推しに尽くしたい話 | ナノ


▼ 34

 できるだけ静かに店を出て、少しずつ足を早めた。最後には走って走って、息を切らして、ショートブーツのヒールで足を挫いて躓いて、何とか踏みとどまって、目についた公園に入ってベンチに座り込んだ。手で顔を覆って俯き、はあはあと荒くなった呼吸を少しずつ落ち着ける。冷たい空気と、夜の公園の静寂が心地いい。
「まじかあ」と漏れた音は予想以上に掠れた声になった。
 どうしよう、私、梓ちゃんに嫉妬した。

 己の不甲斐なさに泣きそうになった。あの人は推しやろ。一番の推し。最推し。あちら側の人。光の人。私なんかの手の届かないところにいる人。愛しい人。生きていてほしい人。誰より何より、幸せになってほしい人。笑っていてほしい人。例え他の全てを捨てても支えたい人。そう思ってこの世界で生きてきた。なのに。
 私は降谷さんを愛して、それから、零さんに恋してしまった。
「阿呆やろ、ほんまに」
 声が情けなく震える。あむあずだのふるあずだの、好き勝手言っておいて、この体たらく。
 嫌や、と思った。取られたくない、と思ってしまった。そんな自分に絶望した。私の入り込む余地なんて一切ない不戦敗やから。恋を自覚した瞬間、失恋した。あの美しい世界は、あちら側で輝いている。それは紛うことなく、完成された空間だった。
 嫉妬というどろりとした感情に襲われる醜い姿を、あの主人公に見透かされた気がして、怖くて、恐ろしくて、逃げ出した。今の私がこの立場にあるのは、偶然なんやと痛感した。弱っている時にたまたま近くにおったからや。神様が天使と出会う前やったからや。勝手に付け上がって、勝手に傷ついた自分に吐き気がする。烏滸がましいにも、程がある。
 ああもう、私はなんて邪魔な存在なんやろう。早く物語から退場しなきゃ。悪い方に転がってしまう前に。──だって私にはなんにもできへんから。誰も救えず、命の一つさえ守れない。そもそも、邪魔というのは「知っている」からこそ、その結果から判定していた。緋色シリーズは過ぎたし、この前キュラソーはその命を賭して大切な者を守った。そのことを、本人からではなくそれに付随する表彰式や落ちた観覧車から推測した。今まで何か行動したということもないけど、もうすぐ、動くという選択肢すら消え去る。私の原作知識に「今」が追いつくと、何をして何を避ければいいかが分からなくなる。隠れて怯えて、完結をただ待つことしかできなくなる。分かりきってたことやけど、私はあまりにも無力過ぎた。お前みたいな不確定要素よりも絶対邪魔になり得ない支えがお似合いや、とあの光景は私に知らしめた。
 本当は、逃げたい。すぐにでも降谷邸からありとあらゆる痕跡を消して、離婚届をだけ置いて遠くへ逃避行したい。無関係なこちら側に潜んで、時間という薬でこの馬鹿な傷を癒したい。でも、零さんを待つと言ったからには、一時といえど立場得たからには、約束を反故にすることなんてできへん。二人分愛するって宣言したからには、無様な恋心なんか徹底的に抹殺して、あの人のためにこの「一年」を生きるべきや。神様に近づき過ぎた代償を支払い、大切な友達との幸せを願うために。
 何食わぬ顔で日常に戻らんとあかん。そうは思っていても、頭の中はぐちゃぐちゃのままで、体は言うことを聞いてくれへん。ああしなきゃ、こうしなきゃ、山のように浮かぶのに、ベンチに貼り付いたように立ち上がることもできず、せめて視界にかかる膜を逃さないため瞬きしないようにしていたのに、ぱたり、涙が膝に落ちた。
「うぐ……」
 泣いてしまった。それを自覚してしまうと、次から次へと止めどなく熱い雫が溢れてきた。それにまた、嫌気がさす。他人への感情で溢れる涙は堪えてきた癖して、自分のこういう涙は抑えられへんのか。悔しい。苦しい。
 でも、私は、あの人の──……

