推しに尽くしたい話 | ナノ


▼ 35

 家に帰る時間や。この時間、ここから帰れる家など一つしかない。大阪までは到底帰れないから。重たい足取りでゆっくりゆっくり米花駅に向かう。それから電車に乗り、最寄り駅で降りた。
「かえりたないな……」
 雑踏の中、ぽつりと独り言が漏れた。どこかに寄り道しよう。
 すっかり冷たくなったココアを手に、駅付近の公園に迷い込んで、ブランコに乗った。薄暗いその公園だが、街灯と月明かりだけで暗闇に慣れた目には充分だった。足を地面につけたまま少しだけ揺すると、キイキイと錆びた金属が音を立てる。そうしながら、足元に置いた鞄から飛び出したペンギンちゃんを睨みつける。
 零さんは今、どこにおるんかな。
 はあ、と重たい息を吐き出す。あの家なのか、安室透の家なのか。はたまたお仕事中かもしれない。声掛けずに帰ってごめんな、と梓ちゃんにメッセージを送り、スマホは電車に乗ってすぐ電源を切った。一度電車に乗って温まった体も、十二月の寒空の下で冷えてしまった。晒された首元に吹き込む風が冷たくて、指先も、顔も、冷たい。風邪ひくなあ、とぼんやり考えながら少し血で汚れた袖を捲って腕時計をみると、とうに日付を跨いでしまっている。……さあ、今日は一体何月何日何曜日でしょうか。なんつって。あーくそ、寒い。
 このところ幾度となく胸が悲鳴をあげていたのは、恋心のせいだと気付いてしまったからで、後ろめたい。二人分愛させてと大口叩いたくせに、自分のための感情が湧いてしまっている自分が許せなかった。あの人の大切な人を守れず笑顔を曇らせた私が、そんな感情を持ってはいけない。早くこの想いに蓋をして、足を動かさないと。
 目を閉じて、ゆっくりゆっくり息を吐きながら一、二、三。昨日の私にサヨナラ。大丈夫、大丈夫。おかえり、昔の私。ただ愛しい人の為に生きる今日を始めて、立ち上がって伸びをした。零さんの家に向かおう。余計な心配かける。
「──いた」
「……こんばんは」
 遅かったか、と思いながら手を下ろし、にこりと挨拶をした。
「こんな時間に、こんなところで、何をしている」
 零さんが、いた。暗がりでもあの髪色は目立つ。微かに怒気を含む口調で大股でこちらに向かってきて、その難しい顔つきが読み取れるようになった。おい、どうした。
「さっきはありがとうございました。ちょっと、寄り道したい気分だったんです。今から帰るところですから」
 愛想笑いをすると、一瞬あけて眉を下げ、安室透の心配顔を作った。そうそう、ここは外やから、同僚の友人という関係ってことを忘れたらあかん。東都ではいつどこで誰が見ていてもおかしくないんやから。
「……こんな時間ですし、送っていきますよ。近くに車を停めていますから」
「お構いなく。すぐそこですし」
 そう固辞しながら、鞄を手にして歩き始めた。零さんが当然のように着いてくる。
「それでもこのご時世、危ないですし。送らせてください」
「……では、お願いします」
「はい。こっちですよ」
 無言で並んで歩いて、公園脇に停められた見慣れた白い車の元へ向かい、どうぞ、と促されるまま暖かい車に乗り込んだ。
「ごめんなさい!」
 そして密室になると真っ先に口を開いた。
「心配した」
「……うん、ごめん」
「帰るぞ」
 私がコクリと頷いたのを見て、車が動き始めた。
「今日、ほんとに、ごめんなさい」
「……何がだ?」
「いろいろ。連絡なしに行ったことも、事件で気遣わせちゃったのも、今迎えに来させたのも、全部」
「連絡はしてくれた方が助かるが、別に構わない。それに今日は突発的だったんだろう。紅茶も僕が好きでやったことだから、気にするな。ただ、夜歩きは感心しないがな」
「うん。もう、しない」
「……あまり無理をするな」
「大丈夫」
「……」
「大丈夫だから」
 微笑むと、零さんはちらりとこちらを探るように見て、運転に集中した。そこからは終始無言だった。気まずいはずの沈黙のはずが、零さんの匂いを感じたからか、なぜか体は疲れを思い出して急激な眠気に襲われた。気合いで意識を保って家に着くと、中はまだ寒く少し目が冴えた。そして零さんの部屋ではなくリビングの床に投げ出された鞄から、私が居ないことに気付いてすぐ来てくれたのだと分かってしまった。零さんが照明とエアコンをつけて、私から荷物を取り上げてソファに座らせ、それから鞄を脇に置いて、本人も隣に座って私をふわりと優しく抱き締めた。
「悠宇、おかえり」
「た、ただいま……」
「冷えてるな。何か暖かいもの飲むか? それとも先にシャワー浴びるか?」
 優しい言葉と共に、零さんの手のひらが私の頬に触れた。どきりとした胸には気付かないフリをして、「だ、いじょうぶ」と途切れつつも口癖になった言葉を告げた。
「……いつでも頼れとは、まだ言えない。けど、僕の前にいる時まで強がらなくていい」
「大丈夫だから、ほんとに」
「嘘だな」
 笑顔を作ったのに、必死の虚勢は真顔の零さんによって即座に切り捨てられた。なんで。
「無理に笑うな。分からないわけないだろう」
 もう片方の手も私の頬に触れ、顔を逸らすことが許されなくなった。
 あなたが笑っていてほしいって言ったから、私は笑ってるって決めたんやから。取り繕えない弱い私なんかは要らん。弱いから、こんなことを言わせてしまう。ただでさえ過酷な環境の人に、無理をさせてどうするんや。──こんな時、梓ちゃんならどうするかなあ。ふと浮かんだ疑問をかき消して、たった今、推しが目の前で生きているという事実を噛み締めた。ほら、幸せやろ?
「零さん、私はもう大丈夫だから。ありがと」
 ちゃんと笑えたはずなのに、零さんの口はへの字に曲がっている。
「……君は、優しすぎる」
 意味が分からなくて首を傾げようとしたが、固定されているため叶わず、ただきょとんと目の前の整った顔を見つめた。その顔が近付いてきて、目尻に唇が触れてリップ音を立てた。
「……あー」
 なるほど、泣いた跡がバレたか。
「それに嘘がヘタだ」
 正にその通りすぎて何も言い返せなかった。泣き跡を直しもせず大丈夫とか、無理があるわ。
「君は犯罪に敏感だ。悪意というものを受け付けないんだろう。……怖かっただろ」
 手が背中に回されて、肩に顔を埋める形になった。とん、とん、とあやす様に背中を優しく叩かれ、コーヒーと零さんの匂いに包まれる。お別れしたはずの昨日の私が、未練がましく今日の扉を叩いている。私を理解した言葉が今日の私を揺らがせる。
「そんな中で被害者を助けようとした。よく頑張ったな」
「あ……」
 とん、とん。
「よくやった。充分だ」
 とん、とん、とん。一定のリズムが忘れつつあった眠気を呼び戻す。
「……優しすぎるのは、零さんの方」
「そうかな」
「うん。そう」
「どこが?」
「……けっきょく、助けたの、れいさんだし」
 ふわり、と少しずつ眠気で思考がまとまらなくなってきて、ゆっくりとした瞬きを繰り返す。
「きっかけを作ったのは悠宇だ」
「……紅茶いれてくれたし」
「大したことじゃない」
「……あれ、ポアロのじゃないでしょ」
 眠気に負けた瞼が開かなくなった。それでも、私の好きな銘柄のアッサムが、ピンポイントでそううまいことあの店にあるわけなどないことは分かっていた。
「気付いてたのか」
 穏やかな声と共に、手は止まることなく同じリズムを刻んでいる。
「……やっぱり」
「カマかけたな?」
「だって、そんなぐうぜん、ないよ」
「嫌だったか?」
「……おちついた」
「そうか、良かった」
「でも、ちょっと、ふあんになった……」
「どうして?」
「だって、」
 安室透は知らない人だから。それをどういう表現で言おうと思ったのか、どう伝えようと思ったのか、睡魔に屈した頭では考えた端から記憶できず、言葉になったのかならなかったのかも分からないまま意識を手放していた。



