ある土曜日のことだった。
雪の降り積もる割には暖かく感じる昼下がり、久しぶりに店が非常に繁盛していた。というより、目が回る程忙しかった。
いとしいひとよ
普段の書き入れ時でも客席は8割埋まる程度だが、今は既に満席状態の上に更に数名が来店し、満席ということを知ってパンをテイクアウトして帰って行った程だ。 これはどういうわけだと親しい常連のおばあちゃんに尋ねると、今日は駅の近くの蕎麦屋さんが臨時休業をしているらしい。何しろ臨時なものだからそこへ行くためにわざわざ外出した人たちが手持ち無沙汰になってしまってこちらへ流れているのだろうね、と言っていた。 何だか複雑な心持ちになってしまうものだが次々と焼かれ、出てくるパンのおかげで店には常に焼き立ての匂いが充満している。この匂いが嫌いな人もそうそういないだろう。
ーこう寒くて雪の日が続いては、彼は風邪なんて引いていないだろうか。 今年の冬は例年に比べても寒い。まだ冬本番が控えているにしたって東京から出て来たばかりの彼からすればこちらの寒さは苦行であることだろう。 それでもわたしは何もすることはできないのだからと無心になって仕事を続けて居ると、騒がしかった店内が急に静まり返った。
不思議に思って客席の方を見ると、お客さんたちは皆例外なく口をぽかんと開けて釘付けになってしまったかのように目を丸くしてお店の入り口を見ている。
一体何事かとそれにつられてわたしも入り口を見遣ると、そこには、
「あ、敦くん・・・!」 「なまえ、」
敦くんは目を細めた。わたしには目の前の彼が幻のようにすら思える。 わたしは心がじわりと温かくなるのを感じた。会って気付いたのだ、こんなにも会いたかったのだ、と。
そしてお客さんのあの反応は、大き過ぎる彼を見ての驚きからくるものだったか。 わたしは彼に駆け寄る。
「ど、どうしてこんな時間にここにいらっしゃるんですか?」 「雅子ちんの用事で部活が1時までだったの。走って来ちゃったよ。」
へへん、と自慢気に笑ってみせた敦くんの顔に疲れは見えなかった。 再び人々の話し声で満ち始めた店内でわたしたちはしばらく見つめ合っていたのだが、彼は途中で我に返ったかのようにパンを選び始める。 久しぶりだなー、とかずっと食べたかったんだー、とか、これ以上にはなさそうな程嬉しそうに呟いている。しかしレジの一番近くの席、彼のいつもの予約席には町外れに住んでいる山田さん一家のお母さんとその子供の小学生の五人の兄弟たちが食事の真っ最中だ。彼らは皆非常に悪戯な性格で、ただ食事をするだけでも酷く手が掛かる様子である。しばらくはいつもの席は空かないだろうなぁ、なんてことを考えていると、いつの間にやら敦くんがレジにやって来ていた。
「今日は混んでんねー。休みの日のこの時間はこんな感じなんだ?」 「いえ、今日は色々あったみたいで、特に忙しいんです。」 「ふーん、こんなに人いるとこ初めて見たし。」 「そうでしょうね。いつもは店内に敦くんお一人のことも少なくありませんし。」 「あ」 「?」 「今日は、テイクアウトね。」 「えっ・・・」 「お持ち帰り〜」 「そ、そのうち席、空きます、よ?」 「うーん、ごめんね。」 「い、忙しいのを気にしてらっしゃるのでしたら・・・」 「そーじゃないんだ。とりあえず、袋入れてね。」 「・・・・・・はい。」
急に心が萎んでいくのをありありと感じた。 久しぶりにゆっくりお話ができる、なんて期待が打ち砕かれてわたしは下唇を噛んだまま相変わらずの沢山のパンをのろのろと袋詰めしていく。涙すら出そうだなんて相当滑稽な話だ。 更にお会計を終えた彼があっさりとわたしにじゃーね、なんて挨拶をして店を出て行ってしまったところでとうとうこれは夢なんじゃないかなんて都合の良いことすら考え始めた。 いいや、彼は非常に疲れていて、わたしなんかを相手にしている暇などなかったのだ、単にパンを食べたかっただけで、わたしに会いにきたわけではない。何といううぬぼれだろう。
しかし、わたしはそこで気づく。 彼は袋詰めされたパンの袋をカウンターに丸々忘れている。
「・・・大変!」
お腹を空かせた彼が寮に帰ってせっかく買ったパンを店に忘れてきてしまったと気づいたらどれほど落胆するだろうか。わたしは食事を続けるお客さんたちをほっぽらかして急いでお店を飛び出した。 きっとまだ近くにいるはずだ、もし会えなかったら、寮まで届けに行こう。
お店の段差を飛び降りたところで見覚えのある色が、目に入った。 その方向へ目をやると、お店の壁に背をあずけて小さく震える彼が居る。 寒いだろうに、何故まだここに?
