図書委員会の活動中、月刊バスケットボールという雑誌を目にしたのは決して初めてではなかったが、借りるなんてことをするのは今日がまさに初めてだった。 "高校バスケットの今に迫る!" なんて煽りのついた表紙を見てからのわたしの行動は早かったのだ。
そう厚くもないその雑誌の高校バスケット特集には、ウインターカップという高校バスケットボール界の三大タイトルの一つである大会の特集がされていた。クリスマス辺りから年明け寸前まで行われるそれは高校最後の王座を決める大会で、そこからプロチームへ入団する人もいることから盛り上がりも、注目度も半端なものではないとか。
出場決定校の中に陽泉高校の文字を見つけた時には、それなりに驚かざるを得なかった。 全国レベルの部活であることは承知の上だったが、まさか、まさか本当にここまでとは。
近くて、遠い
「はぁ・・・」
敦くんがため息を吐くのは、お店に来てからもう4回目のことだった。わたしとはいつもの調子で和やかに話して下さるのに、ふとしたときに、短いため息を吐いている。きっとこれは無意識のものだろう。 彼がこのような状態になるのは極めて珍しい。彼は物事に対する考え方が幼い子どものような質であるから、大抵のことは甘い物を食べるか、寝たりすれば綺麗さっぱり忘れてしまうことが多いからである。弁解が遅くなったが、決して悪口ではないつもりだ。
彼が5回目のため息を吐いたところでわたしの口からも無意識に言葉が発せられていた。
「・・・敦くん、何かありましたか?お疲れだとか、ご気分が優れないとか、嫌なことがあったとか。わたしで良ければ、その、お話伺います。」 「・・・・・・なまえはエスパーなの?」 「・・・いえ、あの、エスパーではありません。」
彼のため息はやはり無意識のものだったようだ。 何故自分に悩みがあることが暴露てしまったのだ、という表情をしている彼の顔は良く見れば何処か疲れている。
「んんー、悩みって程のことでもないんだけど、俺にとってはかなり重大ってゆーか」 「はい」 「なまえにも話さなきゃいけないことだったからなまえがエスパーで助かったかも」 「ですからエスパーではありませんって、じゃなくて・・・わたしにも話さなくてはいけないことだったんですか?」 「ん 。・・・前にもこんなこと言ったけど、俺、これからしばらくまたお店には来れないと思う。」 「・・・・・・はい」 「でも全く来れねーわけじゃねーから。ここで食べてくのは難しくなるのと、頻度が減るって感じ。」 「そ、そう、ですか・・・」 「ごめんね。」 「いえ、あの、何も謝られるようなことではないじゃないですか・・・」 「だって寂しそーにするから」 「べ、別にしてません」 「俺は寂しいけど」 「・・・わたしも、寂しいです」
そう言ったわたしに苦笑した彼はわたしの頬をするりと撫でた。道端の野良猫を慈しむような手つきだった。 つくづく、彼とは妙な関係だなぁと感じる。わたしたちは友人と言えば何だか違うし、お互いが飼い主とペットのような関係と言えばそうとも感じるし、敦くんは初めて飼った小さなハムスターを可愛がるようにわたしを扱うが、ある時突然一人の人間として扱う。わたしもそれは似たような思いだ。
それでもいつの間にか彼といる時間はわたしの中で非常に重要なものになっていて、一秒でも長く一緒に居れたら、と思うし隣に居たいとも、彼も同じ思いであって欲しいとも思う。 ーーこんなような感情には、名前がついていないものだろうか。これは大変、不便だ。
「冬休みに大きい大会あんだよね。東京まで行くんだけど。」 「あ、ええと、ウインターカップ・・・でしたっけ。」 「えっ良く知ってんね。」 「ついこの間借りた月バスっていう雑誌で知ったんです。出場校に陽泉が載っていたのも見ました。」 「そっか。そんで、あと一ヶ月くらい?ウインターカップまでは強化練習期間で練習時間が伸びるのと、ほぼ毎日ミーティングだって。・・・多分店に来るような時間が上手く取れないと思うんだよね。」
以前あの酷い雨の日にミーティングやら練習試合の反省会やらのために閉店直後に店にやって来た敦くんのことを思い出した。恐らくは毎日がそのようなタイムスケジュールになるということだろう。毎日、ということはその分疲労も半端ではないはずであり、ここへ来る余裕だって勿論の如くなくなるはずだ。
しかし昔敦くんはバスケットを嫌いだと、部活も練習も何もかも嫌いだと言っていたけれど、あれはやはり嘘なのだろう。嫌いであればこんな生活に耐えられるはずがない。 そう思うと悲しかったはずの心が、急に穏やかになるのを感じた。
