推しに尽くしたい話 | ナノ


▼ 66

 三井くんのおかげで少し元気を取り戻した翌日、チェックアウトの後に頑丈そうでシンプルな黒のキャリーケースを購入し、本格的に旅を始めた。昼休み帯になると、一度電車内で古いスマホを起動する。
 同僚達からの着信とメールを処理し、友人からのメッセージも簡素に返す。梓ちゃんからの新メニュー相談に少し悩んだ末いつも通りのテンションで返事をして、最難関零さんに取り掛かった。昨日の深夜に返事が返ってきていた。
『何かあったのか?』
 ごめん、零さん。私は今から沢山、嘘をつく。電話で騙せる気はしないから絶対に出ないし、かけない。それに声を聞くと、きっと恋しくなってしまう。
『行きたいセミナーとか学会がいくつかあって、その分の調整とかでちょっと』
 また、電源を切る。道中読むための中国語のテキストを買ってから、電車に乗ることにしよう。



 また安いビジネスホテルに架空の名前と住所でもって飛び込み、三泊分の前払いする。三井くんは名前や住所を貸してくれるとはっていたけれど、極力使わないに限る。グレードの高くセキュリティが厳しそうなホテルの時だけは借りようと思っているが、期間不明の旅なのでそう何度も必要になることはないのだろう。
 たった数日でも、自分を偽ることに慣れてしまったことに嫌気が差す。私はこんなに犯罪への適性があったのだろうか。それとも心が死んできているのだろうか。けれど、思いつく限りの対策を入念に行うことは間違いなく必須事項だった。一度妥協してしまえば、それこそ自分が嫌いになって耐えられなくなる。

 移動に大半の時間を費やしたこの日は、日課のトレーニングと中国語を勉強して過ごした。東都を脱したことで少しばかり心が落ち着く。ここに来てから、鞄の容量が増えたことでトレーニングウェアや服などをいくつか買い足した。翌朝のトレーニングを予定して、マップを頼りに体を動かせそうな公園をチェックしておいた。

 翌朝はトレーニングの後に部屋に戻ってシャワーを浴びる。朝食をとりつつ近くに何かあるかと調べると、植物園があったのでそこを今日の目的地にした。
 寒空の下歩きながら、そういえば二人で行きたいって話をしたなあ、と目を細めた。
「種も苗も買えへんけど」
 ぼそりと呟く。
 一人で回る植物園は穏やかだ。温室があるものの、冬なので見れる範囲も限られており、時期外れの平日ともなると閑散としていた。時間に制限もないので一つ一つゆっくり眺め、説明文を必要以上にじっくりと読んだ。
 昼をしばらく過ぎたところで僅かばかりの空腹を思い出し、三井くんに怒られるな、と食堂へと足を運んだ。どれにしようかとメニューを眺めていると、背後に人の気配を感じた。大して食欲もないので全く決められないため、端によって順番を譲る。
「あ、ありがとうございます」
「いえ」
 若い女性の声にちらりと視線を向けた。一眼レフカメラをぶら下げた大学生らしい男女のカップルだった。二人で撮影しに来たのだろう。
 デート、か。そんな未来は来るのだろうか。何となく腹の底がずしりと重くなってその場を離れた。弱っちいなあ、ほんまに。
 取るに足りない日常であるはずの一つ一つが遠くて、やたらに心を蝕んでいく。今は逃げれるから、逃げてしまう。逃げ癖がついてしまった。
 物理的に頭を冷やそうと温室から外に出た。深呼吸して冷たい空気を取り込み、ゆっくりと吐き出す。ふと足元に咲く黄色い花を見つめた。立て札にはカレンデュラとある。和名は確か、金盞花だったか。薬用として効果があるとされるハーブだったから一度記憶したものの、さてなんの効果だったか肝心のところは思い出せない。こういうの、向こう側の人なら忘れへんのやろうな、と僻むような思考が浮かんでしまった。なんて嫌な人間や、私は。
 零さんならこんな時、花の盛りや育て方、適した気候や花言葉まで楽しそうに話してくれるのだろう。そんなことを考えずにはいられなかった。恋も愛も、なんて厄介なんやろう。それでも、どうしようもなくあの人が好きなのだ。



