彼はうちのパンをいたく気に入ってくれたらしかった。ほぼ毎日のように訪れる彼に気づいたお父さんは元々の常連客さん好きの性格も手伝って、紫原くんにサービスを始めたものだから彼も喜んで足繁く通ってくれた。 それにわたしが気まぐれに作ってはたまに店頭に置かれるラスクやクッキーやパウンドケーキ。そんなものをサービスしてあげた時が、彼は一番喜んでくれるのだ。
さらに紅茶に多少のこだわりのあるわたしは店に出しているものとはまた違う、お勧めの茶葉を赤い缶に入れてサービスと称して彼に渡したこともある。紫原くんは紅茶の茶葉と睨めっこをして何とも未知の世界であるという風な顔をしていたけれど、その翌日には紅茶なんかに詳しそうな先輩に淹れて貰った紅茶に砂糖をたっぷり入れて飲んだらとても美味しかったと目を輝かせて感想を伝えてくれた。が、失敗だった。彼にまた糖分を摂取させてしまったと思った。
神様をかいまみる
ある放課後、バスケットボール部が活動をする体育館をちらりと覗いてみようと思ったのはほんの気まぐれに過ぎなかったが、そこへ着いて驚いたのは入り口に群がる女子生徒の数々である。
「練習試合でもあるの、かな・・・」
小さな独り言は女子生徒の歓声に飲まれた。 彼女たちに揉まれながらもどうにか最前列に辿り着いてバスケ部員たちが活動をする体育館を見回してみても、何の事は無い至って普通の練習風景である。時折上がる黄色い声援に驚きつつもバスケ部員たちには多大なる女性ファンがいるのだということは十分に理解が出来た。
そして、紫原くんを見つけることは勿論容易かった。
鋭い目付きに顔つきをしてボールを巧みに操っている。バスケットボールに関してはドリブルすることすら危うい全くのド素人のわたしが見ても、彼は周りと比べて格段に、圧倒的に出来が違っていた。それはもう、女子生徒の観衆以前にバスケットボール部の皆が見惚れるほどである。
近しいと称するのが適切かどうかは不明だが、近しい人物が酷く遠いものに感じられるという感覚は、まさにこのことだろう。
周りの女子生徒たちも口々に「紫原くん」の話をしている。 彼女たちによれば彼はエースなのだそうだ。一年生にして、レギュラーメンバーの一角という枠には収まり切らずにエースの座にまで易安と上り詰めたらしい。 彼のプレイを見ていれば、その座に着く事が出来たのはただその高い身長のせいだけではないことが良くわかる。
彼は天才だ。
***
「アララー?今日元気ない?」
目の前で不思議そうに顔を歪めた紫原くんの表情は数時間前に体育館で見たものとは180度違っている。 今日も今日とてお店にやって来てくれた紫原くんはわたしの顔を見るなりそう言った。
彼にそう言われてわたしは漸くハッとする。元気のないつもりはちっともなかったのだ。
「えっ!、そんなことないです。」 「そうー・・・?」 「そうです!」 「ふぅん」 「本当ですよ」
ふーん、と紫原くんは気のない返事をして何時ものようにパンを選び始めた。以前より菓子パンの割合は減ったように思う。甘いのもいいけれど甘いものはいつでもお菓子で食べられるから、色々な種類のパンを食べてみたくなったのだと少し前に話していた。しかし相変わらずお菓子も沢山食べているようだし、驚異の体質である。
「んー、今日はここで食べてこっかなー」 「えっ!?」 「店内でも食べれんでしょ?この店って。」 「は、はい・・・」 「んじゃーここで食べるー」 「か、かしこまり、ました、・・・?」 「なんで疑問系」
予想外の展開である。
「みょうじさんも一緒に食べようよ」
想定外である。
「仕事、が・・・」 「今お客さんいないじゃん」 「・・・・・・・・・」 「お客さん来たら別に、そっち行けばいいんだし」 「・・・それは・・・」
彼は幾つかのパンのお会計を済ませてからレジカウンターに一番近いテーブル席に腰掛けた。わたしがすぐにレジに出られるように多少の配慮をしてくれたのだろうが、こんな風に彼と向き合って話すことって初めてだ。正直言ってきっと途中で逃げ出したくなるに違いない。 少しでも時間を引き延ばすためにサービスとして淹れて来た紅茶を彼に渡せば非常に嬉しそうにした。その顔に少し安心する。
「おいしー」 「よ、良かったです」 「つーかみょうじさん紅茶だけでいいの?」 「え、はい。夜ご飯もまだだし」
今日は部活のジャージのままの紫原くんに、今日の部活中の姿が重なる。わたしは彼の目の前で彼と紅茶を飲んでいて良いような身分ではないというのに。 「紫原くん」は実はみんなのヒーローだった。憧れだった。わたしとは違って、天才中の天才だった。