「・・・あの、わたし、寂しいです。敦くんに今のようにお会い出来なくなることが。」 「え・・・」 「でも、わたしバスケをやっている敦くんが大好きなんです。だから、寂しいけど、本当に心から応援しています。」 「なまえ・・・」 「ウインターカップだなんて大きな大会に出場される敦くんのことをとても誇りに思います。わたし、いつまでだって待っていますから。頑張って来て下さい。」 「・・・ん、分かった。ありがと。つーか、学校でだって会えるしさ、そう思い詰めることでもなかったね。」 「そうですよ。なんて言ったって、お隣のクラスなんですから。」 「ホントだよね〜。じゃあ毎時間教科書借りに行っちゃおうかな。」 「ふふ、そんなことをし出したら追い返すに決まっているでしょう。」 「やっぱりー?なまえってほんと歪みないね。」 「褒め言葉として受け取っておきます。」
わたしの言葉にやっと今日一番の笑顔で笑ってくれた敦くんからはもう先程のような暗いため息の影も感じられなかった。
***
暦は12月に入った。あれから敦くんは本当にお店にやって来ない。頻度が減る、という風に言っていたので少しくらいとは期待をしていたのだが彼は本当にせわしなく日々を過ごして居るらしかった。 偶然廊下ですれ違っても酷く疲れた雰囲気でいて、しかしいつでも笑って手を降ってくれる。少しでもお話が出来た日はラッキーだ。そしてその忙しさを裏付けるようにたまに学校でお会いする氷室さんや岡村さん、福井さんも劉さんも決まって疲れの溜まった顔をしているのだから彼らが如何に激しい練習を強いられているかというのが嫌でも伝わって来ていた。 こういうのは本末転倒というのではなかろうか。
彼にわたしは応援する、という風に言ったがその実彼に何をしてあげられるわけでもない。例えばその疲れを取り除くために彼にマッサージをしてあげたくてもわたしには知識がないし、彼には時間がない。わたしに割く時間が存在するならば、彼には一秒でも長くお休みをして欲しい。悲しいことにわたしは"何もしない"ということが一番の応援らしかった。
それが本当に応援するということになるのかは不明であるがわたしの応援など、所詮はその程度だったということで。 これほど歯がゆいことも、なかった。
「今日バスケ部、公開練習の日だって!」 「本当!?行く?」 「もちろん!」
クラスの女子生徒の会話だった。 特に盗み聞きをするつもりでもなく、自然と耳に入って来た言葉。 実はわたしはあれから何度も公開練習日に体育館へ足を運んでいる。というのも、敦くんが公開練習日の日程が決まった一週間前程から毎日のように「あと○日だからね〜絶対来てよね〜。」と伝えてくるのでわたしに選択肢はなかったのだ。 そういうときは決まって最前列の一番端にちょこんと居座って彼の練習をじっと眺めていた。たまにわたしの方へ視線をやる敦くんに手を振ったりとか、手を振られたりとか、そういうことはしない。ただ、目が合って、お互い少し微笑んで、それだけで十分だったからだ。
いつもは彼の言葉でその日程を知っていたのだが彼がお店に来られなくなった今、人づての噂に頼る他にないわたしはなんて情弱なのだろう。 終業のチャイムと共にわたしは体育館へ向かった。
体育館には妙な雰囲気が漂っていた。 それは決して険悪なムードと言うわけではなく、いつもはキャーキャーと騒ぎ立てている女子生徒たちがしん、と静寂を保っており、彼らの練習をただの一つも取りこぼすことのないように必死になって見ているのである。その前に妙な雰囲気を作り出したのはやはりバスケ部の部員たちなのだろう。 以前窺っていた練習も厳しいものだったが、今回の気合いの入りようは今までとの比にはならなかった。廊下でお会いしていたみなさんはあんなに疲れていらっしゃったのに、今はただ、前しか向いていない。 彼らのウインターカップへの意識の高さが伺えた。 そんな空気に充てられて、女子生徒たちも自然と騒ぎ立てなくなっていったのだろう。
わたしは今日、最前列に行くようなことはしなかった。最後列で時々見える紫色を眺める。 やがて彼はこちらへ少しだけ微笑んだ。最後列に居ては人ごみに隠れてわたしなんかが見えているはずもないので、わたしに笑ってくれたわけではないのだと理解していながらも嬉しく感じた自分が居る。 もう見えていない彼に、わたしは微笑みを返す。
その日はたったのそれだけで体育館を後にした。
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