推しに尽くしたい話 | ナノ


▼ 72

 はあ、と溜息をついた。重いそれを咎める人はいない。雨足が弱まったタイミングで帰ろうと思っていたのに、コーヒーは飲み干してしまったし、雨足は強まる一方で今や土砂降りだ。おかげでいい感じにぬかるみはできてそうやけど、というのが救いなのかなんなのか。
 やっぱりスマホの電源を落としてしまおうかと迷っていると、伏せておいたスマホが震えた。恐る恐る手を伸ばすと、表示される見慣れた数字。声を聴きたい。会いたい。触れたい。抱き締めたい。けど零さんに必要なのは私じゃなくて、景光さんや。弱味につけ込むかのように契った私ではなくて、志を同じくした幼い頃からの親友。誘惑に負けそうな自分に何度も言い聞かせるうちに、着信が止まる。乱雑にスマホを鞄に突っ込んだ。

 追加のココアを頼んでそれも飲みきり、客が半分以下に減ったところで、弱まる気配のない雨に見切りをつけて喫茶店出ることにした。笑顔を貼り付けて、水を注ぎにきた店員に絡む。一番近くで傘を売ってるところはどこか、と調べれば分かるコンビニの所在を尋ねた。店長らしき壮年の小太りの男性は、丁寧に道を教えてくれる。
「ありがとうございます」
「どういたしまして。お嬢さん、一人旅か何か?」
「お嬢さんなんて歳じゃないですよ。ええ、仕事を辞めて人生のボーナスタイムなんです。それで、特に宛もなく行き着いた先の景色のいい所を探してて」
「へえ、どこに行ったんですか?」
「あちこちですねえ」
 逃避行で実際に訪れた場所をいくつか指折りあげると、店長さんは感嘆の声をあげて楽しそうに笑う。
「それで、雨がやんだらそこの大岩壁行こうと思って。空と海が綺麗に見えそうだから」
「そうかい……まあ、なんというか、気をつけるんやで」
「何がですか?」
「──いや、知らないんならいい。忘れてくれ」
 成功率の最も高い自殺スポットとされていることは、当然、承知している。
「その次はどこに向かうんだい?」
 話題を切り替えた店長に乗っかる。
「そうですねえ。東都に戻りたくもあるし、今度は日本三名瀑も興味はあるし、どこかの小島もいいですね」
「ああ、随分昔に……ええと、名前なんやったかな、ド忘れしたわ。栃木のところは行ったことがある」
「どうでした?」
「名瀑と言うに遜色なくいい所だったから、行ってみるといい」
「ありがとうございます。あ、お会計お願いします」
「はいよ」
 会計後に傘を持ってくかと気遣ってくれたがそれを固辞し、喫茶店を後にした。案の定びしょ濡れなったので、一旦部屋に戻ったら直ぐに温泉だと決めた。

 温泉でゆっくり温まり、最後の晩餐として日本人らしくお寿司を食べ、赤だしもしっかり堪能し、ホテルの部屋に引きこもる。外はまだ雨がしとしとと降り続いていて、気が滅入る。久々に腕時計とネックレスをつけて、その冷たさに体温が乗り移った。キャリーからアッサムのティーバッグを出して紅茶を準備して、ソファに膝を抱えて座り込み、時間をかけて精神統一する。意を決して部屋に置き去りにしていたスマホを見ると、コナンくんからの着信が一件。
『悠宇、どこにいる』
『あれはなんだ』
 数時間前の零さんからのメッセージは見なかったフリをする。三井くんからの返事はない。
 ヘッドセットを装着する。深呼吸して、こちらから決着をつけることにした。とうに良い子は寝る時間。せめてもの抵抗だったのだが、現実はかくも非情だった。
「──もしもし? コナンくん?」
「悠宇さんっ!」
 驚くことにワンコールで繋がって、少し焦った声に、三井くんは何を言ったんだろうと眉をひそめた。
「こんばんは。夜更かしは体に悪いよ」
「こんばんは。そっくりそのまま返すよ。……正直、電話くれると思わなかった」
