推しに尽くしたい話 | ナノ


▼ 30

 人生で二番目に胃の痛い旅行からなんとか生還すると、その日の内に人生で一番心臓に悪い旅行で会った人物から耳を疑う連絡がきた。神は無慈悲だった。お願いなので動揺を鎮める時間をください。疲れきって回らない頭がついに幻聴を生み出したか。
「ええと、大変申し訳ないのですがもう一度お伺いしてもよろしいでしょうか」
「安室透のバイト先に来ないか、と言ったんだ」
 律儀に零さんが先程の言葉をそのまま繰り返し、どうやら私の耳は正常だったらしいと悟る。
「んと、疲れてる?」
「まだ三徹目だ。実は君の知ってる店なんだ」
「待って全然大丈夫ちゃうやん」
 現状を漏らすあたり相当頭バグってるな? でなければこんなとち狂ったことを言い出すはずがない。
「前に行ったんじゃないか? 米花町のポアロという喫茶店だ」
 やばいどの時や、心当たりしかない。ペンギンちゃんの余波が思わぬ方向に飛んできている。そういう使い方するもんじゃないです。非常事態にだけ使うもんです。
「さっき次の土曜は予定がないと言っていただろ。たまには、顔くらい見させろ」
「承知しましたっ!」
 推しにそんなこと言われて断れるわけが無い。何より、私が降谷零の存在を観測したいのだ。昨日の今日で欲望に忠実な自分が出たのは、疲れて判断力がどうかしていたのだと思う。お互い頭バグってたんやね。それとも夢オチか。思い出して布団でじたばたした翌日、時間を指定するメールが届いた。まじか正気か、と項垂れた。嬉しいけど嬉しくない。
 看板娘に確認してみれば、幸いにして梓ちゃんとのシフトだった。耐えた、カモフラージュは完璧だ。友達の勤務先を訪れた通りすがりの社会人。しかも生あむあずが合法的に拝める。強い。物事はポジティブに捉えなければ。



 斯くして魔の土曜日が訪れた。こういう時に限って、日が飛んだりすることはない。履きなれたジーンズではなく、シンプルなワンピースを着て、いつもよりきちんとメイクをした。いつも通りネックレスと腕時計も身につけている。多少の着替えや部屋着は向こうにもあるので、普段のお出かけと何ら変わらぬ小ぶりなショルダーだけを手にして久しぶりの米花駅に降り立った。腕時計をチェックして、予定通りここまで来たことを確認する。いつもは早く着きすぎるくらいなのだが、準備に手間取ったのが逆に良かったらしい。ランチのピークが過ぎた頃合でポアロに入れるだろう。