 ねえねえ、零さん。好きでした。ずっとずっと、愛しとるから。そやから、今だけ、ちょっとだけ隣にいてください。そしたらまた、頑張るから。今度こそ負けへんから。愛しぬくから。お願いやから、笑って、幸せに生きて。大丈夫、そしたら私は幸せやから。



 目を開くと、零さんの整った顔のドアップで危なく悲鳴をあげかけた。なんとかそれを飲み込むと、幸いにして起こすこともなかったらしくまだすうすうと静かな寝息を立てている。さらりと流れた金髪も、伏せられた目に隠れたスカイブルーも、すらりとした鼻も、全て全てが美しい推しが眠っている。天国かな。布団の下で私の体に回った筋肉質な腕は直接私の肌に熱を伝えていた。……直接とは。
「──っ!」
 今度は自分の姿に気付いて再び悲鳴をあげそうになった。落ち着け、思い出すんや。ええと、そうや、昨日は話してるうちに早々に寝落ちして……待って、なんで私は下着しか身につけてないの? そしてなんで零さんは全裸(仮)なの? 全く思い出せない。記憶がないだと? え、まじかそんなことある? やっと穏やかな寝顔を拝めたという喜びよりも混乱が圧倒的に優位の状態が継続する。零さんが身じろぎして、ぼんやりと目を開いた。
「……おはよう、悠宇」
「お、おはよ、零さん……」
 寝ぼけ眼の挨拶が新鮮すぎて、真面目に夢かと思った。目を白黒させる私を見て、零さんがふふ、と笑う。
「かわいい……」
 おい待て可愛いのはどっちや。まじか零さんは神様であり天使だった? 三十路を目前にした男の可愛さではない。なんやこれ頭が痛い。

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