「約束やからねえ。三井くんから聞いたよ。お別れ、なんやって?」
「う、うん」
 愛らしい子供の声で、両親について海外で暮らすことになったのだと「コナン」の幕引きが語られる。随分流暢に話すその設定は、多分もう何度も説明したことなのだろう。カップを両手で持ち、淡々と相槌を打つ。
「──っていうのは建前で」
「うん?」
 意外にも真実を教えてくれるのからと片眉を吊り上げる。
「でも『ボク』が悠宇さんと話せるのは最後になるのはホントウだから」
 一拍の後、そうやな、とさっきまでとなんら変わらぬ相槌を打つ。
「聞いても、いいかな?」
 カツカツと爪でカップを鳴らす。電話越しでも彼に聞こえただろうか。次は、私からだったはず。
「うん」
「──君たちを苦しめてた組織の正式名称は?」
 彼が息を呑んだ。剣呑な空気に変わる。
「……パスだよ」
「一回目、やな」
 じわりと彼の抜け道を奪う。遅かれ早かれ、名探偵は私を追い詰めるだけの能力がある。ならばとこちらから攻めに出ることにした。三回耐えることができれば、つまりは私の勝ちなのだ。
 緊張の一つ目の質問は、機密として沈黙を守られた。聞いてどうするのだと思ったのかもしれない。
「次はボクの番だよね。今どこにいるの?」
「んー? ホテル」
「……ズルいなあ」
「ズルいよ」
 軽い口調で言う。コーヒーが好きか、なんてのをカウントするならこれくらい許容範囲でないと困る。
「悠宇さん今、和歌山に居るんじゃない?」
「……正解や、名探偵くん。なんで分かったん?」
 予定と違う質問をした。返答次第では動きが変わる。返答がなければ私の勝利が近付く。
「服部が、悠宇さんが見ようとした旅行雑誌、覚えてたからね」
 当てずっぽうだとしたら、引っかかってしまった気がする。各所を巡ったというのに、これは偶然か、必然か。しかしこの様子だと、三井くんから関西にいることくらいは聞いていたと考えるべきだろう。問題は、どこまで繋がっているかだ。
「連続だったから、もう一回私からな。そうやな……スコッチには会った?」
 コナンくんが息をつめ、沈黙する。
「パス、する?」
 その沈黙は、景光さんと会った、あるいは会ってはないが知っていることを示した。組織の知らぬ人間だと思ったとして、死人だと思ったとして、こんな風に言葉につまりはしない。
「……少し前に、三井刑事の紹介でね」
「ふうん」
 動いてくれてはいるらしい。これは順調ということなのだろう。
「三井刑事と悠宇さんの関係って、何? まさかただの同級生なんて言わないよね」
「んー、共犯者ってところかな」
「共犯者……」
 思考し沈黙するコナンくんに次の質問をぶつける。
「あの人は三井くんとスコッチのこと、知っとるん?」
「──パス」
 率直な質問は却下された。つれない。
「答えたくないってか。まあ、ちょっと扱いがややこしいもんね」
「スコッチ記憶喪失事件はちょっとじゃないでしょ」
「ふうん?」
 聞いてへんけど、三井くん。目を眇めてカップをテーブルに置く。記憶喪失、と音を発さず繰り返す。なるほど、関わらなかった理由のこじつけとしてはそんなもんか。緩慢な動きで立ち上がり、まさか見張られてはいないか、とそっとカーテンの隙間から外を伺う。
 あ、雨が止んでる。
「まあ、気が向いたら、三人の頃の話とかしてくれるんちゃう?」
「三人?」
「そう。組織の頃。興味無い?」
「……なくはないけど、なあ」
 赤井さんに憧れてるのなら、もうちょい食いつくかと思った。あの頃はなんて裏話、今ならできるはずだ。きっとその頃から張り合ってた二人を想像すると、少しおかしい。景光さんが取り持ってたんだろうか。零さんから聞く彼の人物像を思えば容易に想像できた。結局、二人が対立している所はろくに見ることがなかったな。沖矢さんには会ったけど、赤井さんに会ってないもんな。
