人間というものは一年に平均して7回ほど風邪を引くそうだ。どんな人でも大体、7回前後だという。 こうして聞いてみると誰しも実際にこんな数の風邪を一年で引いた覚えはないと言いそうなものだが、そこには馬鹿は風邪を引かない、という有名な言葉が関わってくるのだそう。
馬鹿も風邪は引くのだが、馬鹿であるからそもそも引いたことに気付けないのだというのだ。だから馬鹿は年がら年中元気なのだと。
アナログライフライン 下
敦くんの部屋のベッドの近くのサイドテーブルでわたしはじっくりとお粥を作っていた。この寮の個人部屋にはやはりキッチンなんてものはついていなかったので重い思いをしてコンロや鍋を運んで来た甲斐があったというものだ。
お粥の、シンプルながらも美味しそうな匂いが立ち込めてくると同時に彼のお腹が元気に鳴く。 それに思わず笑いを零したわたしに、仕方ねーじゃん、と言いながら頬を膨らませた彼は何だかいつもよりさらに子どものようであった。
「敦くん、風邪なんか引かなさそうなのに。やっぱりこうも環境が変わると適応出来ないところもあるんですかねぇ。」 「そーなのかもねー、俺ほとんど風邪引いたことねーもん。」 「でしょう。引いても夏風邪ではなかったですか?」 「・・・何が言いたいの」 「・・・ふふ、」 「馬鹿は風邪引かないとか、夏風邪は馬鹿が引くって言うよね〜」 「ふふふ、わかってるじゃないですか。そういうことです。」
ぬっと顔の前に彼の大きな手が現れたかと思うと、そのままわたしの額を二本の指で弾いた。ただのデコピンだが、これは痛い。風邪を引いているというのにどこにこんな力が余っていたというのか。
それにしても彼はまるで万全の体調であるかのような饒舌っぷりで、正直わたしなんかが来なくても夜に氷室さんが来ると言っていたしそれで大丈夫だったのではないかと思えた程だが、ご飯を食べる前にと彼の口に放った体温計を見てわたしは驚いた。 軽口なんかを叩けるほどであったのでそんなに酷くはないだろうと、高を括っていた自分が憎い。
「こ、こんなに熱が高かったんですか・・・」 「うわ、ホントだ。やばいね。」 「他人事みたいに・・・」
39の目盛りをわずかに越える赤い線には目を見張るしかない。 持ってきた風邪薬には解熱剤が入ってはいたが、自分がこんな風に熱の高かったとき、治るのに一体どのくらい時間がかかっただろうか。少なくとも、一日二日では万全には至らなかったことだけは覚えている。
しかしそれもこれも、全てわたしのせいなのだ。あんな寒い日にあんな寒そうな格好でいるわたしに優しい敦くんが上着を貸さないわけがないなんて少し考えれば分かりそうな話であったというのに。わたしが小さなため息を吐くと、敦くんが不安そうな顔でこちらを伺ってくる。
「どーしたのー?」 「いえ・・・その・・・。」 「?」 「・・・敦くんが、風邪を引いたのはわたしのせい、だから・・・」 「・・・え?何で?」 「・・・おととい、あんなに寒かったのに敦くんわたしにずっとコートを貸してくれていたから。」 「あー・・・、なるほどね。じゃあ、貸さない方が良かった?」 「か、貸してくれたのは、嬉しかったです・・・、とても、暖かかったし、でも、こんなことになるくらいなら・・・」 「ふーん、ならいーや。っていうか風邪引いたのも多分違う理由だし。」 「え?」 「昨日部活終わりコンビニ寄った帰りにトラックに水溜りの水掛けられちゃったんだよね〜。そんで帰ったらお風呂一番混んでる時間帯だったしダルいなーと思って暫く濡れたままでいたから。それでだと思うよ。」 「な、っば、馬鹿ですか、!?もう・・・信じられないです!」 「へへへ〜、でもこーやってなまえが来てくれたんだし風邪引いた甲斐もあるって感じかな〜」
わたしの手を引き寄せて冷たくて気持ちが良いと頬ずりをする彼の手は熱い。このままここに居るようではわたしもきっと風邪が移ってしまうだろうが、そういう覚悟でわたしは来たのだ。それに風邪は移すと治るとも良く言う。
そうこうしているうちにお粥が良い塩梅に仕上がったのでベッドに横たわる彼の元へ持って行くが、その時点で彼が次に何を言わんとしているかが手に取るように分かってしまった。 彼の期待に満ち満ちた瞳から想像できる台詞は実はたったの一つしかない。わたしは喉にいやに不自然に溜まった唾をごくりと飲み込んだ。
「ね、ね、あーん、して?」 「・・・・・・はぁ・・・言うと思いました・・・」 「ナニソレー。してくんねーの?」 「しませんよ。第一結構危ないんですよ、注意を払ってないと口の中が火傷だらけになりますし・・・。」 「なまえがちゃんと冷ましてくれればいーんじゃん」 「・・・嫌ですってば」 「なんでー?俺だるくてもう動けないしー。」 「嘘ばっかり。自分で食べた方が早いでしょう?」 「別に急ぐ必要ねーもん。」
なんて、まともらしい理由を並べ立ててはみたが実のところ、自分が恥ずかしいだけである。スキンシップや子どもに対するご褒美のようなものが好きな彼がこの行為を求めないはずがないとは思ったが、まさにどんぴしゃりで正解してしまうとは。わたしの中の紫原敦説明書も大分、詳しさと分厚さを増して来たようである。 第一そんな恋人同士の馴れ合いのような行為をこのわたしができると、敦くんは本当に思っているのだろうか?
