推しに尽くしたい話 | ナノ


▼ 73

 引き返すことなく、夜道をまっすぐ歩く。時々観光客とすれ違いつつ、それも次第に間隔が広くなって。ポケットの中でスマホが何度か震えた。
 いよいよ人の気配がなくなって、やっとスマホに手を伸ばした。電話に出るか逡巡する。雨の名残なのか風が強く木々はざわめき、葉先から落ちる雫が時々私を叩く。ううん、やめておこう。最期のメッセージはもう残してきたし。
 ──Live,Love,Laugh,and be Happy.
 結婚式の写真の裏、傍から見れば、そう珍しくもないメッセージだ。生きて、愛して、笑って、幸せになろう。──生きていてください。何かを愛する心を忘れないでください。笑っていてください。そして、幸せでいてください。
「私は幸せやったよ、零さん」
 てっぺんまで登って、夜空を見上げた。先程までの雨は嘘のように、無数の星が煌めいている。零さんは写真に気付いてくれたんかな……まあ、当然か。だって零さんなんやし。
「ありがとう」
 薄情な私は、零さんのことばかり思い出す。私にとってのヒーローだった。神様だった。唯一の存在だった。強くて、優しくて、努力家で、かっこつけで、淋しい人だった。みんなを守るあの人の笑顔を守りたかった。
 セレストブルーの瞳も、癖のあるミルクティーブロンドも、抱き締めてくれる強い腕も、守るために走る脚も、ストイックに鍛え抜かれた身体も、撫でてくれる手のひらも、愛情の乗った指先も、嘘のない本当の笑い声も、全部全部が愛しくて恋しくて仕方がない。
 柵を乗り越えて、そこに未練がましく体重を預ける。朝まで待つのは危険だ。人のいない今のうちに、そう思うのに今更になって足が竦んだ。本当に足を滑らせそうやな、と荒れた海原を見下ろしてぞくりと背筋が凍る。柵に張り付いた身体を無理矢理剥がすが、手はしっかりと握ったままだし、足は根を張ったように動かない。
 深呼吸する。大丈夫、零さんと、零さんの親友が守れるなら怖くない。怖くなんか、ない。腕時計にキスをする。
 不意に、あいた右腕が掴まれた。
「何を、しているっ!」
 低い叫びと共に腕が強く引かれて、柵越しに後ろから抱き締められた。ふわりと香る汗の混じった大好きな匂いに身体が強ばる。いっぱいいっぱいで周りを気にしてる余裕なんかなかった。
「れ、さん」
 なんで、私は、また間違えたん。
「──だめ」
 声が掠れる。
「生きろと言ったのは君だ! その君が何故死を選ぶ! ふざけるな、死ぬなんて──僕の前から消えるなんて絶対に許さない!」
 身体が離れて零さんの大きな手が少し乱暴に肩を掴んで私を振り返らせると、月明かりに照らされた最愛の顔が眼前にあった。気付くとぽろぽろ泣いていた。
「あ、ごめんなさ」
 零さん左頬が腫れている。なのに私が殴られたような気持ちになっている。いや、殴られたんか。この人の言葉に。
「どれだけ心配したと思ってる! どれだけ不安になったと思ってる! 僕は、僕はそんなに頼りにならないのか!?」
 この人がこんなに声を荒らげるところを初めてみた。涙で滲んだ視界のまま呆然と見上げる。
「ち、……っく、ちが」
 嗚咽混じりに否定する。だって、零さんには景光さんがいる。ぽっと出の訳の分からない女じゃなくて、一番の旧友が。思考は音にはならず、小さく首を振ることしかできない。
「全部、終わったんだ。もう大丈夫だから。お願い──いい加減君を、愛させてくれ」
 身体の力が抜けた。これ幸いとばかりに鮮やかな手つきで身体が持ち上げられ、柵を超えた安全圏でまたぎゅうぎゅうと抱き締められる。
「零、さん……」
 散々頭を痛めた苦悩も、故人への罪悪感も、三井くんの誘導も、コナンくんの説得も。この人の言葉の前では全て無意味に、ゼロに変わってしまう。完膚なきまでに木っ端微塵に打ち砕かれた。
「守るって約束する。誰からも、何からも、傷つけさせない」
 だから、信じて。耳元で囁く零さんの表情は見えない。少し湿った声は、もしかしたら、泣いているのかもしれない。恐る恐る手を広い背中に回す。ぴくりと零さんの身体が小さく反応して、離すまいとする腕の力が強くなった。ちょっと痛いけどちょっと嬉しい、と思った私は変なのかもしれへんな。
「──うん」
 やっぱり私はヒーローにはなれなかったらしい。濡れた頬を優しい両手が包み込み、少しカサついた唇が重ねられた。エンディングには程遠い場所で、片や涙でぐちゃぐちゃの顔で、片や草臥れたスーツと腫れた頬で、全くもってしまらない。何も解決してない。それでもいいと思えた。
 二人で一緒に生きていきたい。指先に力が篭って、頭を零さんの胸元に押し付けて酷い顔を隠す。
「ふ、うぅ……ぐ、……」
 必死に止めようとした雫はどんどん勢いを増し、遂にはしがみついてわんわんと声をあげて泣いた。落ち着くまで、零さんは何も言わずにずっと抱き締めてくれていた。