「悠宇、さん……?」
「──え」
 すぐそこで私を呼ぶ声がして、がばりと顔をあげると、深い青色が私を捉えた。幸いというか、驚きでぴたりと涙が引っ込んだ。
「どうしたの」
「コナンくん……」
 どうして、と言いかけたところで彼の抱えた不釣り合いに大きなトートバッグに目が止まって顔を顰める。──私のやん。動揺のあまり、着の身着のまま出てきてしまったらしい。私からすれば小ぶりなトートバッグも、彼が持つとこんなにも大きい。
「ごめん、変なとこ見せちゃったな。鞄ありがと」
 慌てて乱暴に目元を拭い、トートバッグに力なく手を伸ばし、受け取る。重く感じた。すん、と鼻をすすった。
「……聞いても、いいかな」
 コナンくんが今までの猫をかぶった声ではなく、仮の姿である小学一年生にしては静かで落ち着いた声を出した。
「嫌や」
 大人気なくそっぽ向いたが、コナンくんは気にした風もなく視線の先に回り込み、ちょこんと隣に腰掛けた。メンタルどうなってんの。空気読もうか。
「悠宇さん、なんで泣いてたの?」
 挙句に小首を傾げて泣いて不細工になった顔を覗き込み、小さな悪魔が口を開く。
「……嫌やって、言ったやん」
「うん。だから無理に答えなくていいよ」
 たっぷり間を空けてから半ば自棄になって発した、至極微かな音を、陳腐な言葉を、少年の耳が掬いあげた。
「──安室さんのこと、好きなんだね」
 首を静かに横に振る。ぐす、と鼻をまたすすった。
「違うの?」
「うん。違うよ」と今度ははっきりと言葉にして返した。
 私が好きなのは、降谷零、たった一人だけやから。
「そっか」
 行儀よく座ったまま、口元に弧を描いて静かに笑う主人公を見て、どうしてか少しだけ曇りが晴れた。推しに尽くしたい。それが私の行動原理や。それは変わらない。今はそれだけでいい。動かなかった足に、力を入れられる。よし、と意気込んで立ち上がった。体を反転させてコナンくんの真正面に行き、手を差し出す。
「来てくれてありがと、コナンくん。こんな時間に子供の一人歩きは危ないから、お詫びに家まで送ってくで」
「女の人の一人歩きもね」
 コナンくんはにこりと私の手を取って、そう言った。