しかしわたしの並べた理由を次々に簡潔な言葉で論破していった敦くんにはこのままだときっと押され負けしてしまう、いつものように。
ーー所で、わたしより、敦くんの頭が下にあったことは実は今まで片手で数えるほどしかない。というのも、お店の椅子に座った程度では彼とわたしの身長差はせいぜい同程度になるくらいであったからだ。 そこで聞くが、上目遣い、という女性ならではの武器を聞いたことはあるだろうか。ここで大事なのはか弱く儚い女性ならでは、というところだったのだが、か弱くも、儚くもない巨体を有する男性にそれをされて、心が動いてしまう日が来るとは思わなかった。想定外だ。
要するに枕に頭を預けて寝そべる敦くんに上目遣いなんかでお願いをされて不覚にもときめいてしまい、結局彼の要求を受け入れてしまったという、至極単純な話であったわけだ。
「・・・今回だけ、ですよ?」 「やったー!!」 「もう。」
その瞬間彼は元気良く起き上がり、再びわたしたちの頭の位置は逆転した。だるくてもう動けないだなんて、やっぱり嘘じゃないか。
わたしは渋々お粥を一口大に掬い、良く冷ましてから彼の口元へと運んだ。 敦くんはそれを飲み込み、次を今か今かと待ちわびている。
「相変わらずなまえのご飯は超おいしーね。」 「ふふ、気に入りました?」 「うん、・・・毎日、食べたいくらい。」 「えっ、お粥をですか?」 「・・・そういう意味じゃねーし。」 「?」 「鈍い。にぶちん。」 「で、でた・・・にぶちん・・・」
にぶちんって前にもわたしに言っていましたよね、どういう意味なんですか?そう聞いても彼は次の一口を求めるばかりであった。
慎重に冷ましては口に運び、ゆっくりと咀嚼させるということをしていてはやはり完食するまでに長い時間を要した。他愛ない話をしながら時間をかけて空にした鍋に、普段ものすごいスピードで食事をする彼は果たして満足したのだろうかと不安になったが恐らくそれは杞憂だろう。お腹がいっぱいになると眠くなる子どものような質は相変わらずだ。
「ふぁあ、眠い・・・寝ても いい?」 「もちろん。おやすみなさい。」 「・・・俺が寝たら帰っちゃう?」 「帰りませんよ。」 「ん、良かった。」 「軽くお部屋の掃除をしていても構いませんか?」 「いいけど・・・寝顔はあんま見ないでね。」 「・・・・・・はーい。」 「絶対見るでしょ」 「ふふ、冗談です。見たりしませんから。どうぞ安心して寝て下さい。」
ーー敦くんでも寝顔を見られたくないとか、あるんだ。 わたしは笑いを零して彼の髪を梳いて、撫でる。わたしは彼にこれをされるととっても眠くなってしまうから。
そうして静かに寝息を立て始めたのを確認してわたしは掃除をするべく立ち上がった。
***
時計の針が本日二度目の6を跨いだ頃だった。
今より約二時間前ほどから、寮に帰宅をした男子生徒達の声や音が聞こえ始め、わたしは心臓をヒヤヒヤさせていたが大声を発したりしない限りはバレることはないだろう。 それよりも掃除中に水着姿や、露出の多い女性のショットが沢山収められた雑誌を発見してしまったわたしの心をどうにかして欲しい。敦くんでもこんな雑誌を見たりするのか、と未知の世界に顔を赤くしたがそれと同時に自分の胸元に目を落として落胆する。この女性たちは一体何を食べて育ってきたやら。 彼だってわたしにこういったものは発見されたくはなかっただろうと容易に想像はついたので、粗雑に重ねられた教科書の山の間に適当に押し込んでおいた。
敦くんも胸の大きな子が好きだろうか。 アイドルみたいに輝く、きらきらした顔の女の子が好きだろうか。 ため息が出るように洗練された体型を持つ美しいモデルのような女性が好きなのだろうか。
