推しに尽くしたい話 | ナノ


▼ 31

 コーヒーは美味しかった。今まで飲んだどのコーヒーよりも美味しかった。匂いも味もゆっくりしっかり味わった。零さんの言った通り、冷めてもあの苦手な酸味がないんやと衝撃を受けた。
「なんかイイ感じじゃないですか?」
 急いでパスタを食べ終えて業務に戻った梓ちゃんがカウンターの向こうから言う。
「何が?」
「安室さんと、ですよ」
 そう大真面目な顔で声をひそめ、接客中の零さんに意味ありげな視線を送る。
「嫉妬しちゃいます」
「この次は梓ちゃんとのデートやから」
「やたっ!」
 小さくガッツポーズする梓ちゃんに、ヨハネスブルグで軽率に約束してしまったな、と少し反省する。さて、そろそろお暇せんとあかん。まだ席が空いているとはいえ、少しずつ埋まってきている。退散しなければ本格的に邪魔になってしまう。
「長居しちゃったわ。ごめんな」
「いえいえ。また遊びに来てくださいね」
「うん。またね」
「お帰りですか?」
「はい、ごちそうさまでした。美味しかったです」
 零さんが席を立った私に声をかけてレジに向かう。あむぴに会計してもらえるだと。
「──円のお釣りです。是非またいらしてください」
 手を添えてお釣りを渡され、久々の接触にどきりとする。ファンサが手厚い。これはガチ勢出ますわ。
「はい、ご迷惑でなければ」
 財布をしまって社交辞令を返し、店を出た。
「──ふぅ」
 幸せな時間やったけど、同時にひどく消耗した。カツリと駅に向かって足を踏み出す。あがっていた口角が下がり、自然と無表情に変わる。ポアロには降谷零じゃなくて、安室透がいた。安室透は万人受けするタイプの素敵な人。けれど私は少しだけ憎らしい。零さんに、自分が分からなくなりそうだと言わしめた大きな要因やから。だから私だけは安室透を認めてはいけない。零さんを安室さんと呼んではいけない。
 さ、家に帰ろう。



 いつものように家事をしよう、と意気込んで降谷邸に侵入したのだがやることがなかった。洗濯カゴにシャツがない。部屋も綺麗に掃除されている。ベッドメイクまで完璧。ホテルかよ。それだけではなく、なんとキッチンに私の好きな銘柄の紅茶缶が置かれている。なんて用意周到なんや。スパダリか。こうなったらお茶請けを作って待ってやる、と意気込んだが、一応妻とはいえ手作りは未だにNGなのではと浮かんで却下する。困った。
 そわそわするので一旦落ち着こうと紅茶の缶をあけた。蒸らしている間にキッチンをちょろちょろと探索をすれば、各種飲み物やお酒、チーズなどのツマミやその材料が見つかる。なるほど今晩はのむつもりなんやな。ますますやることがなくなった。紅茶をカップに注いで今度はふらりとリビングに向かって探索をする。目星、成功。本棚の小説が並ぶ一角に、僅かに飛び出した数冊の小説を発見しました。ぴっちり整然と並んでいるだけに目立つ。取り出すと推理小説、恋愛小説、SF、ファンタジーというバラバラな四冊のラインナップだった。謎解きやリアル脱出ゲームなどは嫌いではないが、特段得意でもない。そんなこと零さんは百も承知のはずやから、これは単純におすすめ小説かなあ。どれも記憶にない作者で、なんとなくあっち側の人なんやろうなと検討がついて少し眉を顰めた。小説を戻してカップを両手で持ってふかりとソファに沈む。
 危険地帯にも関わらず目的地の真上に住むコナンくんどころか、梓ちゃんと零さんを除くあちら側の人には一切遭遇しなかった。折角ここまで平和にきてるんや、と思うと必要以上に外を出歩く気にもならへんし。この時間ほんまどうしよ。零さんからの返事はないが、いつの間にか既読はついていた。何時にあがりなんやろ。……ちょっと、疲れたな。そういや昨日までも残業続きやったっけ。今朝もそこそこ早起きやったし。

