「う、うそお……」
私、紺野露樹は呆然と呟いた。
目の前には無残に敗れた教科書と磨き上げられた床、見上げればいつもよりも高い天井。
ただっ広い廊下に、私は座り込んでいた。
* * *
先日入学式を終え、授業が始まった。この学園の授業は移動教室が多い。
この学園は複雑な構造をしているようで、私は未だに把握していなかった。
そして今日……。
私たち1年生は科学の授業を控えており、理科室に向かうところだった。
理科室がどこにあるのか、よく覚えていなかった私はクラスメートたちの姿を追うつもりでいたのだが、急にトイレに行きたくなったため、生徒たちから離れてひとりトイレに向かった。
女子トイレの中で、私は鏡に向かい合い、自分の姿を見つめる。
他の女子たちとは少し形が違う、特別な制服。下ろしたての制服は体に馴染まない。
跳ねた髪を濡れた手で撫で付けながら硬い襟を触ってみれば、クラスメートたちの視線が脳裏をよぎる。
“飛び級だってさ”
“特待生か、羨ましいね”
“一つ下か。何で来年まで待たなかったんだろう?”
好奇の眼差しと言葉は心地の良いものではない。
そんなクラスメートたちが好きになれなくて、私はいつもひとりだった。
教室の中でも、外でも。
理科室に共に向かう友達もいない。だから、女子トイレを出てもひとりだ。
別に、友達がいなくても平気だ。気楽だし。
そりゃあちょっと退屈だけど、今すぐ必要ってわけではない。
中学でも、飛び級が決まった時は似たような感じだったし。
水道の蛇口をひねり、冷たい水を手ですくう。その水で顔を洗った。
前髪の先から滴り落ちる水滴をハンカチで拭って、頬を軽く叩く。
「よし、いくか!」
ハンカチをしまって、鏡に映る自分の顔をもう一度見つめながら言った。
笑顔になりきらない変な顔。でも、クラスメートたちの前では、しっかりしなくては。
皆が私を見てるんだから。
女子トイレを出れば、廊下はしんと静まっていた。
どうやら授業はとうに始まっているらしい。
端末を取り出して時間を確認すれば、授業開始時刻を5分ほど過ぎていた。
まずい、遅刻だ。
「やばい、点呼始まってる!」
教科書をしっかりと抱え直し、走り出した。
理科室がどこにあるかはわからない。だが、とにかく走らなくてはならない気がした。
がさがさと音を立てて、教科書が揺れる。他に誰もいない廊下を駆け抜け、角を曲がった。
そのとき腕の隙間から一冊の教科書がこぼれ落ち、眼前へ転がっていく。
そして、転がっていく先を見て、私は全身から血の気が引くのを感じた。
「ひ……」
そこは下り階段だった。
教科書を拾おうとして前かがみになっていた体は、そのまま傾いた。
「わ、わああああああ」
ごろごろごろ!
……べしゃっ
見事に階段を転がりきった私の体は、そのまま床に打ち付けられた。
痛い、物凄く痛い。
なんとか起き上がり、頭を摩った。幸い、どこかを切ったりはしなかったみたいだ。
跳ねに跳ねまくった髪を撫で付け、立ち上がろうとしたとき、右足首にズキリと痛みが走った。
「い……ったあ……」
思わず漏らした声。右足を見れば、ブーツのヒールが綺麗に折れてた。靴底ごと剥がれている。
絶句した。買ったばかりの靴が一瞬でお陀仏……!
