推しに尽くしたい話 | ナノ


▼ 33

 無事にというかは微妙なところではあるが、なんとか両親と別れてソファにぐったりと倒れ込む。疲れた。財布どころではない母の買い物に付き合わされ、父の展覧会の感想を聞き、なんとか予約していた居酒屋でのみ、ホテルに向かう二人と別れ、家に着いたのは日付が変わる直前になっていた。
 ああ、眠いな。シャワーは明日でいっか。化粧だけ落として、歯も磨かんと。

「……あー、」
 一瞬意識が飛んだ。本格的に良くない。重たい体をゆっくりと体を起こしてスマホを見る。時間そんな経ってへんよな?
「は?」
 一気に頭が覚醒した。この一瞬で日付が吹っ飛ぶなんて、誰が予想できようか。いつもなら朝目が覚めて気付くというのに、と急に訪れた秋に血の気が引いた。その上、土曜日の翌日が、再び土曜日。奇しくも、三連休を手に入れてしまったらしい。まじか全く嬉しくない。
 ある意味当然の運びというか、探偵がいて事件がある。小学生が事件に関与するには、土日という環境がうってつけなのだろう、休日の割合が増えている。だからこそ、土曜日の次の日付が吹っ飛ぶのは滅多になかった。すぐキャンプとか行くもんな、と納得していたし、そういう心配がほぼないからこそ降谷邸に行っていたという側面もある。油断していたというのが正直なところだ。
 親に一応帰宅連絡を入れるつもりが、恐ろしくなった。それは何故か働いているはずの金曜に親に会っていたという奇っ怪な現象を肯定することになる。あの二人は、今、どこにいるんだろうとも思った。ホテルなのか、はたまた土曜を迎えた瞬間らしく、自宅なのか。
「う……」
 気持ち悪い。口元を押さえて近いキッチンに急いだが、吐き出せたのは空気だけだ。
「落ち着け、落ち着け……そうや、紅茶。いつものやつ」
 落ち着くためには、ルーティーンを。動揺しながらもなんとか紅茶を準備し、手持ち無沙汰な蒸らす間にはずっと腕時計を触ってしまっていた。出来上がった紅茶を運んでソファに腰を落ち着ける。今日はもう、何もしたくないな。
 日付が飛ぶというのは、事件の合図だと認識している。今日もまた、私の知らないどこかで、誰かが殺される。命が、奪われる。
 命とは貴いものだ。そんなことは言うまでもない。アポトキシン4869があれど、生から死へは一方通行という理に相違はない。だというのに、この世は容易に人が死ぬ。重たいはずの命がいとも簡単にこぼれ落ちていく。私の勤務先である病院というのは、人の死に近い環境にある。けれど、それが悪意のあるものによることは滅多にない。私の知っている「日本」というものにおいて、死因が他殺であるものは一%に満たない。そのはずなのに。
「……たすけて」
 慣れてしまうのが、こわい。慣れという汚染に侵食されていくみんなが遠い。
 膝を抱えて「だいじょうぶ」と呟いてみた。何度も何度も自分に言い聞かせた。大丈夫。何が大丈夫なのかはさっぱり分からなかった。

 空が白んできた頃には誰かに会いたくて堪らなくなった。誰でもいいわけではないが、誰に会いたいのかは自分でもよく分からない。推しである零さんの声が聞きたいのか、見たいのか、会いたいのか。それとも旧友に会いたいのか。はたまた梓ちゃんに和みたいのか。
「う、さむ」
  夏から突然の秋だったと思い出した。季節が飛ぶというのは何かと面倒が多い。出すタイミングも片付けるタイミングも分からない炬燵はずっと夏仕様のままになっている。
 そうや、肌寒いから人恋しいんや。それや。そう思ったはずなのに、朝に届いた朝倉からの誘いに気付けばイエスの返事をしていた。
『再来週の金曜三井とのむんやけどどう? 東京おったりせん?』
 私の、阿呆。断れよ。以前、時々東京にいると漏らした自分も、今行くと返した自分も、目一杯ぶん殴りたい。金曜やから事件の可能性は低いやろ、と自分に言い訳した。



