「おーい! ミリア、どこだぁー?」
様々な会話が飛び交う人の群れのなかで、蒼い髪を揺らして叫ぶ青年が一人。人波にもまれながら必死の形相で周りを見渡し探し人の名を呼ぶも、喧騒にすべてかき消されてしまっている。ヨハン=アンデルセンはその整った顔をゆがめて、もう何度目か分からないため息をついた。その脳内では自責の念と、寒空の下一人にしてしまった恋人に対する心配、申し訳なさ、人の多さに対する小さな苛立ちがぐちゃぐちゃに混ざり合って濁った感情を産み出している。
(こんな日に何をやってるんだよ俺は……! ミリアのやつ大丈夫かな、この寒い中一人で……日本人からしたら目立つ容姿だろうし、もし、もし万が一変な野郎に声かけられてでもしてたら……)
落ち着いて考えれば考えるほど思考は負の方向へ向かっていく。とりあえずこの人ごみから抜け出そうと、ヨハンは人々の隙間をかいくぐり、なんとか人の少ない空間へ出ることに成功した。見たところ、どうやら細い木が一本あるせいで、屋台と屋台の隙間が詰められていないために出来たスペースらしい。大きく息を吸い、新鮮な酸素をたっぷりと肺に取り込む。冬の空気は張りつめるように冷たいが、ヨハン達の故郷に比べれば日本の寒さなど比ではないし、何より不純物が何も混ざっていないようなすっきりとした清涼感がヨハンは好きだった。
まさに今自分が脱出してきた人ごみをもう一度念入りに見回すと、ヨハンは白い息を吐きながら、コートのポケットからケータイを取り出しアンテナを確認する。案の定圏外だったのを見て、ヨハンのしっかりとした肩がかくんと落ちた。普段であれば家族たちに助けを求める段階なのだが、今日だけは二人水入らずということで、ヨハン、ミリア双方のデッキに宿る精霊達はすでにカードの中で深く眠ってしまっている。つまり八方ふさがりな状況である。
もう一度、もしかしたらという希望を込めてヨハンは再び人ごみに目をやる。しかし現実はそう甘くない。正月には似つかわしくない深いため息を隠すように、除夜の鐘が鳴り響いた。と同時に、これについて調べ、一緒に聴こう、とはしゃいでいた恋人の姿がヨハンの脳裏をよぎる。
(ミリア……ごめん、俺……約束したのにな……)
行き場のない感情を押し殺すように唇を噛みしめる。自然と俯いていたその顔を上げさせたのは、祭りの場には似合わぬ、咎めるような口調だった。
「ちょっと待ちなさい! 貴方たち……これ、どうする気?」
ふと見ると、すぐ隣の屋台の前で、ヨハンと同年代らしき女性が眉を吊り上げて何かを言っていた。その先には小さな子供が数人。小学校低学年程度だろうか、女性に肩をつかまれた一人の少年は、突然見知らぬ大人に咎められた恐怖でかすかに震えている。祭りの場で諍いは褒められたことではない。何よりこの祭りはこれから来る新年を祝うための厳かな祭りなのだ。女性と子供だから可能性は低いが、もし雲行きが怪しくなれば仲裁すべく、ヨハンは注意深く様子を見守る。
「あの……僕、何か……」
「これよこれ。知らないとは言わせないから」
女性が何かを少年の眼前に突きつける。ヨハンは目を凝らし、それが何であるかを確認する。そして思わず凝視してしまった。何故ならそれは、ヨハンにとってはあまりに身近すぎるものだったからだ。
「あ、それ……僕が当てた……」
「そう。デュエルモンスターズのカード。貴方が捨てた、ね」
(捨てた?)