新しく買い直すとしたらいくら掛かるだろうか……。そっとブーツを脱いで足首を確認すれば、こちらも僅かに腫れていた。
う……! と涙が出そうになるのをこらえ、すぐそばに散らばる教科書を見る。
階段やすぐ近くに散らばった教科書たちの中に、一冊だけ激しく損傷する教科書を見つけた。階段から転げ落ちる直前に落とした一冊だった。
転落に巻き込んだらしく、表紙は折れ曲がり、中のページは破れ、それはそれはひどい有様だった。
「そ、そんな……」
涙声でつぶやき、破れた教科書を手繰り寄せたとき、ふと思い出す。
すぐさま制服のポケットから端末を取り出し、ボタンを押した。
「よかった、生きてた」
運良く壊れなかった端末で、科学の担当教師に連絡を入れようとする。
操作しながら何となく画面の端を見て、力が抜けた。
「ああ……そっか」
画面の端には、今日の日付が表示されていた。
『9/10』
9月10日、今日は私の誕生日だった。
「う、うそお……」
私、紺野露樹は呆然とつぶやき、今度こそ泣いた。
* * *
座り込んだ廊下で、端末を見つめる。
今からでも授業には間に合うだろうけど、気が進まない。
こんなボロボロの格好で教室の扉を開ければ笑いものだ、絶対に。
ただでさえ好奇の目を向けられることが多いというのに、そんなことになったら……。
しかしこのままサボったら、それこそ“特待生”の名に傷が付く。舐められなくはない。
「どうしよう……」
「何してるんだ?」
膝を抱えて、うなだれた時だった。
頭上から声が聞こえた。見上げれば、私を見下ろす男の姿。
若草色の長い髪に、白い制服。藤色の瞳が私を見ていた。
「え……えっと」
「靴なんて脱いで、どうしたんだよ」
その人は私の前にしゃがみこんで、視線を合わせてくる。
白い制服の長い裾が床に垂れたが、気にする様子もなく私の目を覗き込んだ。
「や、その……転んじゃって、教科書も破れちゃって、授業も間に合わなく……て……」
あまり説明になっていないが、その人はちゃんと聞いてくれた。
ふーん、と頷いて、私に手を差し出す。
差し出された手と彼を交互に見る私に「ホラ」と言うと、床についていた私の手を取った。
「俺は藤原優介。紺野露樹だろ? 同じクラスだったと思うけど」
「そ、そうなの? 知らなかった……」
藤原と名乗った彼は、私の手を掴んで引っ張り上げた。
ぐいっと引っ張られてバランスを崩しそうになったが、なんとか左足で踏ん張る。
右足を庇う私に気が付いた藤原は、少し考える素振りを見せた。
「とにかく、理科室に行こう。実は俺も授業に遅れちゃってさ。一緒なら問題ないだろう?」
「いや、かなり問題あると思うんだけど……」
「そうか?」
「その制服、君も特待生でしょ? なんでこんなとこいるのかは知らないけど、私と一緒にいない方が……」
「藤原! こんなとこにいたんだ」
問題大アリだと主張するべく口を開いたとき、誰かが私たちに声を掛けた。
ゆったりとした、男の声。
振り返れば、そこには藤原と同じ白い制服を着た男がふたり立っていた。
声を掛けてきたであろう、茶髪の生徒はにこりと笑いながらこちらにやってくる。
「どう? 理科室見つかった?」
「吹雪」
藤原が言った。どうやら茶髪の生徒の名前らしい。
吹雪と呼ばれた生徒は私の存在に気がつくと、握手を求めてきた。
反射的に差し出された手を握れば、自己紹介をする。
「僕は天上院吹雪。君とは同じクラスのはずだよ」
「紺野露樹です……改めて、よろしくお願いします」
軽く頭を下げれば、苦笑いをされた。
それから、自分の後ろにいたもうひとりの生徒を紹介してくる。
吹雪が名前を呼べば、その生徒は静かに名乗った。
「丸藤亮だ」
「よ、よろしくお願いします」
綺麗な青い髪だと思った。
凛とした立ち姿に、自分と同年代なのか疑わしく感じた。
互の自己紹介を済ませたところで、吹雪が頬を軽く掻きながら言う。