 スリッパからここ数日で慣れた黒いピンヒールに履き替え、軽いトートバックを手にする。
「次は何が聞きたい?」
 問いながら、部屋を出る。
「今からどこに行くの?」
「お散歩。空が見たくなったから」
 こちらの動く気配を察知したコナンくんに、答えてやる。
「コナンくんとあの人、どういう関係なん?」
「あの人って?」
「今更やな。分かってるくせに」
「ボクわかんなーい」
 白々しいぶりっ子っぷりに溜息つきつつ、廊下を歩く。時間帯が時間帯だからか、私以外人の気配はない。
「……私の配偶者」
「めちゃめちゃ事務的な言い方するね」
 はあ、と今度はコナンくんがわざとらしい溜息をつく。
「悠宇さんとは真逆だよ」
「うん?」
「嘘ばっかりだ」
「……嘘、ね」
 みんな嘘つきなのに。隠し事も痛い腹も抱えてる。
「ボクも、あの人も。嘘ついて、騙して、でも利害が一致したら協力する。能力を認めてる。敵じゃないけど、完全な味方ってわけでもない。
 根本的に目指すゴールが違うから、少しでも自分のペースに巻き込めるよう必死なんだぜ。あの人は、背負ってるものが大きすぎる」
 どいつもこいつも、取り繕った外見を放棄して好き勝手なトーンで話しやがって、と心の中で毒づく。人目を忍んで、ゆっくり階段を降りる。
「だからこそ君には、個人として隣にいて欲しいし、これからもそうあってほしいと願ってるんやけどなあ」
 ねえ、工藤新一くん。コツコツとヒールが音を鳴らす。
「それは悠宇さんのエゴだ」
「……うん。そうやね」
「そうやって俺を無条件に信頼してる──真逆、だろ? 悠宇さんは誠実だ。歳上に言うのも変だけどな……優しくて、素直で。その上で後生大事に一つだけ抱えて、そのためには自分のスタイルを崩すことも厭わない」
 実直、過信、個の優先。それはコナンくんとは鏡のようにお互い様で。確かに、真逆なのかもしれない。
「美化してへん? 何かに縋ることでしか生きられへんかっただけ。確実に一つを守るために、色んなモノを切り捨てて、諦めただけ。保身的な悪い大人の典型やで……まあ、プレッシャーかけてたのなら、ごめんな? でも君なら絶対大丈夫やから」
「あー……その根拠の無い自信どこから湧いてくんだよ」
「天に召します我らの神」
 呆れ声に即答する。ごーしょー大先生とおっしゃるんですがね。
「はは……あー、くっそ。あんたら、そっくりだけど全然似てねえ」
 乾いた呟きは、ほとんど一人言なんだろう。咳払いして、子供らしい口調に戻る。
「悠宇さんはさ──降谷さんのこと、好き?」
「うん、愛してるよ」
 何度目かの、それでいて至極分かり切った質問は少し意外だった。彼は何に拘っているのか分からないが、天才の思考回路によって凡人のあずかり知らぬところで何かの答えが出ているんだろう。本当に、嫌になるなあ。
「三井くんが絡んでるのは分かるけど……これ、君にとってのメリットって何?」
「うわあ赤井さんの読み通りだ」
 聞き捨てならない呟きに何事かと尋ねかけたが何とか飲み込む。で? と促すと「パス」と苦笑いで言った。ちょっと納得がいかないけど。そんなもんか。
「これでお互い三回やね」
 気を取り直して、確認作業をする。
「ああ、言っても意味が無いから」
「それでお互い後がなくなったけど、いいんや」
「そうだね。ねえ──なんで、死のうとしてるの?」
 低く硬質になった声に、真に迫った問いにたじろぎそうになる。
「なんのことかなあ──強いて言うなら、役目は果たしたからバトンを返すだけ」
「バーロー! そんなの誰が求めてるんだよ!」
「世界かな」
 おどけて言った。外に出ると、雨上がりで少しひやりとした空気に包まれる。
