「む、紫原くん!?」 「あー。やっと来たし、みょうじさん。」
なんだか夢でも見ているような気分だった。氷室さんとの会話はとても楽しかったのだけれど、終始、どこか夢の中の出来事のような気もしていたのだ。それはきっと彼が神聖な天使の使いか何かに思えたからなのだけれど、せっかく会話の弾む素敵な人と出会えたというのに全て夢の中でした、なんてことにはなりたくないなぁ、と真剣に考えながら着いた帰路の終着点では、またまた非現実的な存在が待ち受けていたのである。
店の前の壁に一人で寄りかかるのは紛れもなく、紫原くんだ。
エジソンに感謝を
「おせーし」 「ご、ごめんなさい。」 「・・・別に責めてないし」 「お、驚きました。今日は部活のない日だからきっと、お店には来ないだろうと思っていたので。」 「部活があるからここに寄ってんじゃなくて、俺が来たいからここに来てんの。部活の有る無しは関係ねーよ。」 「・・・そう、ですか。来ると分かっている日に会えるより、来ないと思っていた日に会える方が、嬉しいですね。」
彼は何故だか居心地の悪そうな顔をして何時ものように店へ入って行った。何か怒らせてしまっただろうか。
時刻は5時。わたしにしては幾分か遅い帰宅時間であるが彼にしては随分と早い来店時間である。 彼の後に続いて店に入ると、どういう経緯か椅子の上に立ち上がって店内の天井と格闘をする母の姿が目に入った。
「お母さん、・・・何をしてるの・・・」 「あら、敦くんいらっしゃい。なまえ、お帰りなさい。」 「どーもー」 「ただいま。」
紫原くんはお父さんのみならずお母さんにもまたいたく気にいられていた。というより、彼は歳上にはウケの良いタイプのように感じる。子供のように素直な所も、そそっかしい所にもきっと歳上からすればついつい世話を焼いてしまいたくなることだろう。歳上と会話をするのにどうにも緊張してしまうわたしからすれば、やはり彼は羨ましくあるのだが。
「天井に何かあった?」 「電球が切れたのよ。今新しいのに替えようと思ってたところ。」 「今お客さん居ないし、わたしが替えるよ。身長だってわたしの方があるし。」 「俺やろっかー?俺だったら椅子無しで届くよ?」 「あ、改めてすごいね、紫原くんは。でも大丈夫です。お客さんにそんなことさせるわけにいかないですから。」 「そうー?」 「はい。紫原くんはパン、選んでいてください。選んでる間に終わらせちゃいますよ。」 「んー」 「じゃああとはお願いするわね。」
謎の含み笑いを浮かべたお母さんは、早々に椅子から降りて何故かにやにやしながら厨房の奥へと消えて行った。それと共にパンの陳列されている棚の方へ向かった紫原くんの背中を見送ってからわたしは電球を手にして椅子の上に立ち上がる。ここまで高い椅子に乗って漸く紫原くんと同じ目線になった。不思議なものである。
さっさと終えてしまおうと電球に手を触れた時だ。
「っ、熱っ・・・きゃっ!」
電球はどうやら切れたばかりらしい。予想外に熱すぎた電球に思わず手を引っ込めたが、それがいけなかった。 身まで引いてしまったもので、うっかり足場を失ったのである。
当然足を踏み外したわたしは椅子から転げ落ちる景色がめまぐるしく変わっていくことをスローモーションのように感じながらも、見ていることしかできなかった。 硬い硬い床に尻をぶつけることを覚悟して目を固くつむった、その時である。
とっさにわたしの体を包んだものは硬いには硬い、しかしそれに痛みは伴わないのだ。 温かいと感じたところでぎゅっとつむっていた目を開ける。
酷く焦りに満ちた顔がそこにはあった。
「っ、まじ、焦らせないで」
わたしの肩を掴んでいる彼の手のひらに更に力が込められる。
ここでわたしは、我に返る、という言葉を身を以て体感することになった。
「っえ!!あ、え!?む、紫原くん・・・!」 「なんだよ」 「ごめんなさい、わたし、」 「つーか俺もごめん」 「何が、ですか・・・?」 「とっさに走ったからトレイに乗ってたパン、全部落としちゃった。勿体ない、ごめんね。」 「そんなの、全然構いません・・・」 「ホント?」 「はい。た、助かりま、した・・・ありがとう。でも・・・」 「なに?」 「お、お、降ろして、下さい、っ!」 「・・・・・・・・・ん」
ふわりと床に降ろされて、わたしは非常に久しぶりに感じる地面の感触を噛みしめる。 そこで彼はわたしが右手に持ちっぱなしになっていた新しい電球をわたしの手から抜き取り、天井の古い電球をセーター越しに取り去ってそこに新しいものを埋めた。 本当に脚立もなしに天井の電球に手が届いてしまうだなんて。 わたしがぽかんとしている中、古い方の電球を静かに側のテーブルの上に置いた彼は次に床に散乱したパンを拾おうとしたので、急いでそれを阻止する。
「そ、それはわたしがやりますから!!」 「えぇ?」 「紫原くんはどうぞ新しいパンを選んでいてください。」 「はぁ?いいよもう。悪いし。」 「わたしの気が済まないんです、紫原くんにパンを食べてもらわないと。助けていただいた上に電球だって替えてくれて・・・、お代も結構なのでどうぞ選んで下さい。」 「ちょ、いいよそこまで。大したことしてねーし」 「あのまま落ちていたらわたし、骨折をしていたかも。打ち所が悪かったら、死んでいたかもしれないのに。」 「大袈裟。」
確かに自分でも少し大仰に感じながらも彼をどうにか説得して、わたしは転がったパンを拾い始める。 拾い終えるのと彼が新しいものを選び終えるのは同じ頃合いだったので、わたしは急いで彼の元へ向かった。 彼の選んだものはたったの二つで、今までの中では一番少ない。 やはりまだ気を遣っているのだと感じたわたしの頭上から声が降ってくる。
「今日時間早いからお腹空いてねーの。だから代わりにめちゃくちゃ美味しい紅茶淹れてね。」
わたしと目が合うと彼はにやりと笑った。そんなの、断りようがない。
「はい、今までで一番美味しいものを。」
わたしがそう言った後にくしゃりと笑った彼の笑顔はしばらくわたしの頭から離れそうもなかった。
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