夕暮れ時。
しんと静まり返る図書室で、万丈目は課題と参考書を広げ苛立ち混じりに呟いた。
「くそ……! 何故解けんのだ!」
くしゃりと自分の髪を鷲掴み、ノートにペンを走らせる。だが、一向に問題は解けない。
数学の課題だ。出されたばかりだが、エリートたるもの課題は溜め込まない! と、万丈目は早速取りかかっていた。
「何が解けないの?」
そんなとき、図書室に声が響く。
声の主は万丈目が使っているテーブルの前までゆっくり歩み寄った。
「露樹さん」
「勉強? 頑張ってるね」
露樹はそう言って、手に持っていた本をテーブルに置くと万丈目の向かいの席に腰を下ろした。
万丈目は何となく露樹が持っていた本の表紙を見る。
“闘えカイバーマン!”というタイトルの子供向け漫画だ。てっきり小難しい本でも読んでいると思っていた万丈目は、その意外性に目を丸くした。
「で、何が解けないの? 良かったら手伝ってあげよっか」
「いや、……」
必要ない、と言おうとした口をつぐむ。
散々時間を掛けても解けないのだ。ここはプライドよりも問題を解くことを優先しよう。
「ここなんだが……」
「どれどれ」
軽く身を乗り出し、露樹が問題集とノートを見る。
少し考えてから、とん、と指を問題集に乗せた。
「その問題、こっちの前の問と同じ解き方じゃないかな。見たところ、使う方程式が違う気がする」
「そ、そうか……?」
とりあえず、言われた通りに問題を解いてみる。
すると先程までの難しさが嘘のように問題は解けてしまった。
「と、解けただと……!」
「流石万丈目くん」
やったね! と、露樹は笑う。
と、当然だ! と返しつつ、万丈目はほっと息をついた。漸く次の問題に移れる。
「それにしても」
万丈目が再び問題集に向き合い始めたとき、露樹は自分が持っていた漫画を捲りながら口を開いた。
万丈目はちらりと露樹を見る。
長いまつ毛に縁取られた大きな瞳やスッとした鼻筋、整った顔立ち。なるほど、確かに美人だと万丈目は思う。
露樹は漫画から顔を上げ、万丈目を見て笑った。
「万丈目くんって結構頑張り屋なんだね」
「……は?」
突然の褒め言葉に万丈目がぽかんと口を開けた。
露樹はへらっと笑みを浮かべたまま続ける。
「課題。ちゃんとやるなんて偉いね?」
「そ、そりゃやるだろ普通」
「でも出された日にやるなんて、やっぱり偉いよ」
すごいや、と露樹は言う。純粋に感心している様子だ。
何となく照れくさくて露樹が持つ漫画に視線をずらす。カイバーマンが真ん中に描かれた赤い表紙。その赤を見たとき、脳裏に浮かぶ人物。万丈目は俯いた。
「……こんな課題出来ても」
「え?」
「こんな課題出来ても、デュエルが強くなくてはこの学園では意味がない!」
露樹の目が丸くなる。
万丈目は語気を荒げたことにバツが悪そうにしながらも続けた。
「……例えばあいつなら、十代なら。こんな課題やらずとも学園のトップに立てるんだ。けれど俺は……俺は」
「万丈目くん……」
「俺は俺なりに努力してきた。どん底だって見た。けど、トップに立つのは結局あいつなんだ。課題一つ出来ない、ヘラヘラ笑ってばかりのあいつが」
静かな声だった。
露樹は何も言わず万丈目の言葉に耳を傾ける。
万丈目はハッとしたように「何を言っているんだ俺は」と呟いた。
「すまない、聞かなかったことに……っていない!?」
顔を上げると、目の前に座っていたはずの露樹が消えていた。
辺りをキョロキョロと見渡しても露樹の姿はない。あるのはカイバーマンの漫画だけだ。
「瞬間移動……」
呆然と呟く。その時、ドドドド……とけたたましい足音が。
そしてピシャアっと図書室のドアが開き、肩を弾ませた露樹が現れた。
ほんの数分間の出来事に万丈目が目を見開く中、露樹はずんずん万丈目に歩み寄る。
そしてずいっと何かを差し出した。
「差し入れ! 課題お疲れさま」
「ど、どうも……?」
思わず受け取ったそれはドローパンだった。
万丈目がドローパンを受け取ったのを確認すると、露樹は先ほどと同じ椅子に腰掛け自分の分のドローパンを取り出す。
「ま、なんていうかさ」
「?」
バリッと袋を豪快に破り、パンに齧り付きながら露樹は言う。
「よくある台詞だけど、やっぱり万丈目くんは万丈目くん、十代くんは十代くんよ」
あ、甘栗パン。もごもごと咀嚼して、飲み込み更に言った。
「君達は活躍する舞台が違うんじゃない? だから同じ舞台に立ってもどちらかしか目立てない。大丈夫、万丈目くんが一番輝く舞台に立つ日が必ず来るよ。今はまだその時じゃないんだよ」
「俺が……一番輝く舞台……」
「そ。それぞれ違う才能持ってるんだから。今は同じ教室の中だから十代くんが気になるのかもしれないけど、もう少ししたら気持ちの整理がつくはずよ。そうしたら、今の悩みだって笑い飛ばせるようにきっとなる」
「…………」
目を見開く万丈目に、露樹はにっこり笑いかけた。
「それに、課題をきちんとやる人とそうでない人、その差はすぐに出るって」
「え」
「十代くん、泣くハメになりそうね。今回の課題結構難しいから」
クシャッと空になったパンの包みを握り潰し、にっと笑う露樹。
それからふと、優しく微笑んで言った。
「だから頑張れ、万丈目サンダー」
窓から差し込む夕日の中で微笑む露樹に、万丈目の頬が熱くなった。同時に大きな音を立てた胸の辺りを、万丈目は服の上からぎゅっと押さえる。
「それじゃあね」
そんな万丈目にひらりと手を振り、露樹は背を向けた。そのまま制服を揺らし図書室を出ていってしまった。
「…………」
呆然と露樹の後ろ姿を見送って、万丈目は未だに手付かずだったドローパンの包みをそっと開く。そして一口かじった。
「! ……卵パンだ」
当たりパンとして人気の卵パン。いつも十代に独占される卵パンだが、運良く万丈目の元に舞い込んだようだ。
「……案外遠くないのかもな」
自分が一番輝く舞台。それが訪れる未来は。
万丈目は、ふ、と口許を緩ませると大きく伸びをする。
深呼吸をして、幸運の卵パン片手に再び課題と向き合うのだった。