 手を繋いで夜の米花町を歩いた。コナンくんの手がひやりとしている。かく言う私も走ってかいた汗が冷えてしまい、身震いをした。今は十二月なんやもんなあ。立ち止まって繋いだ手を離した。鞄から財布を出して路肩の自販機に小銭を入れ、ブラックコーヒーのボタンを押す。
「コナンくん、コーヒー好きやんね」
「うん」
「はい、どうぞ」
「……ありがとう」
 きょとんとしてから、にっこりと愛らしい笑みと共に暖かい缶を受け取る。自分用も、と少し迷ってココアを買った。それをカイロ代わりに両手を温め、並んで夜の街を行く。
「……悠宇さんは、聞かないんだね」と前を向いたまま口を開く。
「何のことかな」
 漠然としているが、踏み込んだことの意外さを噛み締めつつ、質問で返した。
「色々、だよ」
「色々じゃ分からへんわ」
「意地悪だなあ」
「どっちがかな」
「分かってるくせに」
 七歳と二十八歳らしくない会話は、不思議と悪い気はしない。重なる単語に気分が凪いだ。
「ねえ、コナンくん。泣いてたんは内緒やで」
「それは誰に対して?」
「みんなかな」
「ふうん。まあ、いいよ。賄賂に免じてね」とコツコツ爪先でコーヒーの缶を鳴らして笑い、「悠宇さんは、好き?」と続けた。
「何が?」
「コーヒー」
「どうかなあ」
「ズルい答えだなあ。ボクは正直に答えたっていうのに」
 しかめっ面のコナンくんに対して、「大人やからね」と薄く笑って返した。
「大人ってズルいんだ」
「ズルいよ。時には嘘だってつく」
「嫌だなあ」
「嫌やで」
「嫌なのに嘘をつくの」
「その方がいいことやってあるからな。コナンくんにも秘密や嘘の一つや二つ、あるやろ?」
「……どうかな」
「あはは、ズルいね」
「子供だってズルいよ」
 赤信号で足を止める。車は通らない。
「梓姉ちゃんのこと、好き?」
「もちろん、大好き。公平に、私からも質問しよかな。……そうやなあ、平次くんのこと好き?」
「難しいこと聞くなあ」とコナンくんが渋面になる。
「パスする?」
「まさか。……好きとか嫌いとか、そういうのじゃないんだ。うーん、友達ともちょっと違うし。ライバル……ううん、味方っていうのが近いかな。同類だからね」
「そっか」
「次はボクの番だね。安室さんのこと、好き?」
 信号が青に変わり、コナンくんより先に、前へ踏み出して答える。
「どうかなあ」
「パスする?」
「今のが正直な気持ちなんやけどな」
「でも答えになってないよ。パスと同義だね」
「自分ほんま厳しいなあ。おっけー、パス。ええと、なんてったっけ……そうや、蘭ちゃんのこと、好き?」
「なっ!?」
 わざとらし過ぎたかな、と思いつつ尋ねると、立ち止まって絶句している。おいおいもう告白したんやなかったっけ。
「あ、こら、横断歩道の途中で止まったらあかんよ」
 笑って、熱を取り戻した手をまた繋いだ。
「好きだぜ」と明後日の方を見ながら赤い顔で言った。
「正直でよろしい」
 遠目に毛利探偵事務所明かりが見えてきた。
「ボクのことは好き?」
「お、意外なとこがきたなあ。うん、嫌いじゃない。そう聞く君は私のこと好き?」
「嫌いじゃないよ」
「お相子やな」
「そうだね。じゃあさ、嫌いなものは?」
「パクチー」と食い気味に即答すると、笑われた。
「あれは人間の食べるものやない。毒ですって全面に出とる。蓼食う虫も好き好きってくらいやから、まあ、食べる人の存在くらいはしゃーなし認めたるけど」
「すっごく嫌いなのが分かったよ」
「そういうコナンくんは?」
「……レーズンとか」
「また、珍しいな。食べ物ならピーマンとか、あとは数学とかかと」
「今やってるのは算数だよ」
「ああ、ごめんね」
「……あの人のこと、好き?」
「誰のことか、分からんな」
 もう一度、少し言葉を変えただけの問いにすっとぼける。この子はなんでここまであの人に拘るんやろう。バーボンなら探りたくもなるやろけど、公安と知ってる時期やし。安室透に恋慕している人から何か情報をと思ってるなら、それこそあの店には掃いて捨てるほどいるというのに。意図が掴めない。
「ちなみにパスは三回までだよ」
「指示語が不明確やから答えられへんの。パスちゃうよ」
「言葉にしてもいいの?」
「……君にそう言われると、恐ろしいなあ」
「また、パスだね」
「やとしても、まだ一回残っとるな」
「三回ルール承諾したね? 残念、コーヒー入れてもう三回だよ。もうあとがないね」
「うわ、そこカウントする? 答えといたら良かったわ──っと」
 人影を認めて目を細めた。コナンくんは爪先でまたコーヒー缶をコツコツ鳴らし、「続きは今度ね」と言った。
「次は私からやからな」と肩を竦めて手を離す。続かなくてんやいいけどな。私から聞かなければいいだけのことや。
「──いた、コナンくん! どこ行ってたの!」
「蘭姉ちゃん、ごめんなさぁい」
 叱られて子供らしさ全開で謝る仕草に、さっきまでとのギャップで吹き出しそうになった。うん、大丈夫。
「申し訳ありません。この子、私の忘れ物を追いかけて届けてくれたんです。お叱りなら私が受けますので、今回は許してあげてください」
「えっ、あ、そうなんですか?」
 対外向けの顔で頭を下げて謝り、コナンくんの背中を優しく押して、返した。突然スイッチの切り替わった私を胡乱気な目で見ている。おい、ブーメラン。
「はい。大変ご迷惑おかけしました。ご家族の方はご在宅でしょうか? それとももしご不在でしたら、こんな時間ですし──ご迷惑でなければ、後日改めてお詫びに伺わせてください」
「わざわざ来るの? 大阪から?」
「えっ、そんな、大丈夫ですよ。何もなかったわけですし。気にしないでください。父にも説明しておきますから」
 体の前で手をぶんぶん振って何度も固辞する蘭ちゃんに甘え、再度謝罪と礼を述べて踵を返す。言ったものの、東都にくる用事が増えるのは嬉しくなかった。ごめんな、卑怯で。後ろ髪を引かれて一瞬だけ振り返った。手を繋いでポアロの横の階段を上がっていく二つの影が見えた。
 やっぱりこの世界は美しい。

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