恋い慕う人が病床に臥していると聞いて、叶うのならば今すぐに会いに行きたいと思わなかったわけでは無い。 ただ、それはわたしにとっては無理な話であったから最初から選択肢に入っていなかっただけなのである。
ーーしかし、その到底無理な話を実現しようと企てた悪魔たち二人のおかげでわたしは陽泉高校男子寮の裏庭のそう高くはないフェンスを、飛び越えたところなのだった。
アナログライフライン 上
ーー大丈夫。要は見つからなければいい話なんだからさ。
氷室さんは口元に人差し指を当ててそう言った。
彼の言ったわたしへの"いい話"というのを纏めると、どうやら病気で弱っている彼のお見舞いに行ってあげたら好感度を上げることができるのではないだろうか、ということらしかった。 一階にある部屋なら確かに、ベランダの柵さえ乗り越えることが出来ればどうにかなりそうなものだが。
しかしお見舞いだなんて簡単に言うが、そのためには女子生徒の男子寮への侵入、という重い校則違反がつきまとうことを忘れないで欲しい。わたしは寮住まいではないため詳しいことは分からないが、前に女子寮に住む友人がこの学校の寮は色々と規則が厳しいのだと話していた。
「し、侵入!?そんなこと・・・できません。」 「何故アルか?」 「何故って・・・それはいけないことなんです。わたしは男子寮には入っちゃだめなんです。」 「へぇ?アツシはみょうじさんのせいで風邪を引いてるのに?」 「う・・・・・・」 「アツシ今頃一人で高熱に苦しんでいるはずアル。きっとご飯も食べれていなくて、お腹を空かせているアルよ。」 「あ、敦くん・・・」 「俺は看病へ行くつもりだったけどそれも練習の終わった後だからきっと夜遅くなると思うし・・・それまでアツシが一人なのが不安なんだ。」 「アツシ・・・心配アル・・・」 「ああ。子どものような奴だしな。」 「一人ぼっちで寂しがっているアルよ・・・」 「・・・・・・!!」
幼少の頃。風邪を引いて一人で寝込んでいると決まってわたしは泣きそうな思いをしていた。
辛くて寒くて暑くて気分も悪くて。そんなわけないのに、このまま熱が下がらなくて死んでしまうんだ、なんて変なことを考えていた。体の弱っている時には誰しも考え方もがマイナスにマイナスになってしまうのだと聞いたことがある。 そんなときに側に誰かが居てくれる安心感と言ったらなかった。
彼が今そんな思いをしていると限ったわけではないが、もし、わたしが少しでも安心感を与えてあげられるとしたら。 大好きな人の支えになれるかもしれないのだ。
そこまで考えたわたしに答えは一つしかなかった。
「・・・わ、わたし、行きます!!!校則違反なんて、どうってことありません!!」 「よく言ったアル!」 「ふふ、OK。バックアップはしてあげるから、行っておいで。」 「そ、そうと決まったら・・・今すぐです!!わたし今すぐに行きます!!」 「えっ?午後の授業はどうするんだい?」 「・・・そんなものは・・・さ、サボります・・・!」 「なまえ、やるアルね。」 「そんなに急を要する程のことでもないとは思うけど・・・」 「・・・いいんです。今なら授業で生徒たちも出払っていて見つかる確立も低いでしょうし、とても好都合です。」
それでは帰り支度をして来ます、と言ったわたしに氷室さんがその場で書いた一枚の地図を渡してくれた。敦くんの部屋の立地が描かれたそれを大事にポケットにしまってから更に「アツシの部屋のベランダの鍵は朝に開けておいたからね。」と爽やかに笑った氷室さんにただならぬ雰囲気を感じたのは当然のことだっただろう。 どこまで用意周到というか、先読みが出来ているのだこの人は。どうやら劉さんも同じことを感じていたらしく見事に二人で顔を引きつらせていた。
急に具合が悪くなってしまったんです、と担任の先生に報告をすると酷く心配をされてしまった。風邪がとても流行っているから、悪化しないうちに帰りなさい、と言ってくれた先生に申し訳なさを感じながらも普段からの素行は良くいるものだなと感じる。 そうしてわたしは学校を後にした。
***
敦くんの部屋を見つけてからわたしは持っていた荷物を先にベランダの中へ放り、その辺りに降り積もる雪をかき集めて申し訳程度の段差を作った。もたもたしている暇は一秒だってないのに上手くベランダの中に入ることができない。それも当たり前のことだろう。運動神経の欠片もないようなわたしが容易く侵入できるのなら泥棒には家へ入って下さいと頼んでいるようなものだ。 しかしこれでは彼に会う前に見回りの警備員に見つかりやしないだろうかとヒヤヒヤしているところで手を滑らせてわたしは何度目か分からない尻餅をつく。
「いったぁ・・・」
お尻をさすりながらもう一度立ち上がったわたしはとりあえずもう少し雪を高くかき集めることにした。しかし、色々なところから雪を持って来ては丈夫な台を作っている途中の話だ。
カラカラ、と使い古された窓ガラスのサッシの音がして、わたしが体を大きく跳ねさせて驚くと、そこには。
「な、なまえ!?」 「敦くん・・・!」
スウェット姿で呆然としている彼を見てわたしは助かった、と思ったが、冷静に考えてみるとこの状況はどうなのだろう。