 週明けに軽い気持ちで申請した有給は許可されてしまって東都行きを断る理由も無くなった。実際、二人に会って汚染されていないか確かめたくもあった。まだ一週間の猶予があったはずだというのに再び日付がワープし、突然の冬の上に明日は東都という木曜になっていた時は発狂しそうだった。さっぱり眠れないまま夜が明け、そこそこの時間に家を出て、一番のろい新幹線で外を眺めたり、仮眠を取ったりしながら東都を訪れた。しかし指定の時間まではまだ時間がある。どこかで時間を潰さないと。
 自然と足がポアロに向いていた。
 あかん、寒い。Vネックのニットとテーパードパンツにショートブーツを合わせ、チェスターコートを羽織ってきたのだが、マフラーを持って来なかったことを悔いた。早く店に入りたい。身震いしてずれたトートバッグを肩にかけなおし、ポケットに手を突っ込んで足を早めた。
「いらっしゃ──え、悠宇さん!?」
「やほ、梓ちゃん。来ちゃった」
 出迎えたのはマイ天使看板娘の方で、しかしその奥には驚いた顔の推しの姿を認めた。
「教えてくれたら良かったのに」と口を尖らせつつ、梓ちゃんが入口から最も遠いカウンター席に案内してくれる。
「ごめんごめん、思いの外時間できちゃって。夜まで暇になったから、つい」
「そうなんですね。もう、本当にびっくりしたんですよ」
 日付が飛んだからというのが最たる理由ではあるがもちろん言えない。あははと笑って誤魔化し、他の客の対応に忙しそうな零さんをちらりと見てチーズケーキとアイスコーヒーを注文した。寒いけど、店内はあったかいし。たとえ梓ちゃんと言えど、同じポアロのコーヒーであれど、まだ零さん以外の淹れるホットコーヒーは飲みたくない。

「前から思ってたんですけど、冷えませんか?」
 十二月にアイスコーヒーを飲む私に、梓ちゃんが首を傾げつつ言った。夕方から夜に差し掛かった平日の喫茶店にいる客は少なく、背後こそ予約席であるものの、がらんとしている。おかげで合間で梓ちゃんとはよく話ができている。以前約束したタピオカやパフェの行きたいお店や、最近の店の忙しさ、新メニューなどなど。一方で零さんとは先程までご婦人方の話相手をしていたこともあって絶妙にタイミングが合わず、まだ挨拶以外の会話ができていない。今だって食器を洗っていて、随分と静かな空間になっている。
「年中アイスコーヒーじゃないですか」
「あはは、大丈夫。好きなんよねー」
 笑って返しながら「自分じゃ美味しく淹れれへんから」と付け加える。
「確かに、自宅でとなると既製品になりがちですよねえ」
「そうそ、う……」
 ガラス越しに、主人公と色黒高校生探偵が見えた。顔が引き攣りそうになりつつもなんとか笑顔をキープする。ポアロの電話が鳴ったことに力一杯感謝して、御手洗に一時撤退する。落ち着け。コナンくんと平次くんのセットってことは映画案件とかかな。百人一首のやつとか。あれって冬やっけ? 違うか。
 トイレに逃げた手前、用を足して気を取り直し、そっとドアを開けると、店内に高校生探偵コンビがいて固まる。まじか。しかしトイレに引きこもり続けるわけにもいかず、全神経を集中させて気配を消し、そろりと席に戻る。カウンター席なので、二人に背を向けて居られるのは不幸中の幸いやな、と遠い目になった。
 存在が恐ろしくて聞き耳を立てないようスマホに集中してみたが、うるさいわボケ、と怒鳴る平次くんの声なんかは耳に入ってしまう。帰りたいが、まだ食べかけのケーキを置いて出るのもなあと思うと出るに出れない。そして緊張し過ぎてケーキが食べれない。胃が痛い。詰んだ。あ、零さんが二人に絡みに行った。これは本格的に零さんと喋れず終わるなあ。今は安室透やし、梓ちゃんとは話せたし良しとしよう。欲が出るといいことはない。
 気付けば二人以外にも一人、男性客がいるからはまだましかな。あとは背後の予約席のお客さん早く来てほしい。お願いなので私と名探偵の間に物理的に入っていただきたい。私の精神衛生のために。油断するとすぐ腕時計に伸びそうになる手を引っ込めた。
 カラン、と音がして男性客が入ってきた。
「あれ? まだアイツら来てないのか?」
「予約されてた米花大学の演劇サークルの方ですよね?」
 よしよし、いいぞ。座るが良い。心の中で悪い笑みを浮かべていたのだが、当の本人はお腹の調子が悪いとトイレに篭ってしまった。まじか。私が逃げたい。つい振り返ってしまい、ソファ席に座る主人公と目が合った。あー、やらかした。
「あれ? お姉さん確か……」
「あー! なんでこないなとこおるんや!」
 次いでこちらに気付いた平次くんがガタリと勢いよく立ち上がり、私を指差す。
「悠宇さん、お知り合いですか?」
「えっ? 梓ねーちゃんこの人と知り合いなの?」
「ええ、友達なんだけど……コナン君も知り合い?」
「う、うん。前平次兄ちゃんと出かけた時に……」
「不思議なこともあるのねえ……」
 頬に手をやって感心する梓ちゃんを見て、平次くんがこちらを睨んだまま椅子に座る。
「お姉さん、関西の人じゃなかった? どうしてこんな所にいるの? 梓姉ちゃんとはどういう知り合い?」
「ああ、うん……」
 矢継ぎ早に質問するコナンくんから全力で逃げたいが、それこそ不審者でしかない。普通の対応、普通の対応……普通ってなんやっけ。
「大阪からの常連さんで、そこから友達になったのよ。こっちに用があるとだいたい寄ってくれるの」
「そ、そうなんだ……」
 梓ちゃんの返事を聞いてぽかんとし、考え込む仕草をするコナンくんは、きっと今までのポアロの記憶を辿ってるんやろな。残念、どんなに頑張ってもここで会ったことはないから諦めような。平次くんがコナンくんに何か耳打ちし、ぼそぼそと話を始めたのでケーキに向き直る。早く食べて出よう、そうしよう。とはいえやっぱり、気は進まない。せっかく天使が提供してくれたケーキを無理矢理詰め込むのも気が引けるし。推しが作ったケーキかもしれないし。
「どうかされましたか?」
 考え込んでいたせいか、零さんがこちらを覗き込んできてどきりとする。
「あ、いえ。世間は狭いなあとまだびっくりしてるんです」
「確かに、珍しいこともあるものですね。僕だけ蚊帳の外の気分でしたよ」
「あなたはあの二人と面識ないんですか?」
「コナン君はこの上、毛利先生のところの居候なので……」
「じゃあ平次くんは初対面ですか」
「そうですね」
 まじか。めっちゃ嫌な予感するんやけど。メタい話、初対面とか絶対事件起こるやん。あかん、ここまで来ても二年も前に読んだ話やから全然思い出せへん。杞憂であって欲しい。あ、今日は十三日の金曜日か。不吉や。
「この後のご予定、気が進まないんですか?」
「え?」
「先程からスマホを触りながらうわの空なので、気がかりなことがあるのかと思いまして」
「いや、そんなこともないんですけど。高校の友達と会うだけですし」
「ホォー……高校の……」
 言ってから、このことを連絡していなかったことを思い出した。普段は気を使われないようアポ無しにしているのだが、前回の斎藤さんのこともあるし、一応人妻の身分でありながら男性二人と居酒屋なんやし、ポアロに来るんやし、事前連絡の一つくらいしても良かったかもしれない。
 カランと音がして、男女ペアの客が訪れたことで零さんの意識がそちらに向く。こちらも予約客らしい。徐々に整っていく環境に眉をひそめて、大口で残りのケーキを頬張った。うっ、めっちゃ美味しい。心のゆとりがある時にちゃんと味わいたい。さらにもう一人、大柄な男性客が増えて四人がけの予約席が人と荷物で埋まった。あかん、始まる前に帰りたい。アイスコーヒーでケーキを流し込む。ごめんよ、ケーキとアイスコーヒー。こんな食べ方して。
「もうお帰りですか?」
「はい」
 レジに向かう途中で停電が起きた。あかん、間に合わんかった。
 男が苦しそうに叫んだ。梓ちゃんがブレーカーを上げると、ペアで訪れた男性客が背中から血を流して倒れ、近くには長い刺身包丁が転がっている。
「おい……何の騒ぎだよ?」とトイレに篭っていた客も顔を出して役者が揃う。きゃあああ、と悲鳴が上がった。私は息をのみ、動けない。自分の心音が煩い。世界が遠い。そうや、止血。圧迫止血しないと。どこかぼんやりしたまま近寄ろうとするが、触るな殺人事件だとコナンくんと平次くんに女性客共々止められる。
「うっ……うぐっ……」
「どうやらまだ……殺人未遂事件のようですね……」
 被害者をみる零さんの鋭い指示で、梓ちゃんが救急車と警察を呼ぶ。
「あ、の。清潔なタオルを。止血しないと」
「すぐに持ってきます」
「おい、ねーちゃん。あんた袖に返り血は……」
 典悟と呼ばれた被害者にふらりと近付いたところで、平次くんが私の腕を掴んだ。
「ついてへん、な。すまん」
「……っ!」
 言葉だけの謝罪を受けた。じわりと滲んだ涙を俯いて隠し、解放された手で患部を押さえる。命より謎か、と叫びたかった。
「代わります」
 すぐにタオルを持ってきた零さんが、あの日と重なる。涙は止まった。でも私は膝立ちのまま、動けない。白いタオルが血に染まるのを見つめるだけ。

