推しに尽くしたい話 | ナノ


▼ #4

「彩仁さん、無事だったのか」
 寝起きの掠れ声が出た。
「俺はどうにか。あなたは俺の家に滞在していますね?」
「はい」
 頷きながら身体を起こし、壁に背を預ける。ほ、安堵の呼吸が耳に届いた。
「古巣に接触はしていませんか」
「そういう指示でしたから。まだ恩人の顔を立てて保留段階ですよ」
「それはとても助かります。あと数日、出ないでもらえますか」
「退院までその程度ですか。分かりました」
「ええ、まあ、そんなところですね」
 そう言葉を濁した。数日間で済むのであれば、そこまで大きな怪我ではないのか。あるいは、早々に退院して何かする時間をとるのかもしれない。何はともあれ、恩人が無事なのは素直に喜ばしい。
「無事で良かった」
「存外、生き汚かったようです」
「そんな言い方をしなくても……妹さんが哀しみますよ。無事で喜んでいたんでしょう?」
「そうですね。あんなに可愛い紗知を泣かすわけにはいかないですし」
 さも当然のごとく吐き出された妹愛に頬が引き攣った。ええと、と無理矢理軌道修正する。
「仕事は大丈夫なんですか? 警察官なんですね」
「どうして……ああ、部屋見れば分かりますかね」
「オレもそうなので、分かりますよ」
「へえ、そうだったんですか。助けた俺達の目に狂いはなかったようですね」
 さも意外そうに言う。
「──あの」
「なんですか?」
「紅子から、連絡はありましたか」
 探るように静かに彩仁さんが尋ね、少し迷って、正直に答えることにした。
「ええと……あかこさん? 誰ですか?」
 何の引っ掛けなのか、勘違いなのか、それともその人が家に来る予定でもあったのか、どんな理由であれ知らないことはどうしようもない。鎌をかけるリスクを追う場面でもないだろう。
 そうですか、と温度のない音を発した。望む答えではなかったようだ。完全にオレの管轄外なのに、息が詰まった。ほんの十秒程度の沈黙が痛い。
「今のは忘れてください」
 はっきりした声で言う。あかこという人は重要人物なのだろう。しっかりと記憶に留め、口では分かりましたと返事しておいた。
「……非常事態に、いやに素直、ですね」
「非常事態だからですよ。どうしてそこまでしてオレを助けるんですか?」
「乗り掛かった船ですし」
「程度って物があるでしょう。我ながら、職業で補正をかけたとしても、かなり危険な橋だってことは察してますよね」
「込み入った話は退院してからにしましょう」
 はっとして、息を呑んだ。既にこの閉鎖空間に疲れていたのかもしれない。
「多分……長い長い、付き合いになりそうですから」
 長いを強調して、彩仁さんが言った。
「では、また連絡します」
 ぶつりと通話が途切れた。

 その日一日かけて部屋を調べ直したが、やはり女性の影は紗知ちゃん含め、見当たらなかった。随分親しげな兄妹に映ったので、写真なり物なり何かあるかと思ったが、手詰まりで何度目かの溜息を吐いた。サブだと言っていたスマホの連絡先の中は随分とすっきりとしていたが、紗知、朝倉、などと簡素な登録のされ方で、性別は分からない。こ、とつくからには女性のはずだが、メールはからっぽ、通話履歴も妹と朝倉のみ。チャットアプリはパス付きだ。なんの為のサブ機なのかさっぱりだ。実質妹専用ということだろうか。あのシスコンがそんな妹情報の塊を他人に渡すかな、と首を傾げる。
 同時にスマホに何か引っ掛かりを覚えた。昨日は気付かなかった何かがそこにある気がして、舐めるように画面を見たが、正体を掴むことはできていない。
 どうにかして公安に戻る手立てをもう一度じっくり考えたが、結局ゼロの立場を考えると思い留まらざるを得なかった。あまりにハイリスクだ。裏切り者がどこにいるか分からない今、どんなに怪しくとも、これだけ体を張ってオレを守った彩仁さんの動きは一番信用に値する。警視庁の警察官なら、その伝手で今後の復職も見込める。
「焦るな」
 自分に言い聞かせ、深呼吸をする。込み入った話、長い付き合い、などと言った彩仁さんの言葉を反芻し、たくさんのシミュレーションをしてみたが、どれもピンとこなかった。公安警察だとか、実は既知であるとか、黒ずくめの組織の対立組織に所属しているだとか、どこかの国の工作員であるとか。
 はあ、と溜息をつく。こういうのは、ゼロの得意分野だ。今まで頼ってきたツケだな。集中力が切れた今や、部屋がどうも暑く感じる。

 煮詰まって見慣れないプログラミング言語の本を読んでいた数日後の昼過ぎ、玄関が音を立てた。咄嗟に部屋の電気を消してリビングのドアの影に隠れ、息を殺した。解錠の音に続いてドアが開き、人が入ってくる。身を屈め、そのシルエットに視線を落とした。
「……スコッチ?」
 ドアを閉める音と共に彩仁さんの声がして、脱力した。消したばかりの電気を彩仁さんが点ける。オレは立ち上がって一歩踏み出した。
「彩仁さん……事前連絡をしてくれませんか」
「本当に居てくれるかの抜き打ちテストですよ」
 悪びれもせず言った彩仁さんの顔色は健康そのもので、退院直後とは思えない。
「お元気そうで何よりです」
「お陰様で。入りますよ」
「どうぞ。彩仁さんの家ですし」
 返事するよりも先に、彩仁さんは靴を脱いで自宅に入った。