「パスはなしだよ」
「それだと先に質問した人が有利になるやん。私の質問に答えてくれたら、考えるよ」
「大人気ないなあ」
「あれれ、子供扱いしてほしい?」
「それはそれで嫌だけど」
 不服そうにコナンくんが唸る。
 深呼吸する。リーク元は十中八九、三井くん。いつの間に思惑が気付かれていたのか。こうなったら強行突破しかない。
「零さんはどこ?」
 より早く、より確実な終わりのために。
「……推理の詳細を聞かれるかと思ったんだけどな」
「そら気になるけどなー、その嫌な推理を覆す信頼はないし。優先順位は落ちるかな。無理はしない主義やからね」
 息を乱さぬ程度に、けれどできるだけ速く足を動かす。あまりに分が悪い。今となってはヒールが疎ましいが、戻る方がハイリスクだ。
「今の行為の方がよっぽど無理じゃない?」
「ただのお散歩やで」
 ただし常世への、という注釈が付くだけで。困った寄生体のせいで、刃物程度じゃ死ねない可能性が高い。ましてや、おそらく、零さんがこっちに向かってるなら救出されてしまうかもしれない。それこそ「奇跡的」に。
「それで、答えてくれるの? くれないの?」
「悠宇さんこそ」
 長く嫌な沈黙が横たわる。嘘か敗北かしかない気がして、口を噤んだ。坂を登る。ヒールに詰め込まれた足が痛い。
「お互い返事はなし。相子でゲームオーバーってことでいいんかな」
 コツコツ、 コナンくんからの終わりの合図がイヤホンから聞こえた。
「じゃあ──」
 この様子ならどうせ逆探知されているだろう電話を切ろうとしたところで、相子と言えばさ、と子供らしからぬ声に遮られた。
「悠宇さん、嘘ついたよね。ボクを選んで信用を得ようとしてたでしょ……なのに一度だけ」
 ひくりと頬が引き攣る。
「福山さん……僕も一回だけ、嘘をついたよ」
 やりやがったなこの小悪魔。
「……まじか」
 最悪を想定しろ。無視できるものかブラフか、不都合な真実か。これじゃ電話を切るに切れない。考えろ、急げ。焦るほどに思考は散り散りになって、まとまらない。
「うわ」
 つい早歩きになっていて、段差につまづいてたたらを踏んで立ち止まる。
「大丈夫!?」
「あー、うん、大丈夫大丈夫」
 恥ずかしいし、情けない。
 ぐちゃぐちゃの頭がひとつの答えを導き出した。私がこのままいなくなれば、主人公の精神にまで禍根を残す。浅井成実の時と違って目の前ではなくとも、心根の真っ直ぐな光みたいな彼は気に病んでしまう。それは零さんよりよっぽどタチが悪い。
「……詰みかなあ」
 凡人には無理だった。ほ、とコナンくんが小さく嘆息する。
「『コナン』くん、次はちゃんとはじめましてがしたいなあ。私も改めて名乗らないと、」
 ──僕には命に代えても守らなければならないものがある。
 唐突に頭に鳴り響いた映画の宣伝文句に言葉が途切れる。そうや、私が守らなくて誰が守る。ここが景光さんと生きられる奇跡の世界線なのに。
「本当に何も聞いてないんだよね? あ、安室さんによろしく。今そっち向かってるはずだから」
 新たな決意に気付かぬ主人公は饒舌に情報を漏らす。
「……うん、知ってる。三井くんと景光さんによろしく言っといて」
「自分で言いにきなよ」
「ほらお礼は可及的速やかにお伝えしないと。私は手一杯だから」
「しゃーねえなあ」
「ありがとう」
「ポアロのアイスコーヒー分、ね」
 そう言えばそんなこともあった。何年前の話や、と思ったけれどここ数ヶ月ってことになってるのか。
「またね、悠宇さん」
「ばいばい」
 私は今日、予定通りに足を滑らせる心積りがある。

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