fantasma | ナノ






「げ・・・」
「げ?」


両親共に旅行から無事に戻り、通常営業に戻ったのはもう先週の話だ。営業再開してからはもちろん、彼が来てくれて。

しかし今日もいつものようにお店で談笑をしていた敦くんが、ふいに窓の外を見て変な声を上げた。
変な声に加えて、苦虫でも噛み潰したかのような渋い表情。

わたしの声も耳に入らなかったような彼に気を取られていると、そう広くはない店内に客の来訪を告げるベルが鳴り響いた。



薔薇の棘のようなこと



「いらっしゃいま・・・あら?氷室さん、と・・・」
「え?みょうじさん!?」
「えっ!ど、どうかされましたか?」
「いや・・・、このお店はみょうじさんのバイト先だったのか。知らなかったんだ。」
「あ、いいえ。ここはわたしの実家なんです。」
「そうなのか・・・」
「はい。ええと、後ろの方々は・・・?」
「ああ、部活の仲間だよ。」
「そうなんですか!」
「室ちん・・・何で来たんだし・・・」
「やぁ、アツシ」


扉を開けて入って来たのは氷室さんと3人の男性である。どの方も皆、高身長に加えお揃いのジャージを身に纏ってこちらを見てにやにやしているものだから一体何事かと思ってしまった。
氷室さんはここがわたしの実家であるとは知らなかったようであるし、ただ偶然部活仲間といらしただけなのだろうか。

しかし部活のお仲間であるはずなのに、敦くんは酷く不機嫌そうである。


「どーも、いつもアツシがお世話になってます!」
「アナタ可愛い人アル。紫原にはもったいないね。」
「ええと、バ、バスケ部主将の岡村じゃ。よろしく頼む。」
「何緊張してんだよモミアゴリラ!」
「あ、あの、どうもみなさん、初めまして。わたしはみょうじなまえっていいます。」
「なまえー、そいつら相手にしなくていーよ」
「な、なんで、ですか?」
「なんでも。っつーかまじで何で来たの?」
「この間部活帰りにコンビニにみんなで寄ったらアツシがここに入って行くのを見たんだけど、どうやら毎日のように来ているみたいだったから。ただのパン屋かと思ったら・・・みょうじさんがいたんだね。」
「はぁ・・・」


地球の終わりみたいな顔をしている敦くんとは打って変わって非常に楽しそうなみなさん。

ーーもしかして、仲が芳しくないとか。

そうこうしているうちにみなさんも部活上がりでお腹を空かせていたらしく、どうせならここで何か食べて行こうかという結論になったらしい。是非召し上がって行って下さいと返事をしたわたしは喜々としてパンを選びに行ったみなさんを見送って、敦くんに耳打ちをする。
みなさんには聞こえないように、小さな小さな声で。


「あの、もしかして敦くんみなさんと仲が良くないとか・・・それでしたらすみません。」
「んー、いや、そんなことないから大丈夫〜」
「本当ですか?」
「・・・何で?」
「ええと、敦くん、ちょっと渋い顔をしていたものですから・・・」
「大丈夫。少なくとも、なまえが心配するようなことは何もないよ。俺たち結構仲良いし。」
「よかった・・・」


敦くんが笑ってわたしの頭を撫でた。
なんだか頭を撫でられるのはやけに久しぶりで、敦くんの手の平の温かみが気恥ずかしくて、子供のように思われているのかもしれないと分かりながらも嬉しくて。わたしはきっとまた赤い顔をしているのだろうなぁと唇を噛んでいるとふと氷室さんに名前を呼ばれる。
みなさん、選び終えたらしい。


「す、すみません、お待たせしました!」
「ううん、大丈夫だよ。」
「っつーかなまえちゃんと氷室は元々知り合いなのな。」
「はい。この学校に来たばかりの時に彼女に少し助けてもらったことがあって。」
「助けというほどのことでもありませんでしたけど、そうなんです。」
「ズルいアル。氷室、こんな可愛い子を何で俺にすぐ紹介しないね。」
「可愛いから紹介したくないに決まってるだろ?」
「あ、あ、あの、可愛くなんかありませんから・・・!」
「彼氏はいるアルか?」
「か、彼氏!?そんな、いやしませんよ、こんなちんちくりんに・・・」


わたしが真っ赤になりながら否定を続けても言葉にアルという語尾をつける変わった人はわたしを褒めちぎるのをやめてはくれなかった。
なんとか全員のお会計を済まし、敦くんの近くの席に誘導をするとわたしは紅茶を淹れ始める。わたしがサービスですから、と言っても岡村さんが頼んでないから悪いと遠慮をする。とても礼儀正しいというか、強豪高のトップにふさわしい良いキャプテンさんなのだろうと見受けられた。しかし紅茶は有無を言わさずに出した。