「座ってください。別に襲撃したりしませんよ」
 単にどうも居心地悪く立っていただけなのだが、彩仁さんは警戒していると思ったらしい。
「ああいや、そういうわけじゃ……」
 頬をかいて、促されるままにソファに腰を下ろした。
「家捜しは順調ですか?」
「あ、いや……」
 ストレートな物言いにたじろいでしまった。
「調べてない方がおかしいですよ」
「すみません」
「欲しい情報は何も無かったでしょう」
「……おっしゃる通りです」
「何から聞きたいですか?」
「あの後、何が起こったのかを具体的に教えてください」
「誰にどこまで聞きました?」
「誰って……もちろん紗知ちゃんからですよ」
 推理ではなくそんなことを尋ねられて苦笑いしたが、手を組んだ彩仁さんの顔つきは至って真剣だった。直後に、もしかすると紅子という人は説明役としてオレの前に現れる予定だったのかもしれないと思い至った。
「オレが死んだことになってること、くらいは」
 その過程は信じ難いものであったが。
「頭から、ゆっくり、あなたが何をしてたか振り返ってください」
 ごくりと生唾を飲み込む。
「あの日は……」
 ずきりと頭が痛んだ。悪い予感がして、その前に、と話を方向転換させた。
「彩仁さん、あなたの所属は?」
「警視庁刑事部捜査二課です」
「刑事部、か」
「公安ではありませんよ」
「……公安だったら、顔に覚えくらいありそうだからな。オレの一つ下だろう」
「あなたがそう言うのならそうなんでしょう。いや、先輩になるのか。敬語を崩してください」
「そういう意味では……」
「その場合俺は恩人兼責任者として敬語をやめます」
「自由か。何の責任ですか」
「当然、運命を変えた責任ですよ」
 深呼吸して、腹を括る。
「潜入捜査官のオレは、本来死ぬ運命だった、と聞いた」
「そうだな」
 言葉を崩したことで距離が縮まったように感じる。
「千里眼か何かの持ち主か?」
 ふ、と彩仁さんが笑ったが、顔は険しいままだ。
「いや。この世界の運命を──あんたを助けた今となっては、その正解のルートはもう閉ざされた」
「正解?」
「ああ。ハッピーエンドが崩れてもおかしくないってことだ。いや、黒ずくめの組織にとってはアンハッピーかな」
「……どこまで知ってる?」
「俺は大して知らねえよ。酒の名前をコードネームにした悪の組織、だろ?」
「妹さんは? 紗知ちゃん、だよな。あの子が情報源だよな」
「正確には情報源だった、だよ」
「まさか──」
「死んだとか言ったらぶっ殺すぞ」
 殺意の篭った瞳に思わず身を引いた。
「わ、悪い」
「紗知は一般人だ。何も知らない。余計なことを言ったら、その時はお前を殺す」
「り、了解」
 頷くと、鋭い眼光はなりを潜めてた。シスコン要注意、と脳内に赤ペンで記録した。本当に殺る気だ。
「組織の全員に名前が与えられている訳じゃない。スコッチ、ライ、バーボン。お前らはその組織の幹部に相当する。違うか?」
「そうだ」
「潜入捜査官だとバレたお前が逃げていた時に、俺に会った」
「そうだ。そして、彩仁さんは俺の死亡を装う際に負傷して入院、だったよな」
「ああ。成功はしているはずだ。でなければとうの昔にバーボンがこっちに接触してきてる。いや、公安警察かな」
「──そこまで知っているのか」
「かなり断片的な情報だ」
「情報源、は」
 彩仁さんが首を振る。
「順番だ。まずはあの日の顛末だろ」
「そうだな」
 事実、ゼロの立場は、何よりも気になるところだ。
「──死を偽装したことを疑ってはないんだな」
「ライに情報を売ってどうする。FBIだと教えてくれたのはそっちじゃないか。立場は違っても同じ潜入捜査官だ」
「立場が違うからこそ、組織に売れる情報だろ。スコッチとバーボンの情報を売ればいい」
 ぐ、と唸る。
「少しもそう思ってないということは……あのスマホで盗聴していたな?」
「……恐ろしいな、君は」
「たかだか知れてる」
 謙遜でしかないが、彩仁さんは真面目にそう思っているらしい。
「じゃあ改めて、行動を振り返ってもらおうか」
「知っての通りだ。潜入捜査官だとバレて、ライに追われているところを彩仁さんに助けて貰った。それで逃げて……」
「もっと具体的に、あなたの行動を」
 話の腰が折られる。
「俺に出会って……」
「場所を移動して、服とスマホを交換した。その後彩仁さんは顔もどうにかして変えたんだろう。その上で、妹さんと話をした」
 手を組んで、続けて、と彩仁さんが静かに言う。どくどくと心臓が嫌な音を立てる。
「オレが聞けたのは、そのあたりからだ。電話越しだったから断片的だ。スコッチは拳銃自殺をする、という本来の流れ……彩仁さんの言うところの運命を聞いた。ライとバーボンがちゃちな変装に気付くとは思わないし、背格好が似ていても近付かれたら終わりだからな。なのに、彩仁さんは本当に成り済ましに成功したことが聞こえた。あのライから拳銃を奪い、発砲音と共に通信が途絶えたから……撃ち抜いたんだろう。そこからは指示通りに彩仁さんの家で待機。紗知ちゃんから彩仁さんの入院のことと、外出禁止と、生活物資の発送を聞いて、そこからはずっとここに滞在させてもらってる。誓って、一歩も出ていない」
 記憶を辿り、説明する。なるほどな、と彩仁さんが頷いた。

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