第1話 02
[ 2/39 ]

 途端に笑う男性。手際のいい調理の音に、彩歌は早速腹の音を隠せずに響かせ続ける。
 冗談抜きで好きだ。別に恋愛感情じゃなくても、その言葉は使っていいもの。
 十年前迷子になって泣いていた自分を、探してくれていた理真里や啓司が来てくれるまで、美味しい料理を振舞って、楽しい話をしてくれた。本当におじのような存在で。
「ねーえー。なんで十年前、交番に連れて行こうって思わなかったの?」
「何度も言ってるだろう。ここからじゃ遠かったし、俺も店があったからな。まあすぐに閉店してもよかったんだが、腹が減って動きたくないって言い出したのはお前さんだろう」
「そーでした。あの時もシチュードリアだったよね」
 器用な人で、シチュードリアの上にビーフシチューのソースを使って、似顔絵まで描いてくれた。
 笑いながらの店主は、オーブンに陶器の器ごとドリアを入れ、焼き始めたようだ。
「ははっ、よく覚えてたな。悪いなー、お前さんの初恋を奪ったのがこんなおっちゃんで」
「あははー本当ー。言っておくけど恋はしてないから安心してねー」
「……おっちゃん淋しい。これでも中学時代は校内イケメン男子のトップテンに輝いてたんだぞー」
「またそれ? 美術部の貴公子だっけ? 絵の上手さは別として。嘘っぽい、胡散臭い、鬱陶しいの3U、またけーじに言われるよ?」
 あれ意外と応えるぞー。と、全く応えていない声音。笑って返す彩歌は、うとうととしつつもなんとか目を開けていた。
「それで、りまっちとけー坊はどうしてるんだ? 部活か?」
「うん、美術部と柔道部。まだ新年度だし顔出しておくんだって。あたし文芸部行くか美術部行くかで、まだ悩んでて」
 理真里が美術に進んだのも、この城条の影響だ。彼が中学時代、美術部であった延長線上で、現在たまに作っているという紙粘土の造形やサンドアートなどに魅せられて、彩歌も理真里も美術に興味を持った。啓司だけはもはや石器人並み、下手をすれば以下と言われるほどに、絵心も何もないスポーツオンリー少年だったから、彼はそんなに興味を示さなかったけれど。
 そうかと感慨深そうに相槌を打つ城条。料理が完成したのだろう。よし、と短い声の後、オーブンの熱気が少しだけ感じられた気がした。途端に体を起こした彩歌の目の前に、暖かい湯気と、まだ熱を発する音が心地よく響く視野が映る。顔が一気に綻び、輝いた。
「十年も通い続けてくれる小さな常連さんへのささやかなプレゼント。お気に召していただけましたかな?」
「かっわいーっ! これ絵本? すっごーい!」
 繊細な線。開かれた本の中に描かれる、やや滲んだ中に浮かぶ小さな物語。パソコンからプリントアウトして貼り付けたかのような細かさに、彩歌はただ感嘆する。
「部活は今のうちに迷っておけ。どっちも必ずお前さんの糧になるさ。こんな感じでな」
 ……それは正直、分からない。
 けれど、少なくとも城条のこの技量は、中学を卒業した後もずっと絵を描き続けてきたからこその結晶なのだとも、思える。
 諦めず、根気よく。きっと挫折もしたのかもしれないけれど、この料理の中で輝く絵本は、確かにその物語を見せてくれているようにも感じられるのだ。
「ほれ、冷めると美味くないぞ。火傷せんようにな」
「うんっ。いっただっきまーすっ」
 口に運ぶ度に広がる、変わらなくて温かい美味しさ。正直崩すのはもったいないし、写真に収めてもきっと足りない。頬がとろけるほどの美味しさなんてありきたりな言葉じゃ表せないくらい美味しいのに、どの言葉が似合うか迷ってしまう。
 半分ほど食べて、彩歌は緩みきった顔で溜息をついた。
「いいなあ、あたしも料理上手になりたい」
「一人暮らしすれば自然と身に着くぞー。後はやる気だな。材料と入れる順番を間違えなければ、誰だって作れるもんさ。後は自分以外の誰かに食ってもらって、美味いって言ってもらえる事だな」
 途端にきょとんとした彩歌は、すぐにくすぐったくなって笑いながら城条を突いたのだった。
  
 温まった体を少しずつ冷やしていく、やや冷たい春の夜風。自転車のライトと街灯がほんの少し周りを照らしてくれている、その道の先の橋へと目がけ、静かに音が刻まれていく。車や人の確認もそこそこに、陽岡川(ひおかがわ)に架かる橋付近まで来た彩歌は、いつもの癖で川の様子を暗いながらも覗いてみた。
 そんなに広くない川幅に、やや暗めに輝きを跳ね返す川の水。背の高い草が両岸に生い茂っていて、彩歌の好きな風景でもある。
 自分の高校に写真部があれば、そこに入る気でいたのだけれど。正直文才も画才もない彩歌には、携帯で気軽にとれる写真のほうが楽だったし、楽しいのも事実だ。
 こんなに自然(テーマ)に溢れた土地だから、なおさら。
 それこそ下校途中に見かけた銀髪の女性が、今みたいに川のほとりで立っているのも、昼間であれば綺麗な光景なのにとすら思うのに。
「――え? あれ、何してるんだろ?」
 風景と一体化しすぎて、うっかり流してしまいそうになった。慌てて自転車を止め、橋の上から女性の姿を驚いて見下ろす。
 暗い水辺。深さはそれほどないとはいえ、足を滑らせでもしたら大変だ。ましてや足元も見えるか分からないこんな田舎で、もしあの女性が都会育ちで、その感覚で水辺にいるのならなおさら危ない。
 大体、こんな時間になんで川辺に? 明かりもつけていないで。一番近い街灯ですら土手の上にあって、足元は絶対暗いはずだ。
 身の丈はあるだろう背の高い草が生い茂っていて、確実に見えるのは手元ぐらいのはずなのに。おかしすぎる。
 しばらく見ているうち、女性は川の中へと進み始めた。彩歌がぎょっとしたのは言うまでもない。心臓が胸を何度も叩き、喉がやや詰まる。
 やがて女性の膝ほどにまで水が迫った深さに到達した時、止まった。彩歌はようやっと唾を飲み込む。
 ――自殺だ。
 こんな時間に外国人の女の人が、こんな川で水遊びなんてするはずがない。海がない国の出身者でも、きっと分かっていて当然のはず。
 見なかった振りをして逃げるべきだろうか。今から大声を出して止めるべき? 止めたとしても説得できる自信なんてない。ないけれど――
 彩歌は自転車を反対方向に向かせるとすぐに漕ぎ出し、女性に一番近い土手の階段目がけてペダルを扱いだ。急ブレーキをかけ、転びそうになったが自転車を放り出して階段を駆け下りる。自転車が派手な音を響かせて転がったが、女性は全く気づいていないかのように水辺を見下ろしているではないか。
 草むらを掻き分け、必死で進みながら彩歌は口を開いてめいいっぱい息を吸い込んだ。
「ま、待って! 早まるのだめえええっ!」
 女性が振り返った。その腕を慌てて掴んで、靴下も靴も盛大に濡れる事も構わずに、彩歌は腕を引こうとして――弾かれた。
 女性を見上げると、冷たい目が見下ろしてきて身が竦む。
 十七の子供でも分かる。死のうとしている人の目じゃない。
 もう既に全てを知っていて、死ぬよりも違う道を選んだ、例えるなら――
「あ、危ないよ。ここ、こんなに暗いのに」
 ……冷たい目。ただ見下ろすだけの女性を見上げて、彩歌は体が震えた。
 なんでこの人、冷たい水の中で震えてないの? ノースリーブのワンピースで、裾が水を吸って足に張り付いているのに。
「……え、えと、Be careful?」
 何も答えてくれない。使う言葉を間違えたかと焦り始めた彩歌は、こんな時に英語を流し気味に聞いていた事に後悔したが、それ以上に何かを考えないようにしている気がしてたまらない。
 それでも必死に、口を開こうとして、体が震える。
「あ、あの」
「目障りよ」
 凍りつく彩歌の表情。女性は一度だけ水だけでできた花を見やった後、彩歌には目もくれずに岸辺へと向かっていった。
 砂利を踏みしめる音が後ろで響き、やがて消えていく。聞こえる音がなくなって、川の流れる音だけになった水辺でただ体を震わせたまま、やがて湧いてくる熱い何か。
「め、目障りって……声かけられて心配までされてそれ!?」
 普通はすみませんとか、邪魔をされたとしても相手の心配に感謝するとか、そういう社交的な事が来るのは当然だろう。外国人にはそんなもの欠片もないというのか?
 親切(カインド)という言葉があるのに!
 寒さや水の冷たさよりも、怒りでわなわなと震えていた彩歌は一度、水がぽちゃんと音を立てたのを聞いた。
 目を見やり、疑う。
 水が花の形を模し、流れる事なく、ガラスのように水を跳ね返して何本も煌いているのだ。
 やがて溶けるように音もなく崩れた花は、流れる水に音を立てて交わり、流れていった。
 それを合図に、全ての花が本来の水の姿を取り戻して流れていく。
 気がついて振り向けば、水草と思っていた背の高い草が、だいぶ減っていた。
 足元の水の流れが、やや変わる。
「な、何……これ……」
 最後の、水蓮にも似た一輪の花が、ゆっくりと形を崩して水と交わっていった。
「あ……? なんで自転車? あ、おーい。この自転車お前の? こげんとこほかすなっちゃ、危ないやろがー」
「え? あ、はーい! ごめんなさい、それあたしのです!」
 慌てて土手の上の青年に謝り、そこまで上がりつつ。彩歌は何度も後ろを振り返っていたのだった。

[*prev] [next#]
[表紙目次]
back to top
しおりを挟む
しおりを見る
Copyright (c) 2020 *そらふで書店。* all right reserved.

  
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -