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「・・・あ。」


やってしまった、と思った時にはもう遅い。ハッとして教室の掛け時計を見れば次の授業が始まるまであとたった10分を切っている。

わたしは小さなため息を吐いた。



おもちゃ箱のような教科書に



昨日の夜、今日の英語の授業の予習をしてから机の上に教科書を置きっ放しにして学校に来てしまったのだ。恐らく今日はどこかしらの問題が当たる日であるが、答えを一字一句覚えている程の知能もない。たったの一日、予習を忘れたからといって怒ることをするような心の狭い先生ではないことも重々承知であるが、折角やったのを忘れてしまったのはなんとも悲しいものである。

せめて誰か親切な人に教科書だけでも借りてこようと席を立ち上がったは良いものの、わたしに知り合いはそう多くもない。クラス外ともなれば、尚更だ。
本当に、顔が広いに越したことはないなぁとひしひし感じながら向かったのは、彼のところであった。


「(寝てる・・・)」


彼とお店で話している時、いつだったか彼のクラスの話も聞いたことがあった。1年4組に所属すると語っていた紫原くんの言葉に違わず彼の姿を発見することはできたものの、教室の1番後ろの1番窓際の席で彼は柔らかな太陽の光を受けながら、これ以上はなさそうな程気持ちの良さそうに眠っている。耳にするはずのない、すやすや、という効果音が聞こえた気がした。

こんな風な彼を起こしてしまってまで借りなければならないものであろうか、教科書とは。しかしふと時計を見やれば授業開始まではあと5分ほどしかない。結局彼は授業が始まれば起きることになるのだしと思い切って彼の体を揺すってはみるが、ううん、と唸るだけで中々目を覚ましてはくれなかった。
今度は少し強めに揺すってみれば、わたしの手を跳ね除けるかのように体を捩らせる。


「む、紫原くん・・・?」
「・・・んー・・・」
「も、もし良かったら、起きて欲しいんです。」
「んん・・・っ、んだよ、うるせ・・・」
「・・・ご、ごめんなさい・・・」
「・・・んー・・・っえ!?!?」
「!!、ど、どうしました?」
「え、っま、みょうじさ、えっ!?」
「えっ!は、はい、みょうじです。どうかしたんですか、紫原くん・・・!」
「や、っえー、っと。何でここに。」


わたしが寝ぼける彼に声を掛け続けていると、ふとある瞬間、体を大きく跳ねさせて飛び起きた。彼は起き抜けにわたしがいることに対して相当驚いていたようだったが、わたしもそれに負けないくらいには驚いている。
しばしあって少々落ち着きを取り戻した様子の紫原くんは、わたしがここに居る訳を聞いて来た。もともと同じ学校で、お隣のクラスだという事はお互いに知っていたのだから、そんなに驚くことないじゃないか。


「ええと、少し用があって。気持ち良さそうにお休みしているところ、本当にごめんなさい。」
「や、それはいーからまじで。」
「でも、相当起きたくない様子でしたし・・・」
「そ、れは・・・忘れて。みょうじさんだって分かってればすぐ起きたっつーの。」
「なんだか、ありがとうございます。」
「・・・で?結局何の用なの?」
「あ、そうでした・・・!大した用事で無くて申し訳ないんですけど、今英語の教科書を持っていたら次の時間だけ貸して欲しいんです。家に忘れてしまって。」
「あー・・・、そーゆーことね。ん、あるよ。貸す。」
「ありがとうございます・・・!」


そう言った彼は席から立ち上がり、自らのロッカーへと向かった。わたしはその後を着いて行ってロッカーを漁る紫原くんを見ていたが、やがて彼はわたしの手に幾つかの教科書を手渡す。
わたしが貸して欲しかったのは英語の教科書のみだったが、彼は律儀にも英語の文法書や単語帳、熟語帳まで渡してくれた。親切なものだ。その様子にわたしがぽかんとしていると紫原くんは顔を顰める。


「わりー、違った?この教科書じゃないかんじ?」
「い、いえ!違いません!これです!!」
「・・・ほんと?」
「本当です。ただ、紫原くんってとても親切なんだなぁと感じていただけで。」
「は、はぁ!?教科書貸したくらいで、なんだよ・・・」
「いえ、そうじゃないんです」


わたしの言葉に何やら顔に朱が差した彼は1人でぶつぶつ文句を言っていた。子どものように拗ねる彼に自然と笑顔になってしまう。

しかしもう間も無く授業が始まってしまうことに気付いたわたしは、それではありがたくお借りしますね。と言ってから自らの教室へ戻ろうと出口へと足を向けた。


「みょうじさん、」
「は、はい」
「えっと、教科書、落書きだらけだと思うけど気にしないで。」
「ふふ。わかりました。では、」
「あーーー!あと、」
「はい?」
「なんか、色々書き込んでも構わねーから。今日店にそれ持ってくから、そん時自分の教科書に写しなよ。」
「ええっ!そんな、それはいいです。悪いじゃないですか!」
「いーの、どうせ汚ねー教科書だから。」
「ええと、じゃあ、その、少しだけ。」
「あーーー。あと・・・」
「はい。」
「それ、次の休み時間に返しにくんの?」
「はい。ご迷惑でしょうから。」
「・・・ん、そっか。分かった。待ってんね。今度は起きてるからさ。」
「あ、もしかして授業中いつも寝ているんでしょう。」
「・・・バレちった」
「いけませんよ!もう。」
「へへ、んじゃ次の休み時間も会えんだね。」
「はい。」
「俺授業中寝ないからね。」
「それは当たり前ですけど、努力してみて下さい。」
「絶対次も来てね」
「勿論ですよ」
「おっけー、頑張る」


何がそんなに嬉しいのかは知らないが、顔を綻ばせている彼を見ているとこちらまで幸せな気分になって来た。そうこうしているうちにやはり始業の鐘が鳴ってしまったので急いで教室を後にする。

彼の教科書というだけでなんだか授業が楽しく感じられてしまったのは何故か。

落書きだらけの教科書の隅に、ありがとうございました。と付け足しておいたのには、いつ気づくだろうか。


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