 半月もすると春になった。零さんや梓ちゃんからのメッセージはまだうまく躱せていると思う。沖矢さんからのしつこく近況を問うメッセージには折れてスタンプで返事をしている。コナンくんは主人公だから忙しいのか、連絡は来ていないことは救いだった。三井くんには都道府県単位で現在地を連絡しつつ、あれを食べたこれを食べたと写真でアピールしている。
 今日は陽気の中、花見をすることにしている。サンドイッチとお茶を買って、平日昼でまばらな花見客の中、木陰で芝生に寝転がってみた。少しうつらうつらとして、読みかけの専門雑誌を胸の上に置いた。現場からこれほど長期間離れると、戻れるのかひどく気がかりでこうして縋っている状態だった。
「──いい天気ですねえ」
「……そうですね」
 気付けば木の根元に私より少し年嵩の男性が凭れていた。片手にプルタブの開いたビールの缶を持っている。どうしてここに、と思ったが、ふと見回せばどの木の下も、友達連れなどで埋まっていた。
 不慣れな標準語を発揮したくはなかったが、他人との会話に飢えてもいた。なんの気なしに会話を続ける。
「桜、お好きなんですか?」
「いえ、一人で花見なんて初めてですよ」
「なら、今日はどうしてですか?」
「外はこんな天気なのに、ずっとパソコンに向かってるのが嫌になりまして」
 実は脱走です、と小声でいたずらっぽく言う。一度やってみたかったんですよね、と笑って肩を竦めた。
「あら、悪い人ですね」
「そういうあなたは?」
「おやすみなので、折角なら外に出ようかと」
「健全でしたか」
「健全ですよ」
「つまらないなあ」
「花見客に物語性を求めないでください」
「すみません。俺の人生がつまらないもので、つい他人に期待してしまいました」
 苦笑いして、ビールを煽る。
「つまらないんですか?」
「仕事漬けですから。昔からずっとある芸能人のファンで日々の癒しにしてたんですが、今じゃめっきり露出が減ってしまって。趣味のない毎日に飽き飽きしてるところです」
「ある芸能人?」
「藤峰有希子、って分かります?」
「──それは、勿論存じてますよ」
 一瞬喉が詰まったが、何とか笑顔をキープして返事をすることができた。この人もあちら側か。話なんて始めなければ知らないままでいられたのに。
「良かった、今どき知らないって人も多くて。結婚と共に随分見かけなくなりましたが、それでも時々ラジオやバラエティなんかに出てたんですけどね。俺にとっては永遠のアイドルなんで」
「そういうもんですか」
 ええと頷いて、あのドラマに出ていた頃は、などと一世を風靡した女優をあれこれ語りかけた所で彼のスマホが振動した。
 ポケットから出して着信相手を確認し、彼は顔を顰めた。
「上司ですか?」
「はい。戻らないと不味そうです」
「お疲れ様です」
「話し相手、ありがとうございました」
「こちらこそ」
 よっこいしょ、と腰を上げて電話に出る彼を見送るでもなく、頭上の桜を見上げた。薄紅色とその奥の澄んだ空を視界に収める。眩しいなあ。目を閉じて再び微睡みかけたところで、血濡れの零さんが瞼の裏に浮かび上がって飛び起きた。日本を象徴する桜だからか、と苦々しい気持ちになった。桜の樹の下には死体が埋まっている。そんな都市伝説じみた話が頭にこびりついて離れない。──日本の礎として、彼の命が使われる。私のせいで変わった未来を修正するために。
 ぱしり、と頬を叩いて悲観的な思考を強制的に途切れさせる。荷物をまとめてホテルに戻ることにしよう。いい天気やのになあ。



『悠宇』
『今日ずっと家にいたのか?』
『ボールペン? 実は忘れちゃったんよ。心配かけてごめん。大丈夫』
『ちゃんと寝て食べてれてるか?』
『大丈夫』
『熱は?』
『風邪ちゃうから』
『本当に?』
 逃避行が一ヶ月近く経ち、ついに零さんからのメッセージに緊迫感が生まれた。どうにも体調を崩して自宅養生しているのを誤魔化そうとしていると思われているらしい。ボールペンを持ち歩く習慣が信頼されいてるのか。
『おやすみ』
『水分補給忘れるなよ』
 だから風邪ちゃいまんがな。都合のいい勘違いなので、それ以上の問答は避けてそっとしておいた。まだいけそうやな。

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