しかしわたしには未だに胸を締め付ける彼の言葉があった。
ーーそうそう、俺180センチ以下の女の子と付き合う気ねーからさー。
もう大分前のことになるが、体育館裏で氷室さんと盗み聞きしてしまった、実に可愛らしい女の子の敦くんへの告白劇。あんなに、あんなに可愛い女の子でもだめだなんて。彼の恋愛において身長の占める役割が如何に重いかが伺えた。 要するにわたしは彼の恋愛対象外だ。
それでも、好きなことに変わりはないのだけれど。
「・・・・・、なまえ、?」 「!!!っ、敦く、ん」 「ど、したの、突っ立って・・・」 「い、いえ、少し、考え事を。」
目を覚ましたらしい彼の側に急いで寄ると、彼は何だか随分と辛そうな様子でいる。 顔は赤く、息は荒い。目が虚ろで、綺麗な瞳には薄っすら涙が溜まっていて。ゆっくりと瞬きをしながら、眉間にしわを寄せている。
「あ、敦くん、なんだか辛そう、です。大丈夫ですか、?」 「ん、・・なんか・・・やばい・・・」 「き、きっと夜になって熱がまた上がっているんですね。」 「そっか・・・」 「大丈夫、です。わたし、着いていますから。」 「・・・ん、」 「そうだ、冷却シートを取り替えますね。冷たくてきっと気持ちがいいですよ。」
自分が辛いときに相手もうろたえていたらなんだか不安でしょうがなくなるだろう。しかしわたしは病人の看病というのを今までした経験はなく、正直言って彼の現状を見る限り怖くて仕方が無いが、気丈に振る舞う他なかった。 冷蔵庫がなかったために外に置きさらしにしておいたスポーツドリンクのペットボトルも取ってきて、紙コップに注ぐ。
「脱水症状を起こすといけませんから、飲めますか?」 「ん・・・」 「どうですか、?」 「・・・ん、ありがと、・・・なまえ、」 「はい?」 「・・・手、」 「手?」 「手、握ってて・・・」 「は、はい、!」
わたしがあわてて手を差し出すと彼の右手が弱々しくわたしの手を掴んで、指を絡めた。熱い手。わたしはそれを強く握り返した。 彼は依然として荒い呼吸を続けている。 どうしよう、もしかして氷室さんたちを呼ぶ準備をした方が良いのだろうか。わたし一人でどうにかできるのだろうか。でも彼はまだ部活中であるし、でも、体育館まで今からわたしが走って行けば、或いは。 彼に掛ける大丈夫、という言葉は半ば自分に掛けているようなものだった。
「なまえ・・・、」 「は、はい、敦くん。」 「・・・熱い」 「え、ええと・・・どうしよう、」 「俺、このまま死ぬのかなー・・・」 「し、死んだりなんてしません・・・!大丈夫ですから!」 「そう・・・?」 「はい、・・・絶対です。」 「でも、このまま死んだら俺、絶対後悔するなー・・・」 「だ、だからそんな、」 「死ぬ前に、言いたいこと、あって」 「・・・敦くん、」 「すき、なまえ、」 「・・・へ、」 「なまえ、すき」 「・・・・・・・・・!!」 「俺ね、なまえが、好きです。」 「・・・・・・!!、あ、あつ、し、く・・・!」
頭が真っ白になった。しかしそれと同時に体中の全ての熱が顔に集まって、心臓がとてつもない速さで脈打つのが聞こえる。 わたしは彼の言葉にどうとも言えず、口をぱくぱくと動かすだけだった。 せめても、とぎゅっと、彼の手を握り直した時に再び聞こえ始めたのは安らかな寝息だ。
わたしは突然冷水でも浴びせられたかのような気持ちになったが、良く良く考えてみればあんなうわ言のように発した言葉に真実はあるのだろうか。
180センチの身長を有さないわたしは彼の大きな手を握りしめながら一人悶々と、考える他はなかったのである。
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