お客さんも他には居ないのでみなさんには敦くんの近くの席を広々と使っていただいているのだが、それでもこう背が高くては何か、店がミニチュアのおもちゃのように感じられる思いだ。広々としているはずなのに、ひしめき合っているようにも思う。


「自己紹介が遅れたアル。俺は劉偉アルね。2年生で、中国からの留学生アルよ。」
「ち、中国の方なんですか!?劉さん日本語がとってもお上手ですね・・・!」
「いや、日本語すごく難しいアルよ・・・。」
「それにしても氷室さんはアメリカで、劉さんは中国なんて、バスケ部はグローバルなんですねぇ・・・」
「俺はアメリカ人なわけではないけどね?」
「まぁ、そうなんですけど。」
「でも室ちん俺たちから見ればかなりアメリカ人だよー」
「え?そうかい?」
「結構氷室にゃギャップを感じたりするな。確かに。」
「げっ、ゴリラってギャップなんて言葉知ってたのかよ!」
「知っとるわい!!」
「声でけーよアゴリラ。あー、そういや自己紹介の途中だったな、俺が3年の福井健介だ。よろしくな、生まれも育ちも秋田でワリーけどよ。」
「わぁ、わたしもです。生まれてこの方、ここに住んでいますから。」
「おお、ワシもだ」
「あ、岡村さんもなんですか?」
「なまえちゃん、そいつと話すとゴリラに似るぜ」
「え、えぇ!?ゴリラに!?」
「福ちん、なまえそーゆーの信じちゃうから」
「バカかよ・・・」


先ほどまでの静かで、流れるような時間とは正反対の程よい喧騒に塗れた賑やかなひと時。ついさっきには敦くんと彼らの仲を心配していた身分ではあるが本当に仲の良さそうな部活仲間と見て取れる。
ーーそれならば敦くんが彼らを見た時に不機嫌そうに顔を歪めたのは、何故だったのだろうか?
彼の先ほどの態度を余計不自然に感じながらも彼らと談笑を続けていた時、不意に氷室さんが立ち上がった。


「みょうじさん。悪いんだけどトイレを借りてもいいかな?」
「はい、もちろんです!こっちです。」
「ありがとう」
「ええと、電気がそこに・・・」
「みょうじさん」
「はい?」
「この間のことなんだけど」


氷室さんが声のボリュームを下げた。恐らく、みなさんの座る席からはこのくらいの大きさの声は聞こえないことだろう。
客用トイレのある曲がり角のすぐ手前で氷室さんは唐突に立ち止まる。しかしみなさんのいる席から丸見えのこの場所で、内緒話をするだろうか?
そしてこの間とは、なんのことか。わたしも彼につられてつい小声になって聞いた。


「この間って、一体何のことでしょう・・・」
「・・・体育館裏で。不躾な質問をしちゃっただろう?」
「あ・・・!いえ、そんな、こちらこそ突然走って逃げたりして・・・本当にすみません。」
「謝るのなら俺の方だ。悪かった。」
「き、気になさらないでください・・・。わたしもすっかり忘れていたんですから・・・」
「本当かい・・・?」
「もちろんです!」
「ふふ、ありがとう」
「ひゃっ!」


彼がお礼を言ったその瞬間だ。
氷室さんはその大きな背丈を少し屈ませたかと思うと、その美しい造形が施された唇をわたしの左頬に押し当てる。端的に言えば、頬にキスをされたのだ。

これはびっくりどころの話ではない。変な声を上げてしまった時点で予想が付くだろうが、16年間生きてきてこのような華やかな出来事はものの一度だって経験したことはなかったのである。アメリカ、ユナイテッドステイツオブアメリカではお礼だとか、挨拶の印などに軽いキスをしたりもするという知識がなかったわけではないのだけれど。

左頬を抑えて目を白黒とさせるわたしとは対照的に、目の前の氷室さんは非常に涼しげな笑顔を保ったままだ。


「なまえ!!・・・ちょっと室ちん・・・何してんの・・・?」
「何って・・・お礼さ。」
「・・・何のお礼だよ」
「それは教えるわけにいかないな」
「ンだよ、それ」


しかし一部始終を目撃していたらしい敦くんが、この世のものとは思えぬ恐ろしさという迫力を纏ってこちらへやって来る。彼が一歩を踏み出す度にドスン、ドスンと地響きのしそうな程であった。
こちらへやって来た彼は氷室さんと対峙してわたしを自らの後ろへと追いやる。雛鳥や子猫を外敵から守ろうと身を呈する母親のようだ。実際には、そんな可愛らしいものではないのだけれど。
わたしもわたしで氷室さんにあんなことをされては動揺して仕方なかったのだが、敦くんのこの怒りようを見ては冷静にならざるを得ない。

