エーデル・クライノート
第1話「世界を見る位置」 

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 この大陸は、空に浮かぶ私達「フェウス」の箱舟。
 世界が灼熱に覆われてしまった遠い「あの日」を境に、世界からは紋陣(エリアス)を消し去った。紋陣は制御されなければいけないから。模様を、方陣を描いた先に起こる自然現象、魔法の力をまた使いすぎて、この世界が焦土と化さないために。
 だから、紋陣を封印するために、この大陸「ラフェウス」は浮かび続ける。とても償いきれない失態を犯した、かつての私達の先祖の末裔――地上世界の人々に、紋陣を忘れさせるために。
 この世界の指針を示す箱舟「ラフェウス」は、地上世界の陸と海を支える巨大紋陣「ヴェルグラト」が壊れないよう、翼を持つ私達フェウス族の箱舟。
 全ては、世界のために。
 全てはこの宝玉、エーデル・クライノートを守り抜くために。

第1話「世界を見る位置」

 この世界には、三つの大高位≠ェ存在している。文字通り、世界がそれぞれ存在する高度が、大きく三つに分かれているのだ。
 一つはもともとこの世界の地上≠ナあり、焦土と化して封じられた、忘れられた地下世界「エファピア」。
 二つ目はそのエファピアに蓋をかぶせたように存在する世界。地下世界から天柱(エングラサード)に支えられている、現在生き物達が繁栄する地上世界「ツァルロス・アーク」。
 そして三つ目が、ツァルロス・アークのさらに上空に浮遊する大陸。それがこの天空大陸「ラフェウス」。
 その全てを内包する世界「ヴェルグラト」の話は、ほとんどが上層部の神官£Bにより保管されている。大陸の中央にある大フェウス市街ならともかく、イクシス達大陸の方々にて暮らす村人には、あまり全容を知る機会は少ない。せいぜい、神官達から説法を受ける時に聞くぐらいしかできなかった。
 神官はラフェウスの族長達であり、戦士であり、巫女だ。紋陣の仕組みを正しく理解し、世界の在り方を、この箱舟の大陸から示す。
 透き通った羽をもつフェウス族も、その気高い身分の中にいるけれど、ほとんどが鳥類のような実体化した白や黒の羽をもつフェウス族が占めている。羽の実体化の度合いが、自分達が生み出せる、紋陣を動かすための紋力(グラット)の量に相当するから、当然だった。
 雲が平原の草を撫でるように流れる。丘陵にぶつかって露と氷を降らしめ、雪にも強い寒冷の木々達がそれを受け止め、草原を湿地に変える。
 イクシスの生まれ育った、ラフェウスの東の平原、ベンアット平原の朝は、露と氷の欠片が木々によって支えられ、朝日に照らされる幻想的な光景だ。南と西に山、東に小さな丘陵があり、南北に延びる平原の南端を、イクシス達薄羽のラフェウス達が暮らす村がある。
 羊達から羊乳を恵んでもらい、イクシスは自身の透き通った羽を背中に広げ、肩からかけていたマントを外して羊乳を入れた皮袋を包んだ。胸元で縛られたワンピースは、イクシスの動きに合わせて軽やかに広がり、踊る。
「イクシス、終わったか!?」
「うん、終わった! ねえ、兄様、神官様が明日お見えになるんでしょう!?」
 イクシスと同じ、冴え渡る空色の髪を持つ兄、クライフは笑って頷いた。妹が駆け寄る姿に、なんだか物足りなさそうな顔だ。翡翠色の切れ長の目が残念そうに細められた。
「飛んでくればいいだろ、スカートが汚れてる。おばさんに怒られるぞ」
「いつも羊と遊んでいれば泥だらけよ。この間は地下世界の話を聞いたけれど、今年は何かな? やっとラフェウスの真下の大陸の話かしら」
「お前のその好奇心、地上にいる人間やデルマスフとよくウマが合うんじゃないか? 兄さんはあの話聞くの退屈だよ……俺達には縁もない、下の世界の連中だぞ」
「ええー。神官様は地上の世界も、地下の世界も偵察に行かれるのよね? 私達の村からは、久しく神官様が出ていないし……私も一度行きたいなあ」
 そうか? と、兄はあまり興味がなさそうだった。イクシスは目を輝かせて頷き、兄に羊乳を押しつけた。
「羽がなくても、地面を力強く蹴って駆け抜ける動物達、見てみたい! 自分の好きな技術を調べて極める、デルマスフの人々にも会ってみたいの。体は形が変てこだけど、紋陣を私達の先祖と改良したムムグム族の人とも、歴史の話をしてみたいの。クケナーの人は悪戯好きだけど、手先がとっても器用なのよ。一緒に装飾具を作ったりしたいなあ」
「……いつ習ったっけ、その種族の話」
「三年前よ、兄様」
「よく覚えていられるよ……覚えることは他にもあるだろうにさ」
 遠くから、澄んだ鐘の音が響いた。笑顔を満開に顔を上げるイクシスを、クライフは顔をしかめて見下ろす。
「もうすぐね! 私準備を手伝ってくる!」
「……その前に、いい歳なんだから服着替えてこい? そんな泥だらけじゃあ神官様も逃げ腰だよ」
「はあーい!」
 透き通った緋色の綺麗な羽が、春の花弁のように舞いあがった。
 イクシスは風を切りながら、大地をすべるように流れる雲を避けて、村へと舞い戻る。羊乳を中央の教会に預けるとすぐ、やや村から外れた場所にある自宅へと飛んで帰る。
 服は何がいいだろうか。いやそれよりも、なにか果物などで神官様の口を潤して頂いた方がいいのかな。考えることは山ほどある。今日も沢山話を聞かせてほしい。
 鐘がもう一度鳴ったら、みんな教会で話を聞ける。自室で、髪の色も目の色も映えるような、若草色のワンピースへと急いで着替えた。いつも水色ばかりだから、今日はこんなこともしてみたかった。
 鐘を鳴らす準備をしている。教会の上部で、紋陣による光が輝いている。
 玄関を閉めて、イクシスは勢いよく羽ばたいていった。
「イクシス! スカートの中丸見えになるぞ!」
「何よ、覗いたほうが悪いわ! ちゃんと中にも履いてます!」
 昔から悪ガキとして名高かったフェグにあっかんべえをお返しし、うっかり正直に言いすぎて、後で兄から怒られるだろうかと肩を竦めるイクシスは、教会の前でふわりと降り立った。
 羽をしまう。彼女が協会の大きな両開きの扉に触れるのと、鐘が鳴る音は同時だった。
 光が溢れる。
「――え?」
 半円形の取っ手に紋様が浮かび上がり、風が勢いよく渦を巻いて駆け上がる。鐘が大きく揺さぶられて激しく音を響かせる。
 恐怖に駆られ、取っ手から手を放そうとした、その時だった。
「そのまま。紋力を落ち着かせなさい」
 真後ろから男性の声がした。後ろを見ることもできず、イクシスは目を震える手から離せず、言われるがままにに意識を集中させようと深呼吸する。
 紋陣を制御する時はまず自分が落ち着くこと。でなければ過剰な紋力を制御できないのだから――。
 奔流を、細く、細く。
 力を弱く、穏やかに。
 滝を超え、急流を宥め、水を穏やかな平原へと流すように。
 そして――
 奔流が止まった。紋陣の輝きが消えた。
 膝ががっくりと落ち、手足の震えが止まらなくなる。
「い、今の……!」
「申し訳ない。私のいたずらが過ぎたようだ」
 右に降りる銀色の袈裟と、鳥のような黒の翼に、イクシスは目を見開いた。
 目線を合わせるように膝を折る男性の背には大剣が。緩く束ねられた淡い金髪。糸のように細い目は、奥に覗く瞳の色を濃い青だとしっかり認識させる。
 そうでなくても銀色の袈裟だけで、高位の神官であることは容易く読み取れたイクシスは、一気に顔を真っ赤にした。
「し、神官様……!? そんな、お謝りにならないでください! 私が不用意に紋陣に触れてしまったことが原因です!」
「そう申してくれるのは、ありがたい。だが君は、どうして大勢の人間が触れる、この教会の戸に紋陣がしかけてあったか。考えて申しているかな?」
 一瞬意味が掴めなかった。穏やかに笑う神官は、黒の羽をやや広げながら立ち上がり、紋陣に手をかざす。
 パズルが崩れた。
 光で描かれた紋様がばらばらと落ち、ただの光る文字の塊となり、消えていったではないか。
 大きな羽ばたきが近づく中、神官はイクシスを立ち上がらせると周囲を見渡した。そんな彼を見てやっと、自分達を取り巻く人だかりに気づいたイクシスは呆然とする。
 戸惑う顔、青ざめる顔。そして冴え渡る蒼い髪を持った青年が降りる場所を慌てて空ける知り合いの姿。
 兄が顔を真っ青にイクシスに駆け寄ろうとし、踏みとどまった。男性を睨みつける兄の姿に、イクシスもやっと周囲の緊張に気づく。
「お、お兄様……」
「――神官様、今のはいったいなんだったのですか! 妹にご用でも」
「兄者だったか。丁度いい。君も紋力に恵まれているようだ」
 目を見開くクライフは、顎にきつく力が入ったように見えた。ゆっくり広げられた口の端に力がこもっている。
「あいにく、俺が得意としているのは紋陣ではありません。ご期待に副えず……」
「なるほど。それはそれでありがたい」
 一度イクシスへと目を落とす青年は、毒気を抜かれたような顔のクライフを尻目にウィンクした。一同を見渡し、穏やかな声を大きくする。
「本日は急な抜き打ち≠ノ混乱を招き、申し訳なく思っているよ。我々神官は常に新たな門徒を募っているのだが、時にこうして、適正のある者を探すために紋陣で確かめることもある。この度はことを大きくしてしまい迷惑をかけた。改めて説法を致そう」
 安堵の顔と、未だ不安を引きずる顔。皆々、扉を開けた神官に招かれ、村の教会へと足を運んでいく。
 イクシスと、クライフを残して。
 男性はイクシスの手を取ったまま、柔和な顔でクライフへと微笑んだ。
「さあ、兄者も」
「……抜き打ちなんて、本当はないんだろう。なんであんな嘘を……!」
 耳を疑ってクライフを見上げるイクシスは、男性がおかしそうに微笑んだのを確かに見た。
「時代は変わる。君の知るやり方を常々行っているとも限らない。そして、君が知るやり方だけが、我々の持つやり方の全てとも限らない」
 他人に対してここまで青ざめた兄の顔を、イクシスは初めて見た。
 緩やかに手を引かれるまま、教会へと連れていかれる彼女は、入口で立ち尽くしたままのクライフをただただ見つめるばかりだった。
「我々フェウス族の歴史は長い。元々金の髪を持つ者がフェウスの証と呼ばれていたが、我々の代ともなると、様々な種族と交わってきたために、デルマスフのような緑、青――人間のような茶色、黒。個々に分かれている。金髪はフェウスとアムイの象徴というのはもはや人種差別と、数百年前に撤廃したね」
 祭壇に立ち、教卓から生徒を見下ろすように、男性は声を発していた。
 イクシスは、前の席に座らされていた。
「さて、今回は歴史の話だ。種族それぞれの話は、ここ数年間何度も繰り返している。フェウス族がなぜ、神のいない宗教≠打ち立てたか。お話ししよう」
 そうだ。フェウス族の宗教に神はいない。
 神を崇める風習は人間のものであって、フェウスには必要なかった。そう、小さい頃に教えられたはずだ。
 ――だめだ、兄のことが気になって、ついつい後ろを向いてしまいそうになる。
「我々フェウスも、この世界の真の創世については誰も知らない。人間が神を求める中、我々は紋陣こそが世界の真理であると定め、研究を行ってきた。大昔、紋陣を過剰に使い、地下を流れるエネルギー――地流エネルギーだね。これが大地を無作為に流れた」
 世界の山を定め、川の流れる位置すらも左右したと言われる地流エネルギー。
 それが無作為に流れるということは、山が崩れるということ。
 海が荒れるということ。
「本来川の様に、ある一定の場所を流れなければならないエネルギーだが、人間やデルマスフがこの流れを乱したせいで、地流エネルギーは、川でいう氾濫≠起こしてしまった。そして、火山が噴火し、大陸は割れ、海に沈むものも少なくはなかった」
 もうこの世界は人が住める環境ではなくなった。
 だから設立されたのだ。当時無数に浮遊させ、空に点在した影はやがてすべて繋がり、陸地となったその場所。
 今日まで本来の地上から離れて、新たに真の大陸と名乗る地上大陸が、地上世界ツァルロス・アーク。
「――だが、この先は君達にもまだ話していなかったね。それこそ、我々がこの天空大陸ラフェウスを創った理由だ」
 地上世界が、地下世界と呼ばれるようになったかつての世界、エファピアより上の大高位であるならば。
 天空大陸はさらにその上の大高位。最上位に位置する、全てを見渡す大陸であると、イクシスは教えられてきた。
「元々ラフェウスは、ツァルロス・アークの一部だった」
 ざわめきが人々に押し寄せた。イクシスもぼんやりと、頭に入ってくるようで来ない内容に、神官を見上げるばかりだ。
「何故我々の大陸は蒼穹(そら)へ運ばれたのか。最大の理由は、ツァルロス・アークへ渡った種族達が、エファピアの大地に残る同じ種族達を弾圧したからだよ。彼らに対等意識はなかった。特権階級に恵まれ、共に手を取り合って新たな地上世界にて暮らしあうはずの人々は、力も持たない、紋陣の知識も与えられなかった者達を地下世界に閉じ込め、エネルギーの搾取を続けた」
 地上世界の大地を支えているのもまた紋陣だ。地下世界から無作為に紋力を絞り上げてしまえば、大地は崩落する。
「だから我々は新たにこの天空大陸を設営し、地上世界の人々から紋陣の歴史を奪い去った。地上世界の人々が古代の技術と呼び、紋陣の知恵がないのはこのためだよ。我々が神を必要としない宗教を打ち立てたのも、たった一個人の意≠ノ世界がゆだねられるなど、先祖は赦せなかった。代表はあくまで代表であり、我々神官、ひいてはラフェウスに住むフェウス達の意向なくして、目下の世界を治めることなどないように、神という指針を撤廃し――」
 協会の鐘が、大きく音を立てた。
 男性はああと、天井を見上げて、一同を見下ろすと微笑みかけた。
「残念だ。今回はこれで終いのようだね。いずれにしても、我々神官が翼の教え≠守り続けることに代わりはない。清聴感謝するよ。みな各々の仕事に戻ってくれたまえ――ああ」
 ぼんやりと教壇を見ていたイクシスを立たせようとしたクライフを、男性は柔和な顔で声をかけていた。
「二人は残るように。忙しいだろうが、少々時間をいただこう」
 クライフが、微かに呻いていた。
 三々五々に散った教会の聖堂は静かなもので、あまり大きくない造りであるからか、人の気配が去ると室内の温度が冷えてきた。
 男性は教壇から降り、イクシスとクライフの前に立つ。
「申し遅れた。私はレグルダ・アヴァダン。先ほどは驚かせてすまないな。君達に残ってもらった理由だが――ああ、兄者は察しているようだ。よければ二人の名前も教えてもらえないかな」
 険しい表情の兄が、苦い顔でそっぽを向いた。
「クライフ。こっちはイクシス」
「あ、お、お見知りおきください……」
「クライフとイクシス――なるほど。ではイクシス。あなたを翼の天使教団(エル・デ・エデン)≠ノ召喚いたそう」
「ダメだ!!」
 耳を疑うイクシスの隣で、兄の腕に力が入っていた。レグルダは感情の読めない笑みで笑ったまま。
「もちろん、クライフ。君も共に来るといい。君は剣を鍛えているのだろう? ならば翼の天使教団≠フ衛兵部隊に所属し、妹君を守るといい」
「ふざけんな!! 父さんと母さんを消した教団になんか誰が――」
「消したって、どういうことなの?」
 はっと口を噤むクライフは、それっきり黙ってしまった。
 レグルダは初めて、困ったように表情を崩している。
「これは困ったな。そう思われていたとは。残念だが、我々はティリス夫妻を消したわけではない。――本当に消したのは地上世界の連中だ。抜き打ち≠ニ称し、ティリス夫妻の置き土産である、君達を探し出したのは謝罪しよう。だが、我々も今君達の力が必要だ」
 兄を見やっていたイクシスは、やがてレグルダを見上げ、立ち上がった。
「私、お引き受けしたいです」
「イクシス!? 何言ってるんだ、信じるってのか!?」
「だって私も兄様も、お父様とお母様が亡くなった真実をこの目で見てないわ!」
 クライフが目を見開き、悔しげに視線を逃がした。
 イクシスは胸の前で両手を組み、レグルダを見上げる。
「邪念を持ったまま、翼の天使≠ヨ所属したいと願い出たこと、お許しください」
「構わないよ。我々の中にも、同じように真実を求める者は多くいるのだから。我々もこの世界の真理を求める探求者には違いない」
 話は明日、馬車の中でしよう。
 そう告げて、レグルダは緩やかに法衣を揺らして去っていった。


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