 泣き止んだのを見取り、ぴとりとくっついていた身体が少しだけ離れる。
「悠宇」
 やっと口を開いた零さんが私の名前を呼んでくれる。大きな手が首裏に回って、促されるままに頭一つ分高い彼をぐっと見上げた。月光で浮き彫りになった美しく微笑む顔に胸がどきりと高鳴る。
「迎えに来たよ。幸せに、なろう」
 せっかく治まったはずの涙がまた込み上げてきて、こくこくと必死に頷く。咄嗟に出てこなかった言葉の代わりに、首に手を回して引き寄せ、唇を奪ってから口角を吊り上げ、涙声のまま宣言する。
「降谷家幸福計画を実行します!」
 私が生きている限り一生支え抜くと誓ったけれど。この人が生きている限り支え抜きたい、に変わった。
「はは、楽しみだなあ」
 くすくすと笑いあい、帰ろう、と言葉が重なった。



 指を絡めて寄り添い、私の歩調に合わせてゆっくりと坂を下る。
「ほっぺた、大丈夫?」
 歩く内に他の傷は手当されていると気付いたのに、そこだけが痛々しいまま放置されている。
「ああ」
 零さんが苦笑いして、いて、と小さく呟いて口元に手をやった。
「君の同級生に殴られたよ」
「えっまじか」
 驚愕の事実に瞠目する。
「み、三井くんが?」
「そう。出会い頭に一発」
 そんなにアグレッシブだったっけ、いや、妹が絡むとそうだったかもしれへん。いや私妹ちゃうし。顔を顰めた私に、大丈夫だぞ、と零さんが声をかける。
「とりあえず私が殴っとくね! 三倍返し! 女の拳は弱いからキックかな」
「……キックボクシング、随分熱心に通っていたと記憶しているんだが」
 呆れ半分で零さんが言う。
「警察官の成人男性のグーパンと考えたら妥当ちゃう?」
「恩人だろ」
「あー、うんまあ、そやね。動いてくれた三人にお礼言いに行かんとなあ」
 いや、赤井さんを含めた四人なのかも。
「ふーん」
 視線を前に向けたまま、口をへの字に曲げて言う。もしかして、妬いてる? それはそれで違うのだと言いたいが、果たして景光さんの件をどの程度知っているのかでどう説明するのがいいのか迷ってしまった。
「ええ、と?」
「僕の着信は散々無視したくせに」
 ぴゃ、と小さく悲鳴をあげた。それを言われると痛い。
「コナン君はまだいい……まだ」
 渋々といった体で「まだ」を強調する。
「三井は……ヒロの件があるから、今回は諦める」
 不服を顔全体に貼り付けて唸る姿をじっと見上げる。
「そっか。知ってたんや」
「ああ、正直まだ半信半疑だがな。ベ……誰かの悪質な変装じゃないかと思った」
 今ベルモットって言おうとしたよな。あと考えられるとしたらキッドか。もしキッドやったら可哀想にトラウマ増幅案件であるが、そこにメリットなさそうやから違うはず。とはいえ自分の判断はあまり信用していない。もともと知らない人なわけやしな、と一応確認をいれる。
「でもあの人は本人なんやんな?」
「ああ、間違いなく」
 表情は変わらない。まじまじと整った顔を見つめていると、ぷいと逸らされた。口角が歪んでいて、今の不満顔はポーズだけらしい。そりゃ嬉しくないはずないか。でもどんな理由でも妻が男にコソコソ会ってたら嫌やんな。
「──だが赤井は殺す」
「ポーズやなかった!」
 今の方向転換のための八つ当たりやろ。やっぱり一枚噛んでたか赤井秀一。その上零さんにまで伝わってたんか。知ってた。FBIと公安の関係は大丈夫ですか? こと赤井さんに関しては本当に心が狭い。
「赤井が誰か分かることとかヒロの記憶喪失は嘘だろうとか後々きっちり聞くことにして」
「やっべ墓穴掘ったわ」
 もしかして私、油断のし過ぎ……!?
 憮然とする私を見て零さんがふふ、と笑う。推しに反応で遊ばれた件について。むう、と遺憾の意を表明する。このまま遊ばれながら帰るんか。尋問よりよっぽどいいけども。仕事に頑張るねって別れて以来と思えば、相当手心が加えられている。
「あ」
「どうした?」
「あー……言ってなかったけど、仕事辞めたんやったな、なんて思いましてですね」
「知ってる。悠宇、本気を出しすぎだ。足取りが掴め無さすぎて手間取ったぞ」
「零さんが?」
「僕と……風見が」
「あっ胃痛案件」
 少し間を開けて発された名前に呻く。まじですまんかった風見さん。一番お礼を言わないといけないのは零さんを支え続けてくれてるあなたやったな。
「ボールペンもスマホもカードもほとんど記録がない。数少ない履歴から辿ろうにもここまで外見と名前が変わればな……全く、そんな特技があったとは知らなかったぞ」
 そう言いながら、ポケットから私のボールペンを覗かせたので、直ぐに受け取ってきゅっと胸元で握る。
「わ、持ってきくれたんや。ありがと。そうそう、イメチェンついでに実は標準語もマスターしたんだよ!」
「何処を目指してるんだ」
 そりゃあもちろん、零さんの隣に立てる人間! とは言えないので、目指せ藤峰有希子、と言ってみた。言うだけならタダ。
「わざとか?」
「え? 何が?」
「なんでもない」
 コナンくんの母親は不味かったかな、と思い至った。意味深に聞こえた? ごめん他意はない。
 まあいっか、と機嫌よく繋いだ手を振る。
「この髪、変?」
「いや、驚きはしたがな。有用な手立てだろう。服装もカジュアルに合わせてあるし、髪どころか全部含めての印象操作だろう?」
「理解が速い」
 本当はメイクもなのだが、今となっては分からんか。
「似合ってる」
「よくできてるって意味合いやな、それは。でもすぐ分かったんやんな」
「当たり前だろう、夫だぞ」
 あっさりと肯定された。
「……ですよね」
 一瞬照れかけたが、私だからと言うよりも洞察力の問題だろうとは思い直したことは黙っておいた。どうにも喜びきれない。風見さんはきっと騙されてくれたと思っておこう。
「どっちにしろ色は戻すけど。梓ちゃんに会う前には……って、最近ほとんど連絡取ってないけどどう思われてるかなあ」
「気にしなくても問題ないさ」
「ほんまにー?」
「ああ、絶対」
「そっか。じゃあポアロ行ってみようかなあ」
「今度僕の最後のシフトがあるから、来るといい」
「え、それはどうなん? 申し訳ない気が」
「呼びたいけど迷惑じゃないかなって梓さんが悩んでたぞ」
「行きます」
 即答したら、零さんがくすりと笑う。誘導に綺麗に嵌った自覚はあった。
「髪染めて、お礼と、職場家族に挨拶と、転職もかな。部屋も放置やし。帰ったらやることいっぱいあるなあ──と」
「どうした?」
「今から帰るって、どっちに?」
 はたと足が止まり、つられて零さんが一歩先で立ち止まる。
「どっちがいい?」
「東都!」
 私は迷うことなく推しの居場所を選ぶ。

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