 ポアロに入る前に二階にある毛利探偵事務所に一瞬視線をやるが、何も見えなかった。
「こんにちはー」
「いらっしゃいませ」
 声をかけながら入店すると、にこりと見たことのない笑みを浮かべる、零さん。
「悠宇さんっ!」
「おっと」
 ──を、軽く押しのけるパワフル梓ちゃん。分かっていたはずなのに想像以上の破壊力を兼ね備えていた安室透の笑顔が崩れ、一瞬どきりとした心臓が平静に戻る。零さんの持つトレイに乗った二つのハムサンドとコーヒーが無事で良かったです。そして今日も本当にお綺麗です。尊いしか出てこない。家出した語彙力さんそろそろ帰ってきてくれてええんやで。
「あっごめんなさい」
「いえいえ、大丈夫ですよ。お知り合いですか?」
「はいっ、悠宇さんカウンターどうぞ」
「ありがと梓ちゃん」
 店内は存外客足が引いておらず、記憶よりも若いキラキラした客層からあむぴパワーかと納得する。そんな中でカウンターの端、つまり私の定位置が空いていたのは梓ちゃんがうまくやってくれていたからなのだろう。零さんはキラキラ女子のところへハムサンドを持っていき、笑顔で配膳している。
「お久しぶりですね。元気そうで良かったです」
「元気元気。梓ちゃんが今日も可愛いからな」
「相変わらずですねえ。それで、あれが例の人です」
 神妙な顔で席に着く私に一言耳打ちした。
「せやろな」
「予言通りの忙しさです。いつものですか?」
「あー、うん。お願い」
 あむさんど、もいいけど。やっぱりここでしか食べれない梓ちゃんの手料理を食べる場だ。いつも通りのカラスミパスタとアイスコーヒー、それから食後の気分次第でデザート。
「かしこまりました。腕によりをかけて、お作りしますね!」
「楽しみに待ってる」
 まだ忙しい店内では会話もそこそこに梓ちゃんは仕事へと舞い戻った。視線を梓ちゃんから零さんに移すと、にこにこと女子高生の食器を下げている。忙しい中無闇に話しかけられても笑顔で優しく対応し、手は動かす。捲られた袖から覗く筋肉質な腕も、エプロンが巻かれた筋肉の割に何故か細い腰も、笑顔も、全てが魅力的に映ってつい見つめてしまう。
「ご注文お決まりになりましたか?」
 するりと女子高生の席から逃れ、トレイの上をお冷とおしぼりに変えた零さんが営業スマイルで私に話しかける。目が合ったわけでもないのに、視線に気づかれてしまったらしい。
「おすすめはハムサンドと──」
「あ、もう頼んじゃいました」
「……そうですか。それは大変失礼しました」
 すまなさそうな顔を作った零さんが、あむぴ、と次なる女子高生に声をかけられた。お冷とおしぼりを置いて、はい、と明るく返事して直ぐに声の元へ向かう。イケメン人気ぱねえ。そこからは二人に放置されようが、これお願いします、あっち行きます、それはこっちですよ、と抜群のコンビネーションで働く推しと最推しを眺められて、退屈するはずもなかった。私は今、背景の一部だ。なるほどここが天国か。
 梓ちゃんが笑顔で置いていったカラスミパスタを食べ終えた頃にやっと客足が引いた。アイスコーヒーを半分ほど飲んだところで最後の団体である背後の女子高生六人組が去って店内が静けさを取り戻し、ふう、と梓ちゃんが小さく息をつく。
「お疲れ様です」
「安室さんこそ」
 視線を交わして笑う、たったそれだけの掛け合いが歴戦の勇士並のパワーで私をぶん殴る。尊い。わたしここにすむ。かべになる。
「わざわざお越しくださったのに、慌ただしくてすみません」
 天に旅立ちそうな私を梓ちゃんが現世に引き戻してくれた。もちろん顔には出さない。出てないはず。
「いやいや繁盛してるってことやん。パスタ、相変わらず美味しかったし私は満足やで」
「あ、ありがとうございます」
「梓さんのご友人ですか?」
 零さんが女子高生の去ったテーブルを片付けながらにこにこと零さんが会話に参入してきた。
「そうなんです。なんと大阪からの常連様ですよ! 安室さんも覚えてくださいね」
「大阪ですか……それはまた随分と遠方ですね」
「常連とかそんなことないので、お構いなく」
 呼ばれるに相応しいポアロへの課金ができていませんから、どうぞおやめください。
「そんなことありますよ。進藤悠宇さんです。で、こっちが前話した安室さん」
「梓さんになんと言われていたのか気になるところですが……安室透と言います。探偵をやっていますので、何かお困りでしたらぜひお声かけください」
「あはは、ありがとうございます」
 これが半年ぶりに会う夫婦の会話か、と思うとどこか笑えてきてしまう。
「どうしても困ったら安室さんに依頼しますね」
「約束ですよ」
 お互い敬語で、少しくすぐったい。はあい、と抜けた返事だが零さんは満足気に頷いた。
「梓さん、休憩入ってください」
「いいんですか? 実は私もうお腹ぺこぺこで」
「はい。僕はあと数時間ですし、今のうちにどうぞ」
「そういえばそうでした。悠宇さん、隣で食べてもいいですか?」
「え、めっちゃ嬉しい」
 何作ろっかなー、と梓ちゃんが冷蔵庫を覗いている隙に零さんがポケットからスマホを取り出した。バイト中に、悪いやつめ。私以外の唯一の客であるおじさんに背を向けて操作している。直後にカウンターに置いた私のスマホが震えた。……私かよ。
 零さんは何食わぬ顔をして無言で片付けを再開する。読めと言いたいのか。今までと打って変わって静かに働く零さんの圧にあっさり負けてスマホを手に取った。案の定、安室透からのメッセージだ。
『梓さんと親しいなんて聞いてないぞ。夕方であがりだから家で待ってろ』
 死刑宣告やん。瞬速で承知スタンプを送った。無言あむぴにガクブルしていると、癒しの看板娘がまかないパスタを手に隣に座った。笑顔が眩しいです。癒されるわー。
「いただきます!」
 エプロンを外して手を合わせ、梓ちゃんがフォークを握った。アイスコーヒーを飲みながら推しのもぐもぐタイムを観察するとか彼氏かな?
「悠宇さん、今日いつもと雰囲気違いますね」
「そうかな」
「可愛いです。出張じゃないんですか?」
「出張? お仕事だったんですか」
 カウンターの向こうで、きゅっきゅと食器を拭きながら零さんが会話に参入する。
「出張の度に寄ってくださってたんですよねー」
「平服だったのでてっきり旅行だと思っていましたよ」
「旅行ですよ」
「え」
「ごめんやん、否定せんかったらいつまで出張やと思ってるかなーと思ってたら完全にタイミング逃しちゃってたわ」
「騙されました!!」
「ごめんって。今度またタピオカ奢るから」
「許します」
 ショックの顔から真顔で即答する梓ちゃん。
「梓ちゃんチョロいって言われへん? 大丈夫?」
「それではパフェの追加を要求します」
「おっけー、スイーツ会やな」
「はい!」
「あはは、楽しそうですね。僕も混ぜてくださいよ」
「ダメです。これはデートなんです」
「だそうです」
 ぶっぶー、と両腕でバッテンを作って拒否する。テンション高いな。
「それは残念ですね」
 ダメージを受けた風もなく肩を竦める。
「ほら、梓さん。冷めちゃいますよ」
「あ、カフェタイムも近いやん」
 やだ、と慌ててパスタを食べ始める天使を二人で雑談をしながら見守る。アイスコーヒーを飲み干していつものメッセージアプリや電話と変わらない会話に興じる。お互い敬語なことだけが相違点だ。もうすぐあるお祭りの話、旅行先の温泉の話、ケーキ作りのポイント、テニスの話や私の仕事、食べたいスイーツ。途中零さんは会計や新客の対応に度々離れるが、こちらに戻ってくる。
「これ、サービスです」
 訪れた常連に梓ちゃんに気を取られた刹那、安室透の貼り付けたもの、ではない笑顔を浮かべて私の前にホットコーヒーを置いた。ふわりと漂う芳ばしい香りが私の鼻をくすぐる。
「ゆっくりしていってくださいね」
「……は、い」
 そっかあ。一年以上前のあんなちっちゃい約束を守るために私を呼んだんか。きゅう、と胸が私にだけ聞こえる悲鳴をあげた。

 ──今度淹れてやる
 ──機会があればぜひ

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