 いつの間にか寝入ってしまっていたらしく、意識が浮上すると既に外は真っ暗になっていた。あかん、寝すぎた。
「いたっ」
 慌てて飛び起きるとテーブルに軽く足をぶつけ、ティーカップに半分残った紅茶が揺らぐ。そんなに強くぶつけたわけでもないのに、痛いと言ってしまうのはなんなんやろ。ちゃうわ、時間時間!
「まじか八時!?」
 寝すぎやろ。慌ててスマホをチェックすると、数件のメッセージが届いている。
『悪いが予定より遅くなりそうだ』17:18
『悠宇?』18:32
『不在着信』19:45
『もうすぐ帰る』19:46
 もっかい言う、寝すぎやろ。すみません寝てました、と送信してティーカップを片付け、寝起きで気持ち悪いので歯磨きをする。ついでに身だしなみチェックをしていると、玄関の開く音がしたのでダッシュだ。
「おかえりなさいっ!」
 お淑やかさの欠片もなく駆け寄り、上がり框ギリギリの所でぴたと止まる。
「ぷっ、ただいま。そんなに急がなくても良かったんだぞ」
 良かった、怒ってない。ほう、と息をついて安堵した私の頭をぐしゃりと撫でて口角をあげて笑う。うん、零さんや。
「ん、零さんおかえり」
 ぎゅっと一瞬抱きついて直ぐに離れる。一度目のおかえりはこの家に帰ってきたことに。二度目のおかえりは、安室透から降谷零に返ったことに。挨拶に自己満足して、しまらない顔のまま一緒に中へと移動する。

「遅くなって悪いな、お腹空いただろ」
「私は寝ちゃってたから……」
 荷物を置いた零さんがオープンラックの高い位置にある籠からシンプルな紺色のエプロンを出して身につけ、手を洗う。昼間と似ているけど、違う光景だ。でも捲った袖はえろいし、腰の謎の細さはやっぱり強調される。
「私の分のエプロンある? のむメニューやんな、何作る予定? 何したらいい?」
「……今日は僕が作ってやるつもりだったんだがな」
「それは非効率的」
 矢継ぎ早の質問に苦笑いされたので、不服を顔中で示す。役割分担は大事です。
「だな。エプロンはその中だ。食べたいものはあるか?」
「そうやなあ、居酒屋っぽいもの。カプレーゼとかだし巻きとか」
「方向性バラバラじゃないか。ったく、分かった、玉ねぎから頼む」
「はーい」
 同じ籠を引っ張り出すと、淡いイエローのエプロンを見つけた。下にあったとは、全く気付いてなかったや。つけながら零さんと色違いなことに気付いて、ついにやけてしまった顔を引き締めてから振り返って調理を開始する。
 てきぱきと私に指示を飛ばしながら二人で和洋折衷なんでもありのつまみを生産していく。基本的に私は洗ったり盛り付けたり電子レンジをセットしたりとお手伝いに徹し、味付けや加熱具合は零さんが担当した。曲がりなりにも喫茶店店員(料理スキルカンスト)を差し置いて私がやるはずがない。リクエストしたカプレーゼとだし巻き卵、カルパッチョ、唐揚げやシーザーサラダなどがずらりと並び、自宅居酒屋が完成する。グラタンは今焼いてるし、〆用のご飯も炊いている。あかん全部美味しそう。
「何のむ?」
 食器棚を開けて零さんが首を私のいるダイニングに向けた。
「ピーチリキュールあったやんな、ジンジャエールで割ろうかな」
 分かった、と返事してロックグラスとタンブラーを出し、私がお箸やお皿を並べている間にカクテルを作ってしまった。零さんは相も変わらずスコッチだ。

「いただきます」
「いただきます」
 向かい合って手を合わせ、遅めの夕食が始まった。
「美味しい!」
 あかん、絶対勝てへんやん。これ完全にお店やん。妻カッコ仮より料理の上手い夫カッコ仮、完成。つらたん。泣いた。
「悠宇は本当に顔に出るな」
「だってめっちゃ美味しいんやもん。なんでこんな美味しいん。私一緒に作ってたやんな、意味が分からへん……」
「喜んだり落ち込んだり忙しいな」
「おいしい……もう私普通の居酒屋行けない……」
「はは、オーバーだな」
「順当な感想やのに……」
 零さんはもっと自分の魅力を自覚した方がいいと思う。