「あ、敦く、ん?ええと、これ、お忘れになっていたんです。でも、どうしてここに・・・」 「おせーよなまえ。」 「え、ええ?」 「・・・これ、わざと忘れたんだけどさー」 「へ?」 「忙しそうだったし、あのまま店居てもぜってーあんま話せねえし。怒られると思ったけど、わざと忘れたの。なまえなら届けに来てくれるだろうと思ってさ。」 「な、なんてことを・・・」 「へへー、ごめんね」 「・・・もう。」 「・・・・・・」 「・・・・・・敦くん?」 「・・・・・・その、あー、お店、人居ないと困るよね?・・・戻っても、いいよ。」
わたしはその彼の申し訳なさそうな言葉に特に反応はしなかった。
ただ黙って白い息を吐く敦くんと、雪の積もる道だけを目に入れる。雪というのは音を吸い込むもので、雪の降る日に辺りが静かに感じるのは何も気のせいではない。本当に音がなくなってしまうのだから。
わたしは未だに小さく震える彼の冷たい冷たい手を握った。彼が大きく肩を揺らす。
「手、こんなに冷たいじゃないですか・・・」 「あー、えーっ、と・・・」 「風邪なんて、引かないで下さいよ。」 「まぁ、体は丈夫だし。」 「油断は禁物ですから。」 「・・・店、戻らねーの?」 「戻らないです。」 「・・・な、怒られない、の?」 「いえ、確実に怒られますね。」 「え!?まじごめん!ホント、戻っていいし・・・!」 「嫌ですってば。」 「・・・何で・・・」 「わたしがまだ、敦くんと一緒に居たいんです。」 「・・・・・・っ!」
彼の冷たい手を自らの頬へ充てがう。そうしているうちに、わたしの手がきつく握り返される、言わずもがな、敦くんに。 ふと彼と目を合わせて、彼と笑い合う。
音のない世界で、二人きりになってしまったようだった。
ー・・・みょうじさんはアツシのことが好きなのかな? ー紫原くんのこと、わたし、多分好きとはちょっと違うように思います。
ごめんなさい、氷室さん。わたしはあなたに嘘をつきました。
わたしは、敦くんのことが、好きです。
これこそが恋なのだと、やっと気が付けた。
「少し歩きませんか?ここに居るといつお母さんに見つかるか分からないですから。」 「・・・ん、行こっか。寒くない?」 「寒いです。」 「えっ!」 「まぁ歩いていれば暖かくなりますよ」 「じゃあ、手、繋いで歩こっか。ちょっとはあったかいっしょ?」 「・・・・・・・はい。」 「へへ、なまえをテイクアウトしちゃった〜」 「敦くんオジサンみたいですよ」 「えー、なにそれやだしー」 「ふふっ」 「・・・あ、そーだ。こないだ公開練習見に来てた?」 「えっ、は、はい・・・」 「やっぱりねー。俺、なまえ見つける天才かもしんない。」 「・・・敦くん、いつもみたいに笑ってくれたでしょう。」 「分かった?」 「あの時は、わたしに笑ってくれたのではないと思ってましたけど。」 「まさかぁ、俺がきっつい練習中になまえ以外に笑えるわけねーじゃん」 「・・・そ、そうですか。」 「でもあの後なまえすぐ帰ってるし。死ぬかと思った。」 「死んでないじゃないですか。」
それは言葉の綾ってやつだしー、と頬を膨らませる敦くんに苦笑しながらふと振り返るとお店はもうとても遠くにあった。道には二人ぶんの足跡が刻まれている。 わたしは何しろお店にいたので薄着で、エプロンなんかもしたままで、寒いことこの上ないのだが、どういうわけか暖かい。
わたしは、繋いだ手に少し力を込め直した。
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