未だ眉間にしわをよせている女性が不機嫌そうに鼻をならす。どうやら道徳的に正しいのはこの女性のようである。
「どうして簡単に、それも地面に捨てたのか、理由を話してもらえるかな?」
「あ……だってそれ、もう持ってるし、弱いし」
「だから何? いい、この世に無駄なカードなんて一枚もないんだよ。捨てるくらいなら誰かに譲るとかお店に返すとか、色々あるでしょう」
静かな口調で諭され、少年らが気まずそうに互いに顔を見合わせる。そして頷きあうと、全員が勢いよく頭を下げた。
「ごめんなさい!」
頭を上げず、逃げようともしない少年らを見つめると、女性はふっと口元を緩めた。浮かべていた嫌悪の表情を消し去り、やわらかく微笑む。
「分かってくれたのならいいの。はい、大事にしてね」
先ほどとは打って変わった穏やかな声音に、肩をつかまれていた少年がそろそろと顔を上げる。女性がその手を離し、突きつけていたカードを奪うように受け取ると、少年らは慌てて人ごみの中へ散って行った。残された女性が小さく息をつき、疲れた様子で空いているスペース、つまりヨハンがいる木の近くへと向かった。そこですべてを見ていたヨハンと、その女性の視線がかちあうのは当然だった。女性が困ったように笑う。
「あれ、見られちゃいましたか」
「あ、すみません。ですが素晴らしかったです」
ヨハンが心の底から言う。デュエルモンスターズの精霊が視認でき、それを家族ともしているヨハンにとっては、彼女の行動は賞賛に値するものだった。対して女性は恥ずかしそうに頬を朱に染め、頭をかきながら苦笑いする。
「いや……大人気なかったですよね、さすがに。昔からつい、カードがひどく扱われるのを見ると頭に血が上っちゃって」
「いえ、そんなことはないですよ。悪いことを悪いって教えることは正しいです。それに、俺もカードが捨てられたりとか許せないタチなんで、すっきりしました」
「貴方も?」
冗談めかして言うと、女性は瞳を輝かせた。近くで見ると彼女の双眸は美しいアクアマリンのような色をたたえている。つい見とれた瞬間、女性がずいっと距離を詰めてきた。予測していなかった動きに後ずさるヨハンの顔を、女性はじっと見つめている。
「あの、なにか……」
「貴方の顔、どこかで……ああ! 分かったっ貴方もしかして、あの」
瞬間、ヨハンは言いかけた女性の口をすばやく塞ぎ、もう片方の手で腕を勢いよく引き寄せる。いきなり見知らぬ男性に密着されているという異常な状況が理解できていないらしい女性の耳元にささやいた。
「静かに……」
「え、え?」
だんだんと顔を赤くしていく女性の口から手を離す。これならばしばらくはまともな判断は出来ないだろう。
「プロデュエリストのヨハン=アンデルセンではないですよ。よく間違われるんですが……デマでも人が集まってパニックになってしまってはいけませんし、黙ってください」
「ふぁ、ふぁい……」
(ふう……悪いことしちまったかな、顔真っ赤だ……でもここで騒がれるわけにはいかないし、仕方な……)
「おい、何をしている」
安堵した瞬間、咎めるような声がかけられる。かけられた言葉よりも、その低く色気すら含む声質に聞き覚えを覚えたヨハンが驚き、声のほうを向くと。予想通りの人物が呆れ顔で立っていた。そして、その傍らには予想外の人物。
「エド! それに……ミリアっ?」
「エドくん!」
ヨハンに遅れて女性が声を上げる。女性のほうは、ヨハンがエドと既知の仲であったことに驚いた様子を見せたが、ヨハンの目はただ一人の女性、エドの傍らに立っていた女性にしか向いていなかった。はぐれてしまった恋人、ミリア。手ばなしで再会を喜んでくれるかと思った彼女は、どこか魂の抜けた目でヨハンを見つめている。
「ミリア?」
「それ……どういうこと?」
「へ?」
ミリアが無表情のまま指差した先にあったのは、蒼い髪の女性の姿。そして、その腕を引いて抱きとめているヨハン。ヨハンの顔がさっと青ざめた。慌てて女性から手を離し、ミリアの手を取ろうとする。片方がエドのコートの袖をしっかり掴んでいることに小さな嫉妬を覚えるが、ヨハンのしたことの前では言えたことじゃない。
「ち、違う! 誤解だって!」
「ヨハンのばかっ!」
ぱん、と乾いた音を立ててヨハンの手がミリアの小さな手にはねのけられる。拒絶に呆然とするヨハンを見もせず、ミリアは踵を返し人ごみの中へ入っていく。ただ見送ってしまったヨハンの背を、エドがはたくように押した。
「呆けてる場合か。さっさと追いかけろ」
「あっ、ああ! サンキュー、エド!」
はじかれたようにミリアを追いかけていくヨハンを見送ると、エドは状況がさっぱり飲み込ず瞬きを繰り返している女性を軽く小突いた。
「こら、帰ってこい」
「はっ! え、エドくん?」
「まったく……やっと見つけたと思ったらいったい何をしてるんだ、香鈴」
香鈴、と呼ばれた女性は、照れ笑いを浮かべて頭をかいた。
「あはは〜……抱きしめられちゃった?」
「笑いごとか、阿呆」
エドの長い指が、蒼い髪の向こうに隠れていた白い額をぴんとはじく。香鈴は顔をゆがめて額をさすり、むっと口をとがらせた。
「エドくん酷い! パートナーが見知らぬ男性に落とされそうになってたっていうのに!」
言葉とは裏腹に楽しそうに話し出す香鈴に、エドは、人前ではけして見せないような、優しい微笑みを浮かべた。
「あいつはお前に手なんか出さないさ。相変わらずお互いしか見えてない、鬱陶しいくらいの純粋バカップルだからな」
しみじみと言ったエドに、香鈴はただ不思議そうに首をかしげた。