 妙に美味な居酒屋メニューをつつきながら零さんが作るカクテルをのむなどという、前世積んだ徳を使い果たすのでは言いたくなる幸せな時間が過ぎる。敬語を使わないことにも慣れてきたし、随分と砕けて話せるようになったなあ、とふわふわしてきた頭で考えた。
 酔う前に梓ちゃんが以前言ったお気に入りの店の看板娘であることを説明できたし、大丈夫かな。風見さんに押し付けた料理の話を聞いて羨ましがったり、日々のトレーニング内容に愕然としたり、同期と長野旅行に行った話をした。職場で独身だと思われていた話もしたが、海外の多忙な人と別居婚と思われていると言っておいた。ゴリラ発言は現在この人の耳に入ってはいないらしい。うんうんトリプルフェイスたんそれどころじゃないもんねー! 耐えた!!
 至れり尽くせりなので、つい酔いすぎないよう自分を律した。片付けくらいやりたいのに、このままだと酔いを口実に零さんが全てをやってしまう。それはいけない。でもカクテルおいしい……フランボワーズジンジャー癖になるね……、あかんってば。
「ごちそうさま! 美味しかった!」
「うん、お粗末さま」
 二人で食器を流しに運び、今度は紅茶を淹れてソファに並んだ。零さんに触れる右半身がじわりと熱をもつ。そっと肩を引き寄せられて零さんにこてんと凭れかかった。束の間の静かな時間で、力を抜いて紅茶を楽しむ。
「零さん零さん」
「なんだ?」
「んー」
「悠宇ー?」
 肩を抱いていた手が上がって緩やかに髪を梳く。少し擽ったくなったので危険や、と一口飲んでから手にしていたティーカップを零さんのものの隣に戻した。
「零さん、ありがと」
「何のことだ?」
「ホットコーヒーのこと」
「ああ、君も覚えているとは思わなかったがな」
 意地悪く笑うので、頭をぐりぐりと肩に押し付けてひどい、と拗ねてみた。
「悪い悪い」
「思ってへんやろ。零さんほんまひどいわ」
 どんなに小さくても推しとの約束忘れるわけないやん。
「一方的な約束のつもりだったんだ」
「相互的やったね……おかげで、ホットコーヒーも好きになっちゃったやん。好きな物増えた、即ち人生における幸せが増えた。嬉しい」
「良かったじゃないか」
 零さんが私の頭を優しく撫で、髪にちゅっちゅとキスする。慈しむ手つきにはどう足掻いても慣れないし、胸の高鳴りは抑えられない。
「……うん、ありがと」
「またおいで」
 零さんの左手が、今度は私の耳を弄び始めた。時々ピクリと反応しそうになるのをなんとか抑えながらゆっくりと会話を続ける。
「ん、行ってもええの?」
「今までも梓さんに会いに通ってたんだろう」
「……そや、けど」
 だからって、それはそれ、これはこれやん。話が違う。
「元々の交友関係まで規制はしないよ」
「……」
「でもどうせなら、次も僕のいる時に来てくれるか」
 ツウ、と零さんの指が首筋を撫でてワンピースの襟ぐりをなぞる。
「あんまり可愛い格好をするのは、感心しないがな」
 うわ、バレてる。張り切ってお洒落するんやなかった。恥ずかしくなって顔を伏せた。
「ああ、違うぞ。僕が勝手に困るんだ。他人として接しないといけないだろう? だからもどかしくてな。けど、悠宇も僕に会うのを楽しみにしてくれてたんだよな、嬉しいよ。昼は言えなかったけど……似合ってる」
 囁くように言いながら、その手が私の顔を捉えてくいと上を向かせた。私の赤らんだ顔へ整った顔が間近に迫り、そして距離がなくなる。
 恥ずかしさで首を竦める私の唇を食み、甘噛みする。鼻を、頬を、瞼を唇が這う。しばらくキスが続き、薄く眼を開けてみると零さんと視線があった。
「悠宇、好きだよ」
 またきゅっと心臓が鳴いた。苦しい。再開する口付けの合間で、なんとか愛しい人を呼ぶ。
「嬉し……ん、……零、さん……でも、その、…….」
 こんな素敵で多忙な人なのに、私ばかり心を砕いてもらってるからなんとか返したい。ちゃんと面と向かって、睦言でもなく、言い逃げじゃなく、愛を言葉にしておきたい。ちゃんと言っていない。意を決して零さんの首に腕を絡め、私から優しくキスをし、そのままぎゅっと抱きつく。
「愛してる」
 耳元でそっと呟く。ピクリと零さんが反応した。
「零さんは日本が恋人って生活やから、私に二人分零さんを愛させて?」
 私のような柵に囚われずに、前を見て生きて欲しい。ずっと思っていたことを吐露すると、ソファに勢いよくどさりと押し倒された。
「君って人は……」
 零さんはワンピースの襟ぐりをくいと軽く引き、胸にキスをした。ソファに肘をついて、至近距離で淡いブルーの瞳が強い想いを宿して私を見つめる。
「──僕だけを見てろよ」
「言われんでも、零さんしか見えてへん」

prev / next

[ back to top ]



×
「#オリジナル」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -