ツァルロス・アーク
第1話「箱庭を出た少年」 

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 穏久の大陸、アンネル。
 この世界、ツァルロス・アークに魔法の奇跡をもたらす陣、紋陣が知られてから、ついに五十年が過ぎてなお。この大陸は久しく穏やかだというその名の通り、気候は安定して穏やかだ。
 暖かい大地。大陸中央に険しい山脈はあれど、人が住む街の周辺では農業も積極的に行われ、極端な自然開発を行うこともない。古代文明、アタラクシア文明の遺産、紋陣が世界に知られてから、この大陸に眠っていた幾つもの紋陣も当然蘇った。
 文明は、この大陸にさらに安定をもたらした。灌漑水路の復活、上下水路の整備が、紋陣を復活させた途端に現れたのだ。
 五十年のうちに富んだ永久中立国、アンネルは、それまでこの大陸の住人を虐げてきた侵略国家をあっという間に遠ざるに至る。その一都市アーベンの紋陣研究所で欠伸をする学生を、穏やかに笑う人が多いのも、きっとその平和さゆえだろう。
 欠伸を惜しげもなく披露して、ぼんやりと空を見上げたクロキス・ディダンは、癖がなさすぎる黒髪を小さく掻き乱した。どうせすぐに戻ってしまうほど、この髪は特徴がなさすぎるのは知っていても。
 研究所のカフェの店員が、呆れ顔で近づいてきた。
「お客さん、そろそろお暇しちゃくれないかい」
「……あの、僕まだ何も頼んでません」
「研修生ならそろそろ授業だろう。こっちはもう閉店時間だよ」
 足を運んだ時間が悪すぎたようだった。メニューを名残惜しく見やり、結局今日も昼食を満たせなかったクロキスは、整えられた芝生を歩きつつ溜息をつく。
 授業は単調、面白くない。面白い授業は五年先で何をやれと。
 どうせなら実践的な内容がいい。けれど紋陣はその仕組みがまったく解明されていないから、過去のものを修復し、力を復活させて使うしか、今は方法がないのだ。
 おおよその基礎は教えてもらった。クロキスは既にいくつか、簡単な紋陣程度なら修復できる。なのに。
「これじゃあ、箱庭だろ……」
 学んで、学んで。その後何をするのだろう。
 毎日空を見上げても出ない答えに、クロキスはしばし考えて――。
 寮に戻った。寮母から授業はと怒られた。
 ちょっぴり決意が折れそうになった。