 救急車が到着し、被害者を受け渡した。梓ちゃんに促されてまだぼんやりしたまま血濡れの手を洗う。
 大丈夫、大丈夫。何度も心の中で繰り返す。ごしごしと手を洗う。少しずつ冷静になれた。平次くんに対して声を荒らげそうになったけど、何も彼は間違ってはいない。もしも私が犯人なら、トドメを差しかねないんやから。私も、彼も、間違っていない。医療従事者と、探偵。ちょっと視点が違うだけや。落ち着け。大丈夫、これは未遂。死んでない。大丈夫。
 目暮警部と高木刑事が来ても、私はまだ戻れなかった。手は冷え切って、足が地につかない。ああそうや、二人にのみに行けないって連絡せんとあかんな。なんとか平静を装って応答しているつもりやけど、うまくやれてるかな。二言三言絞り出して答え、入口付近の壁にもたれて流れを見守る。容疑者三人の所持品チェックが始まった。

「どうぞ」
「え」
 声をかけられるまで、零さんがすぐ側に来ていることにさえ気づかなかった。
「冷えていませんか。顔色も悪い」
「あ、ありがとう、ございます……」
 現場から一番遠いカウンター席に、ティーカップが一つ置かれている。零さんに促されて座り、両手でカップを持った。口元に寄せると、いつものアッサムの香りがした。意識がゆっくりと現実に戻っていく。
 事件の進展を感じながら、今度はただただ後悔の念に襲われた。この阿呆、と何度も自分をなじった。この流れで、コナンくんの前で、コーヒーではなく紅茶を私に差し出すことがどういうことか。主人公の中に私という異物が残る恐ろしさを思うと、もうダメだった。消えて無くなってしまいたい。

 事件は収束した。動機は、勘違いによる嫉妬だった。女性は被害者と腹違いの兄弟であることを伏せて幼馴染と伝えており、彼氏であるトイレに篭っていた男がそれを元カレと思い込んで犯行に及んだ。セロハンテープで磨りガラス越しに店内を覗き、トイレットペーパーとその芯を使って返り血を防いだ、というのがトリックだった。殺すつもりは無かったと言った。それでもその悪意が私には痛かった。
 和葉ちゃんと蘭ちゃんが来て、和葉ちゃんが平次くんを引っ張って帰路につき、ホームズの和名である和田進一という偽名を名乗った単独客はいつの間にか姿を消した。そこでやっと、事件を思い出した。百人一首──紅葉ちゃんのやつか。

 事件後の事情聴取が始まる。偽名の人物がいただけにいくら知人がいると言えど身分証の掲示を求められ、旧姓の印字された職員証を差し出した。なるほどそれで止血を、と高木刑事が頷いたことで降谷という名前を晒す危機を脱する。本当に、綱渡りや。安堵すると少し眠気に襲われた。昨日眠れなかったんやったな、と思い出しつつもそれが随分昔の様に感じた。
「悠宇さん、もう大丈夫なの?」
「え?」
 同じく事情聴取の終わったコナンくんの声を受けて屈んで視線を合わせる。どうも純粋に心配してくれているらしく、どの部分を切り取ってかは知らないが、敵判定は避けられたらしい。初対面の時の平次くんのリアクションによるマイナスイメージから考えると、大きな進歩だ。けれど名前をしっかり覚えられたのは、とてもよろしくない。それにしても、コナンくんに心配される程度には顔色が悪かったらしい。くそ、豆腐メンタルめ。
「うん。ありがと、名探偵くん。今日はご苦労さん」
 にっこり笑って、主人公を労う。君は私と違って賢くて、強くて、零さんの横に立てる人やから。頑張って。そしてできれば、あの人の隣にいてあげて。
「ボ、ボクは何もしてないよ! 解決したのは平次兄ちゃんと安室さんだよ」
 コナンくんは頭の後ろで手を組み、無理のある誤魔化しをしながら零さんを見る。それに倣うと、梓ちゃんが零さんの耳元でヒソヒソと何か言っているところだった。きょとんとしてから小さく頷き、梓ちゃんに綺麗な笑みを返す。安室透のものではない、あの貼り付けた笑みではない、綺麗で強い笑顔を。梓ちゃんがつられて嬉しそうに笑う。その美しい光景に目眩がした。
「──そ、っかあ」
「悠宇さん?」
 きょとりと丸い澄んだ瞳が私を覗き込んでいる。その瞳に私が映り込む。お願い、やめて。私を見るな。
「じゃあ、これから頑張るんやで、コナンくん」
「う、うん」
 主人公に見つめられることに耐えきれず、ポンと頭を撫でるようにして私から視線を外させ、零さんと梓ちゃんが事情聴取に呼ばれる姿を尻目にポアロから逃げ出した。

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