「それで突然なんだけどさ……理科室ってどこ?」
* * *
亮の背中は見た目よりも広く、暖かかった。
事情をすべて説明し、4人で理科室に向かうことになった。
私は嫌だと言ったけど、どうやら聞き入れてはくれないらしい。
彼ら特待生たちと一緒に授業に遅れたとなると、他の生徒たちからどんな陰口を叩かれるかわかったものではない。
だがそんな主張も意味を成さず、結局行動を共にすることになってしまった。
私は足を怪我した上に靴が壊れているため、亮の背中を借りることになったのである。
亮たちは楽しげに談笑しながら廊下を進んでいく。
「それにしても、特待生が揃いも揃って理科室の場所がわからないって……」
「だってさあ、この学園複雑なんだよ! 色々と」
「……仕方あるまい」
そんな会話が聞こえた。なるべく体を離すようにして亮の背中に乗る。
細長い指が膝の裏に食い込むのを感じながら、今日の災難具合を思い返した。
ああ、今日はなんて嫌な日なんだ……。せっかくの誕生日だというのに、散々な目にあってばかりだ。
嫌だなあ、嫌だなあ。こんなはずじゃなかったのに。
考えれば考えるほど嫌な気持ちになっていく。亮たちの声も聞こえなくなりそうだ。
「そういえばさあ、露樹とは同じクラスなのに今まで喋ったことなかったよね」
「そういえばそうだな」
吹雪が言った。
私の名前が含まれていたことに反応し、沈みかけていた気持ちがなんとか浮上する。
藤原も気になるらしくこちらを見ていた。亮も、ちらりと振り返る。
3人に見つめられ、黙っていることもできなかった。
「その……皆が私のこと、好奇の目で見てくるのが嫌で……。あんまり皆と関わらないようにしていたの。だから、吹雪たちのことも、ちゃんと見てなかったっていうか」
嘘はついていない。本当のことだ。
ただ、何だか彼らの視線が怖かった。私はただ逃げていただけだから、それを指摘されそうで。
でも、彼らの言葉は予想していたものとはだいぶ違った。
「あー、確かに。皆君のことちょっと特別視してるところあるかもね。良い意味でも、悪い意味でも」
「俺たちもそうだし。この制服目立つからさ」
「ああ……。周りに無関心でいようとする点についてはあまり良いことではないが、気持ちはわかるよ」
思っていたよりも優しい言葉に、思わず目を丸くした。
そんな私の反応に吹雪が笑って頷く。私の気持ちを受け止めてくれるらしい。
「今まで……っていっても入学してからそんなに経ってないけど。結構さみしい思いしたんじゃない? 君も選ばれたんだ。僕達と同じ。同じものどうし、仲良くしようよ」
吹雪はそう言うと、綺麗に笑って私の手を握った。
暖かく大きな手だ。
その暖かさに、じわりと涙で視界が滲む。先ほどの涙が温度を変えてぶり返したようだ。
「何泣いてるんだよ! せっかく友達になってやるって言ってるのに……」
そう言って慌てるのは藤原だ。狼狽える藤原を亮がなだめた。そして言う。
「俺たちも“天才”などと呼ばれ、他の生徒たちから好奇の目で見られることがある。君も同じなら、わかるだろう? 俺達の気持ちが。俺達と君は、同じ気持ちを共有できる」
だから、仲間になろう。一緒になら、皆の顔が見れるだろう。
亮の言葉に、ついに涙が溢れ出た。
暖かい背中にそっと身を寄せて、頷いた。
「友達……できないと思ってた」
「うん」
「けど、結構簡単に出来るんだね。逃げてひとりで閉じこもってたから、すごく難しいものだと勘違いしてた」
「うん……」
「よかった」
そう言ってぎこちなく笑みを浮かべれば、吹雪がハンカチを差し出して笑った。
藤原も頷き、亮も私の脚を抱える手に力を込めた。
15回目の誕生日。
嫌なことだらけで終わるかと思ったけど、それだけじゃなかった。
今までもらったどんなプレゼントよりも素敵な、友達を手に入れた。
多分、もうクラスの皆から逃げる必要もないだろう。
私は彼らと同じ、この白い制服を堂々と見せつけてやればいいんだ。