 夜、寮の外壁に縄をかけ、必死に登る。時代錯誤な敷地の乗り越え方をする人影が自分になるとは、クロキスは数年前であれば夢にも思わなかっただろう。十六になってやるやり方でもないとは思うけれど、なるほど、古典的だが何よりも確実で、準備をしても特段怪しまれないことは間違いない。
 寮の二階程度しかない壁を楽々乗り越え、田舎育ちかつ木登り経験が豊富なクロキスは、自分のこれまでの粗相に感謝した。地面までの距離をざっと見降ろし、下の土が柔らかいことも確かめる。あらかじめ街路樹にかけておいた縄の結び目を、研究所よりも外側に向け、するすると下った。
 縄は、一度引っ張り方を変えると、簡単にほどけて落ちてくる。
 地面にしっかりと立ち、忘れたものがないかも確認して。クロキスは足元の土を簡単に蹴散らかし、足跡をごまかした。顔がにやけてたまらない。
「へへっ」
 ばれないということが、これほど楽しいとは。
 意気揚々と夜の街の明かりを見おろし、丘の上からの夜景を存分に楽しんで。
 クロキスは街の外へと走り出した。村を出てこの街にきた当時よりも体が大きくなって、さすがに昔の服を着ることは出来なくなっていた。けれど買い物なら済ませてある。
 真新しい黒のズボンとシャツ、ジャケットは裏地にポケットを幾つも自分でつけて、メモ帳のオンパレードだ。それでいて外からはシャープに見えるよう、生地をすこし絞ってもらっているから、予算がかさんだ分、これからの旅路にうってつけだと感じる。
 街の外まで走ること、一時間。さすがに疲れ、街道より続く大通りの活気に紛れ込んだクロキスは、ここから先は歩くことに決めた。
 研究所は寝静まるか、研究に没頭する熱心な人間がいるかの二択だが、アーベンの下町はむしろ活気がある。ほろ酔いして笑う農夫達や、取れたての小麦でパンを焼くにおいが立ち込め、クロキスは心がほころんだ。
 ついでにこれからの食料を一切考えていないことに今さら気づき、顔が苦くなる。
 クロキス達研究所の人間は、一定の学問と経験を詰めば修復士(レスター)としての資格が与えられる。けれど与えられたからと言って、国家修復士にでもならない限り、食も賃金も保障されたものではない。
 そんな国家修復士になれなかった数多くの人々が、自身で研究所を構え、新たな助手を募ったり、冒険者に混ざって紋陣を捜し歩いたりしているのだ。
 クロキスも、自分がその例に漏れる事のない人間であることは、とうに気づいていた。自分が勉学を積むよりも、護衛の任務、剣の稽古に付き合え、弓の打ち方を教えろ――もう研修生など名ばかりな生活にこりごりしていた。
 クロキスはリュックサックからパンを一欠片摘むと、口に放り込んで町の入り口が閉門されている事実にショックを受けた。
 よくよく考えれば何のための外壁と門だ。紋陣に影響を受けて巨体に育ち上がった動物達から身を守るためではないか。
 どうして町から出られない可能性を考えなかった──!
 何か方法はないか。せめて今日中に町を出ないと、朝一番に起きて、商人達と共にこの関所代わりの門をくぐり抜けるなんて無理だ。田舎にいた時だって寝坊して、狩りの時間には誰も家にいなかったなんてしょっちゅうだ。何か方法は――
「あれ?」
 よくよく見れば、兵が出入りする小さな門は開いている。詰め所の目の前を通ることになるので気が進まないも、その詰め所の明かりが見えない。
 出払っているのだろうか。こんな何もない日に? 都合良く?
 遠くから笑い声が聞こえ、はっとしたクロキスは慌てて物陰に隠れた。暗がりの中、小さな文様を煉瓦の中に見いだした彼は目を丸くする。
「街の外に近いのに、紋陣(エリアス)……?」
 どうにも見たことのない紋陣だ。魔法的な効果を、その模様の幾何学パターンに応じてさまざまに発動させる紋陣は、元々は古代の産物だ。発掘途中で、国同士が自身が知る紋陣の効果をあまり国外に知らせないことは多いし、それは研究者同士でも同じこと。紋陣を発見した際の莫大な報奨金で暮らす紋陣研究者は数知れない。
 研究所でこんな紋陣見たことがない。ということは――
 光が、ふっとクロキスの背中に当てられた。
「誰かそこにいるのか?」
「やべっ」
 急いで振り返り、クロキスは目に入った光に呻く。近づいてくる足音に焦りを滲ませながら、後ろから感じる熱に目を見開き、また煉瓦を睨む。
 紋陣の一部が光に当たっている。熱い鉄を壁に押しつけているように、赤い光が鈍く輝いている。
「まったく、夜遊びもほどほどにするんだな。こんな街の出口で――」
「光を消して!!」
 警官への懇願は、彼に届かなかった。
 走ってライトに飛びつこうとする少年が煉瓦から離れた数秒後。警官の持つハンドライトが煉瓦を一様に照らした。
 爆発。
 凄まじい衝撃は、容赦なくクロキスの頭に煉瓦を殴りつけていた。警官も吹っ飛ばされ、煉瓦の山のどこかでうめき声が聞こえてくる。
 あちこちで飛び起きる音、駆けつけてくる音が響き、クロキスは頭を押さえながら呻いた。土煙がもうもうと立ち、警官の姿を探そうにも探せない。
 爆発の紋陣……しかも光が当たったら発動する仕組み?
 あんな危険なものをしかけるだなんて……!
「……誰が……」
 まさかテロリストか? だとしたらこれだけで済むはずがない。こんな暗い街中であんなものがそこかしこで爆発したら――
 クロキスはおぼろげな意識を必死に保って顔を上げ、呻いた。
「おい、こっちじゃないか!? 煉瓦が転がってるぞ!」
「ダメだ、来るな……!」
 夜中の爆発。強い光を持つハンドライトに反応。
 これは搖動だ。突然の爆発に驚いた人々がハンドライトを手に、こんな暗い街中で煉瓦を照らしたら最悪なことになる。
 そうでなくとも、紋陣を朝日が昇る前に見つけなければ、太陽の光をさえぎるものがないと惨事は免れない。
 こんなこと――こんなことをやる連中なんて……!
 ドンッ
 地面から伝わる衝撃と悲鳴に、クロキスは目を見開いた。歯を食いしばり、身を捩るも意識がもうろうとする。
 遅かった……!
 ゆっくりと歩いてくる音が、詰所から聞こえてくる。
 寝ぼけた警官だろうか。だんだんと早足になる音に、クロキスは必死に音を聞き取ろうと耳を澄ませる。
 助けを呼ばなければ。一緒に爆発に巻き込まれた警官も危ない。事情を伝えて早く紋陣を探さないと。
「たすけ……」
「だっ、誰か助けてくれええええええ!! 壁がっ、壁が崩れた、魔物が入ってくるぞおおおおおおおっ!」
 大きなドラ声が絶叫を上げていた。あちこちで鎧の走る音が響き、そこかしこのスラムや家から人が悲鳴を上げて出てきたではないか。
 煙が晴れて、クロキスは目を見開いた。
 必死に王城へと、中心街へと目指す人々の波が駆け抜けていく。細いスラムの路地からこの中央街道へと押し寄せてくる。
 そんな中、詰所からやってきた二人分の人影が、悠々と混ざって消えていく。
 あいつら――!
「だ、誰か……! あいつらを、止めて……!」
 声が掠れていく。兵隊達が駆けつけてくる。
 またあちこちで爆発が起き、悲鳴と混乱が王都の外周部を襲っている。
 店の入り口に掲げられたランタンが震動で落ち、割れた。
 灯りが見えなくなる。同時に人影が幾つも、スラムや店から出てきて、金目のものを持って走っていく音がする。
 冷えていく街の入口を睨んで、クロキスは愕然とした。
 魔物なんて、どこにもいない。
 それどころか入口まで爆発のせいで、門を支える煉瓦が崩れて倒壊寸前だ。
 意識がもうろうとする。本当に外門を乗り越えて魔物が来たら、すぐに食われてしまう。
 それだけは嫌だ。まだ野望のやの字どころか明日の朝食すら拝んでいない。
 虚ろな眼差しに意志をみなぎらせて、クロキスは瓦礫が散乱する道を見回して――歯を食いしばった。
 警官は、鋭利な傷跡から血を流して絶命していた。自分は爆発の後動けなかったし、身をあまり捩っていなかった。きっとそのせいで見逃されたのだろう。
「けど……」
 こんなのって





 あんまりだ……


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