「で、なに」 「え・・・?」 「腹立つよいい加減」 「ご、ごめんなさい・・・」 「前言ったよね?とりあえず笑ってろって。」 「・・・はい」 「で、なんなの?俺関係あんの?」 「・・・関係、あるような、関係ないような」 「・・・ヒネリつぶすよ」 「えっ!」 「冗談」 「・・・・・・実は」 「うん」 「・・・今日・・・、バスケ部の練習を覗いたんです。」 「えっ、うそ」 「本当です」 「あー、今日そういや公開練習日だったねー」 「え?毎日ああしてるわけじゃないんですか?」 「はぁ?あんなうるせーの毎日いたらめちゃくちゃダルいじゃん。でも女子が見てぇ見てぇって騒ぐから雅子ちんが月に2、3回位公開練習日作ったらしーよ」 「ま、雅子ちん・・・?」 「あー、監督。ってゆーか、みょうじさん偶然見に来ただけだったの?」 「は、はい・・・何となく行ってみただけだったんですけど、女子生徒が沢山居て驚きました。でも毎日な訳ではなかったんですね。」 「運良かったね」 「はい・・・」 「で、それでなんでまた落ち込んでんの」 「・・・・・・・・・。」
わたしはじっと下を向いて透き通った赤茶色にほんの少しだけ写り込む自分の姿を見ていた。前など向いていないから、今まさに彼がどんな顔をしているかなんて到底分かるはずもないのだけれど、彼がじとりとした瞳でわたしを見つめていることだけは何故か分かってしまった。まさに今、じとりという擬音が聞こえてくるかの如く見つめていることだろう。 ただし彼がパンを食べ続ける音だけは耳に届き続けて、それが酷く滑稽である。そういえば前にもこんなようなことがなかったか。
「・・・俺、なんかしたの」
ふと、彼がパンを咀嚼する音が止んだと思った瞬間だった。わたしは思わず顔を上げる。あんなにも重い頭だったはずなのに。 どうやら彼はわたしがあまりにも話し辛そうな様子でいるので、何か自分が粗相をしたのではないかと感じてしまったようだ。彼がその表情に申し訳なさを浮かべているのをわたしは初めて見た。
「違います!!」 「いーよ、遠慮しないで言いな」 「わたし、紫原くんにそんな思いをさせるつもりじゃなくて」 「・・・・・・」 「今日の練習の紫原くんが、素敵すぎたんです。」 「・・・は?」
彼が素っ頓狂な声を上げるのもまた当然である。とんだストレートな物言いをしてしまったと激しく後悔をするが言ってしまったものはもう遅い、わたしの顔は今恐らく真っ赤になってしまっているであろう。
「あっ・・・、す、素敵、というか・・・!」 「・・・う、ん」 「え、えぇと、神様みたい、で・・・」 「神様?」 「そう、格好良かったとか・・・、そういう表現じゃあとても表せなかったの。」 「・・・うん、そんで?」 「わたしは生まれてこの方、平凡を絵に描いたように生きてきたような人間だったから。毎日のように、神様と近くで関わりを持てることが急に不自然に思えて・・・、紫原くんってもしかしたらわたしなんかが関わっちゃいけない人だったのかもって・・・」 「・・・で?みょうじさんはもー神様となんか関わりたくなんかねぇって?」 「そ、そんな馬鹿な・・・」 「どーなの?」 「お、お友達で、いたいです。出来ることなら。」 「んじゃいーじゃん。」
そう言うと彼は再びパンにかぶり付き始めた。
確かにそれもそうか。彼と接触するのを誰かに禁じられたわけでも、彼自身に拒否されたわけでもないというのにわたしは何を勝手に自分自身を縛りつけようとしていたのだろうか。幽霊のようで神様のような彼も結局のところ人間らしい。 彼は最後の五個目のパンを食べ終えた所でさっさと立ち上がって、いつだかわたしにしたようにわたしの頭をわしわしと撫でた。
「俺バスケ嫌いなんだよねー」 「え!?!?」 「だから部活も練習もキライ。」 「何で続けているんですか・・・」 「まー、向いてるからかなー。」 「・・・ソウデスカ」 「部活とかだりーし、帰りてーっていつも思ってっけど最近頑張ろーって思ってんだよね。」 「い、いいことだと思い、ます」 「何でだと思う?」 「さ、さぁ・・・」 「練習終わってここ来るとみょうじさんが、毎日笑顔でいらっしゃいませーって、お疲れ様ーって言ってくれるのが俺すげー楽しみ。」 「え・・・」 「ん、そーゆーこと。だから最近色々頑張れてんの。じゃーね。」
わたしの頭を更に一撫でした後にそういって店を出て行ったが、彼はつくづく言い逃げの天才だと思った。 本当に、ずるい。
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