氷室さんとの会話を何も知らない彼から見ればわたしは自分の部屋へ勝手に侵入しようとしている気味の悪い友人にしか見えないのではなかろうか。というか、わたしが逆の立場であったならそうとしか思えない。 先程まで彼の部屋へ堂々と不法侵入しようとしていた身分であるが、侵入した後にどう振る舞うかなど考えていなかった。
変な汗がわたしの背中を伝う。
「や、夢、かと思ったんだけど、なまえっぽい声が外から聞こえて・・・マジで居るとは思わなかったけど・・・」 「あ、あの、これには、深い・・・わけが・・・。」 「・・・てか今授業中の時間帯だよね?」 「授業は、サ、サボってしまいました・・・」 「サボり!?なまえが!?」 「は、はい・・・。」 「・・・でもなまえ、俺今風邪引いてて・・・」 「知ってます、氷室さんと劉さんからそのことを伺って・・・。その・・・。」 「室ちんと劉ちんに?」 「・・・はい。今も敦くんが苦しんでいるんだと考えたら居ても立っても居られなくなって。氷室さんたちに協力していただいて看病へ来てしまったんです。」 「え・・・・・・」 「でもごめんなさい、わたし敦くんの迷惑を考えていませんでした。」 「・・・・・・・・・」
わたしは何だか急に申し訳なくなって足元の雪の塊を見る事しかできなかった。 しばらくすると足音がして、敦くんがこちらへ近寄って来たのが分かる。わたしの視界に靴下の上にベランダ用のサンダルを履いた変な足元が入った。しかし、その足元は少しふらついていて。
わたしが涙目のまま顔を上げると、敦くんはこれ以上なさそうなほど嬉しそうに笑っていた。
「え・・・・・」 「じゃあ、俺のために授業サボってくれたってこと、だよね?」 「・・・・・・は、はい。」 「びっくりしたけど、めちゃくちゃ嬉しーよ。マジで。」 「・・・・・・」 「へへ、なまえの人生初サボり貰っちゃった〜。」 「なっ、なんで初って分かったんですか!」 「いや、分かるよ・・・。」 「・・・遺憾です。」 「ほら、その変な雪の上乗って。引き上げてあげっから。」 「え?」 「俺のこと、看病してくれんでしょー?」 「・・・は、はいっ!」
雪の塊の上へ乗って、背伸びをしたわたしを敦くんはいともたやすくベランダの中へ引き込んでくれた。風邪を引いている彼に変に力仕事をさせてはいけないとは思ったが、これしか入る方法がないのだから仕方がない。
そうして先に中へ放った荷物を手にしてわたしはようやく正規ではない場所から彼の部屋の敷居を跨ぐ。部屋は石油ストーブがついていて、非常に暖かい。
男性の部屋へ入ったりするのは勿論初めてだ。なんだか変に緊張するではないか。
「その・・・、案外、片付いているんですね。」 「案外って・・・。まぁ普段はもっと汚いんだけど。 「やっぱり。」 「朝入ってきた室ちんがちょっと掃除してから出てったんだ。そんなこと普段しないのに、なんで今日に限ってやってったんだろうな〜。」 「き、きっと、敦くんの体調が悪いから少し家事をして行ってくださったんでしょうね!」 「あ、そっか〜。」
のびやかに答えた彼には悪いが、それは恐らく違うと思う。その時点で単純に氷室さんの頭の中にはわたしがここへ訪れるシナリオが出来上がっていたに違いなかった。わたしが訪れることを考えて窓の鍵をわざわざ開けていくくらいであるし、部屋の掃除も軽くしていったのだろう。 本当にどこまで用意周到なのだ。彼は。
「さて、敦くんは横になっていて下さい。」 「え〜?折角なまえが来たのにどうして寝てなきゃなんないの」 「馬鹿言ってないで早く寝なさい。」 「・・・はーい」 「ご飯は何か食べましたか?」 「なんも。お菓子はあったからさっき食べたんだけど、気持ち悪くなって吐いちゃった。」 「そんな、辛かったでしょう。大丈夫ですか?少しは楽になりましたか?」 「うん。なまえが来てくれたからもう、大丈夫。」 「何を冗談言って・・・」 「ほんとにそーなの。」
ベッドの掛け布団から顔だけを覗かせて笑った敦くんの頭を軽く撫でると、これだけでもう治ったかも、なんていつものような冗談を言うのでわたしもつられて笑ってしまった。しかしその額は確かにいつもよりも熱くて、目も潤んでいて、咳き込んでいるのだから彼は万全でないことはよく窺える。
わたしは持って来た荷物を漁り、冷却シートを取り出して彼のおでこにぺたりと貼り付けた。
「つめたっ!なに、こんなん持って来たの?」 「はい!他にも色々と!風邪薬に、スポーツドリンクに、ゼリーに、お米に、ガスコンロに、土鍋とか」 「ガスコンロと土鍋って!?」 「お粥を作ろうかと思って・・・この部屋にキッチンがあるかどうか分からなかったし。」 「・・・すげーよなまえ。」 「あ、ちゃんと調味料も持って来たので安心してくださいね。」 「まぁ、その、嬉しいけど。」 「とっても大変だったんですよ。お母さんたちが厨房に居るのを確認してからバレないように土鍋やガスコンロを持ってくるのは。」 「うん。だろーね。」
ーー恋の力というのは、本当にすごいものだ。そして同時に恐ろしい。 実際の出来事や作り話なんかで恋のおかげで何もかもが上手くいってしまったり、逆に恋のせいで全てを駄目にしてしまった者が数多に居ることに深く頷ける。
ありがとう、と目を細めてお礼を述べた彼が喜んでくれるのなら、わたしは何だってしてしまうかもしれないのだ。
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