一口飲んで、ハムサンドに手を伸ばした。
「ん、おいしい」
「良かった」
「……そんなに見られてると食べにくいんですけど」
「ああ、悪い」
 にこにこ笑って口だけは謝りながらも、組んだ手に顎を置いたままこちらを見つめる姿勢を崩さない。砂吐くわ。いっそ怖い。
「零さん」
「なんだ?」
「食べましょう」
「そうだな」
「……聞いてる?」
「聞いてるよ」
 小さく肩を竦めて、やっとハムサンドに手をつけた。それを見ながら小さく自分のハムサンドを齧った。解せぬ。零さんの思考回路がさっぱり分からん。
「明日もいるのか?」
「うん。昼過ぎに帰ろうかと思ってる」
「そうか。僕も今晩もこっちに帰るつもりだ」
「了解」
「何時になるか分からないし、無理に起きてなくてもいいからな」
「零さんこそ、無理し過ぎないで。今日はどこに出勤?」
「一旦登庁だな」
「おっけ、スーツね」
「ああ。悠宇の予定は?」
「決めてないけど、ちょっと買い物行って図書館かなあ」
 食材と、シャンプーも買っときたいし、と風呂場を思い出して言葉を続ける。
「だったらついでにごま油とラップ買ってきてくれるか?」
「分かった」
 ただの業務連絡に関しても、妙ににこやかだ。昨晩何があった。疑問まみれやけど、聞くに聞けない。

「いってらっしゃい」
「いってきます」
 抱き寄せられて一瞬ハグをしてからスーツで出勤する零さんを笑顔で見送り、閉じた玄関を見つめて溜息をついた。
 急に優しくなる定番としては、浮気が挙げられるというけど……いや、前から優しかったか。ここまでやなかったけど。あかんな、昨日の光景が脳裏に焼き付いてるから思考にバイアスがかかる。両頬をぱちんと叩いて気合を入れて部屋に戻り、洗濯機を回して食器を洗った。
 ともあれ心移りの可能性は全く否定ができない。自覚しているかどうかはともかくとして、ポアロで降谷零の顔が出ていたというのは心を許している証拠や。となると、零さんのことやから、梓ちゃんではなく妻である私を見ようと、愛していると自分に言い聞かせている、とかかな。こちらの方が、責任感の強い零さんらしいといえばらしい。自分から結婚を願っておいて、不安定な私を放っておくことなどできないと。ふむ、浮気の後ろめたさよりよっぽど有り得る。腑に落ちてしまったぞ。
 洗濯機が仕事を終えるのを待つ間にスマホの電源を入れた。
「やっば」
 梓ちゃん、朝倉、それから三井くんからのメッセージが予想以上に蓄積している。意外なのは、特に三井くんが多いことだ。まずは気遣う梓ちゃんに返信すると共に埋め合わせのスイーツ会の日取りを提案し、朝倉にスタンプを送り付け、三井くんの方に取り掛かる。メッセージと、それから着信も。警察という職業柄だろうか、随分と心配をかけているらしい。声で元気やとアピールするか、と電話をかけた。これだけ心配かけておいて、軽いメッセージで済ませるのは些か気が引ける。
 数コールであっさり繋がり、こちらが声を発する前に三井くんの焦った声が届いた。
「──進藤さん! 大丈夫だったのか!?」
「あー、心配かけてごめん。いやまさか時間つぶしに寄った店で傷害事件に遭遇するなんて思ってへんくって。せっかく予約してもらっとったのにごめんな」
「そんなことはいい」
「朝倉にも謝んないと」
「あいつはどうでもいいから」
「相変わらずのひどい扱いやな」
「朝倉だからな。それで事件の方は?」
「犯人も分かって、即解決無事逮捕」
「……そうなんや。良かったな」
「ただ事情聴取とかもあってなかなか連絡どころやなかってん。ほんまごめん」
「いや、お疲れさん」
 本当にごめん、三井くん。零さんのことでいっぱいいっぱいやったんや、とは決して言えへんな。頭が上がらない。
「今日の予定は?」
「決めてへんな」
「元気があるならだが、このあと出れるか?」
「まあ、うん、一応?」
「俺と朝倉からちょっと渡したいものがあって」
「おっけー」
 三人ならいいか、と前回の居酒屋を思い出して快諾し、昼過ぎと時間を決めて通話を切った。しばらくして、指定の店の詳細が送られてきた。そして家事を終えて身だしなみを整え、仮眠の後に時間に合わせて家を出た。