ーーこんな怖い敦くんは初めて見るのだ。

敦くんといえば、いつも温厚で、のんびり屋さんで、お菓子が大好きでちょっぴり子どもっぽい。少しわがままを言ってわたしが叱ると拗ねたり、腹を立てることはあってもこんな風に刺すような怒りを表に出すことは今までものの一度だってなかった。

敦くんがわたしのために怒ってくれているというのは如何にわたしが鈍感と言えども、わかる。しかし、氷室さんのしたことはそうまでして怒るようなことなのであろうか?
わたしには判断が出来ない。


「あのさぁ・・・、自分が何したか分かってんの?」
「全く、アツシは大袈裟だな・・・。」
「大袈裟でもなんでもねーよ。なまえがそういうこと苦手そうってわかんなかったわけでもないだろ」
「だからついからかってみたくなったんじゃないか。」
「ハァ!?」
「紫原、少しは冷静になれ」
「おいアツシ落ち着け」
「そうアル。そんなに怒ることでもないアルよ、」
「敦くん・・・あ、あの、氷室さんはきっとアメリカでの癖が抜け切っていなかっただけだと思うんです。」
「いや、ぜってーわざとだから。なまえにキスしたくてしたんだよ?」
「そんなこと、あるわけないです・・・わたしなんかに。」
「っち・・・、」
「あ、あの、でも、そうやって怒ってくれるのはとっても嬉しいんです、本当に・・・」
「・・・・・・・・・」


敦くんに舌打ちなんかされたのも、あんな言葉遣いを聞くのも、初めてだった。正直言って怖くなかったと、恐ろしくなかったと言ったら嘘になる。

それでもわたしの言葉にようやく納得してくれたらしい彼からは、先ほどのような刺々しいオーラは感じられなくなっていた。後ろにいらっしゃる3人も安堵した様子だ。
ただ、目の前の氷室さんだけは未だ涼しそうな顔をして笑っているのだけど。


「・・・まぁ、腹立つけど室ちんに常識が通じないのは今に始まったことでもねーし。」
「酷い言い方だな・・・」
「確かに氷室は変なとこ抜けてるアル。」
「そうか?」
「そうアル。」
「そーだよ」
「・・・あ、そうだ、氷室さん。お手洗いこちらです。」
「・・・なまえちゃん肝座ってんなー。」
「・・・そうじゃのう。」
「え・・・?」
「ふふ、ありがとう、みょうじさん。」


みなさんの言っている意味はいまいち分からない、が、なんだか恥ずかしいことだけは明らかだ。
わたしが氷室さんをお手洗いに案内し終えて彼がちょうどそのドアを開けた瞬間。


「室ちん!」
「っ!」


敦くんが氷室さんのお名前を呼んだかと思うと、わたしの、今度は右頬にふにゃりとした感覚。敦くんの唇の感覚。
驚いて右を見ると、わたしの目線まで屈んだ敦くんが悪戯っぽく笑っていた。

わたしの顔に、熱が集まるのをありありと感じる。何が楽しくて、一日に右頬も、左頬も別の人間にキスをされなければならないというのだ。
それを見た氷室さんは含み笑いを浮かべたまま、お手洗いに消える。肝心の敦くんはと言えば、やけにしたり顔だ。どや顔だ。


「あ、敦くん!!!」
「えっ、何?」
「許しません・・・」
「え、なんで!?」
「な、なんでもです!!こんなことして、絶対に許しません!」
「室ちんには何にも言わなかったのにずりーよ!」
「だ、だってこういうことは、こう、軽々しくすることじゃないんです!!敦くんの馬鹿!!」
「顔真っ赤にして言われても説得力ねーって。可愛いだけだって。」
「だ、黙りなさい!とりあえず、正座です、そこに正座です!」
「はーい」
「ほ、本当に正座する人がどこにいますか!!床なんて汚いんですから、ほら、立って・・・ああ、制服汚れてる」
「なんなのなまえー」
「とりあえず、金輪際、いけませんから。何でこういうことをしたんですか。」
「えー?室ちんに対する仕返しもあるけど、まぁ、俺がしたかったからかなー。」
「・・・ゆ、許しません・・・。」
「何でよー!」


ー氷室にキスされたときは平気な顔してたのになんだよあの差は。
ー顔真っ赤だのう。
ー随分分かりやすいアルなー。
ーまぁ面白いからいーけど。
ー温かく見守るぞ、ワシは。
ー青臭いアル。


先輩方の間でそんな会話がなされていたことはわたしたちは知る由もなかったのだけれど。


右頬の熱が冷めることも、彼の唇の感触を忘れることも、しばらくないだろう。


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