「よっ」
 十分前だというのに、店の前には既に私服姿の三井くんがいた。
「ごめん、お待たせ。寒かったやんな」
「いや、今来たところやし」
「そう?」
 自然な流れでレトロな喫茶店に入って四人がけのテーブル席に案内され、私はアイスコーヒーを、三井くんはホットコーヒーを頼んだ。
「朝倉は?」
「今朝帰った」
「え」
「で、昨日渡せんかったんがこれ」
 ぽかんとする私に、紙袋が渡される。受け取ると、大きさの割に重量感があった。
「結婚おめでとう」
「あ、ありがとう……? 開けていい?」
「おう」
 頷く三井くんを見て、包み紙を丁寧に剥がしていく。
「うわ、可愛い!」
 入っていたのは、品のいいガラス製の写真立てだった。
「気に入ったみたいで良かった。別居婚でしばらく式どころですらないって聞いたからな。ダンナの写真でも飾っとけ」
「……ありがと」
 つい苦笑いになりそうなのを、なんとか誤魔化した。潜入捜査官のあの人の写真などない。せっかくやけど、少なくともしばらくは空白のままになりそうや。
「……聞きたいんやけど、さ」
「ああ、相手のこと?」
「……いや、やっぱりいい」
「えー、気になるやん」
「幸せいっぱい新婚さんに聞くもんやないわ」
「うん?」
 こてりと首を傾げた。写真立てを送っておいて、別居婚と知った上でのその言葉に違和感を覚えた。いわゆる新婚とは程遠いし、ついでに言うと周囲からすれば最新情報であっても、今が十二月なので優に半年は経過しているのだ。
「お前、ほんま綺麗になったよなあ」
「へ」
「別に昔がどうってことちゃうけど、幸せなんやろうと思ってな」
「……うん」
 零さんに少しでも見合うようにと頑張ってきたことが、全くの無駄ではなかったと証明されたのは、嬉しかった。
「ほんま嬉しそうやな。ま、この前のは騙されたって感じやけど」
「あは、ごめんやん」
「思い返したら彼氏おらんって言ったんは朝倉やし、旦那とは一言も言ってへんかったしな」
「さっすが三井くん、分かってるう」
 茶化して笑い合ったところで、二つのコーヒーが届いた。
「……実はさ、俺、高校ん時お前のこと好きやったんやで」
「ごふっ」
 真面目くさった顔での突然のカミングアウトに思いっきりむせた。コーヒーを吹きかけて慌てておしぼりで口元を覆う。
「そんな古典的なリアクションせんでええやん」と拗ねたように口を尖らせた。
「けほっ、わざと、ちゃうわ!」
「知ってる」とケラケラ笑う。
「なんでまた今になってそんなこと言うん」
「負けたなーと思ったからな」
「はあ?」
 胡乱気な声を出すと、三井くんが苦笑いを浮かべた。
「いや、もし仮に俺と付き合ってたとしてな? 今みたいに綺麗になってへんかったやろなあ、としみじみ思ってな」
「よくもまあそんな小っ恥ずかしいこと言えるようになったな。ほんまに三井くん?」
「ひでえ。まあうん、自分でもびっくりしとるな」
「……ええと、ありがとう?」
「疑問形かよ。いい相手、見つけたんやな」
「うん、さんきゅ」
「どんな人なん? なんか噂は聞いたけど、謎が多すぎて何が何だか」
「朝倉経由?」
「おう」
 世間は狭いというか、同僚の一人が朝倉と同じ大学のサークルだったな、と思い出した。あのスピーカー野郎、と目を細める。
「束縛の厳しいゴリラって聞いてちょっと心配しててんで」
 思わず突っ伏した。同時にそれで今回誘われてたんか、と納得した。
「実際は?」
「……すごい、人」
 むくりと顔をあげて、ぽつぽつと話した。
「うん」
「正義感が強くて、優しくて、物知りで、私なんかにもったいない人」
「……うん」
「ええと、ゴリラっていうのは、まあ、筋肉質やからであって、顔やないよ? むしろ童顔かな。あとは……そうやな、お仕事忙しいくせに、連絡くれるし、気にかけてくれるから。ほんまに、こっちが心配になるくらいで。まあ、あちこちで期待されるんも、すっごい分かる人やし。世間様が放っておかないよなあ、みたいな?」
「……うん」
「重圧は想像もつかないくらいやし、ちょっとでも力になりたいなあって。笑っててほしいなあって、思ってて。そしたら、なんか、気付いたらこうなってたといいますか」
 うん、とまた三井くんが頷く。頬杖をついて穏やかに相槌を打ってくれるもんやから、どうにも気恥しさを覚えて視線を彷徨わせた。
「束縛ってのも、感じたことないし。そらまあ、やっぱ優先はしたいし、一応人妻として? 無闇矢鱈に飲み会に参加するんもなあと思って多少の遠慮はしとるけど、別に言われたわけやないし。むしろ人付き合いは今まで通りでいいって言ってくれる」
「……うん」
「そんな感じ、かな」
「うん、そっか。ほんまに、結婚おめでとう」
「ありがとう」
 言葉にしたことで、自分の道筋を再確認できた。



 朝倉と妹ちゃんの話に興じながらゆっくりとコーヒーを楽しみ、そして飲み終えるとあっさりと別れた。図書館は諦めて、半端な時間は特に目的もなく駅前の百貨店をぶらつき、スーパーとドラッグストアに寄って帰った。レジの前でセロリを忘れたことに気付いて取りに戻ったが、順調なものだ。零さんが食べなければ明日自分で消費する前提で多めの夕食を作り、連絡が来ないので一人で食べた。いつも通りの流れだ。
 紅茶を飲みつつニュースを見て、筋トレをしてから風呂にしっかり浸かり、お肌のメンテナンスに専念する。勤務後の梓ちゃんとのやり取りで来月に会う約束をして、朝倉に写真立てのお礼メッセージを送った。
「十一時半、か……」
 ルームウェアでごろりとソファにうつ伏せに寝そべり、肝心の相手からの連絡が入らないスマホを睨みつけた。一時か、二時か、そもそも帰れやしないのか。いつもの流れには零さんが欠けているから、どうにも調子が狂う。

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