ぐううううううう
なんと絶妙なタイミングだっただろうか。 意図したようなタイミング。二人の会話がなくなって、何故だか二人でしどろもどろとしていた時にお話してくれたのは、紫原くんのお腹だった。 わたしがあまりの滑稽さに吹き出すと、紫原くんが徐々に顔を朱に染める。普段は赤くなるわたしを紫原くんが面白がっていじり倒すことが多いからか、どこか優越感を感じてしまう。
「ご飯、食べていかれますか?」 「・・・え、いいの?」 「紫原くんのご都合に合えば。」 「合うし!!・・・あ、でも、俺の食う量半端ないのわかってるよね?」 「ふふ、毎日毎日目の前で見ていますから、知ってますよ。勿論。」
雨のうちはへ降る頃 下
うちにある食器の中で一番大きな丼にこんもりとご飯を盛って、紫原くんに手渡す。流石に多いよ、と突っ込まれることを少し見越していただけにお礼の他には何も言わずに受け取った紫原くんには結局驚かされてしまった。このくらいの量、彼にとっては当たり前なのか。 客人用の箸に手を伸ばした彼は、いただきまーす、と礼儀正しく挨拶をする。わたしとてさっさと食べれば良いものを料理が彼の口に合うか、合わないか、気が気でない。 どこか変な箸使いでこれまた大きなハンバーグを切り分けた紫原くんはそれをついに口へと放る。 美味しいと言ってくれるか、不味いと言われてしまうか、ハンバーグは好きか、でもそもそも実はハンバーグが嫌いだったら、今日はコロッケの気分だったら、生姜焼きの気分だったら、肉が安物の味がすると言われてしまったら。
ーーわたしは何の心配をしているのだ、一体。 それでも、そのくらい緊張していた。疲労困憊している彼にはせめて美味しいものを食べて欲しかった。
「・・・・・・・・・・・・」 「あの、お口に合いますか・・・?」 「・・・あのね、超美味い。」 「よ、よかった。」 「超どころじゃないって。美味すぎ、まじで」 「あの、よかったです。本当に。」 「大袈裟じゃね?」 「ご、ごめんなさい。紫原くんお疲れだろうから美味しいものを食べてもらいたかったんですけど、わたし、料理に大して自信があるわけでもなかったので・・・」
わたしの言葉にしばらくきょとんとした後に、アリガトね。とふわりと笑って言ってくれた彼に、安堵する。これはきっと本当にお世辞とかじゃなくて、美味しいと思ってくれたのだろう。 ようやくわたしも並べられたご飯に手をつけ始めるが、確かにそう不味いものには仕上がっていなかった。空腹は最高のスパイスとはよく言うし、この味に空腹が加わればそれなりに美味しくも感じることだろう。
「こっち来てから学食以外で初めて誰かの手作り食べたかも〜」 「・・・・・・こっちに来てから・・・?」 「うん、俺東京からスポーツ推薦で来たじゃん?」 「・・・えぇ!!??東京!?」 「あらら?言ったことなかったけ?」 「と、と、東京の方なんですか!?紫原くん、って・・・」 「え?どこの人だと思ってたの?」 「え、ええと、スポーツ推薦とは、噂でうかがってたんですけど。その、秋田の方だと思ってて・・・」 「まじ?ごめんねー」 「通りで、言葉に訛りのない人だなぁと思うわけですね・・・」
ここ最近で、いや、下手をしたら今年に入ってから1番驚いたことかもしれなかった。日本人でありながら東京にも大阪にも行ったことのないわたしからすれば都会の人というのはやたらめったらせかせかとしていて、冷たくて、嘘つきで、そんな印象しか持っていなかったのだ。紫原くんの性格はといえば、その真逆である。 その印象はただのわたしの偏見であることは重々承知であったけれどこうも正反対なものか。
「急にここらに都会の匂いがしてきました・・・」 「何言ってんのみょうじさん。まー、東京っていってもここよりちょっと人多いくらいだよ?」 「へぇ・・・行ったことがないもので。ドラマとかニュースでしか知らない世界なんです。」 「へー。俺ってそんなに都会人っぽくない?」 「だ、だって紫原くん、とてものんびりしていて、親切で、正直な方だからてっきりこっちで育ったんだなぁって、思っていて・・・。」 「・・・・・・それ言ってて恥ずかしくないの」 「な、なにか恥ずかしいことがありましたか、今のお話で・・・」 「や、なんでもねーよ」
そう言うと紫原くんは再びご飯に手をつけ始めた。食べる度に美味しい美味しいと言ってくれるので、作った甲斐があったというものである。 彼に吸い込まれるように飲み込まれていく白米やハンバーグを見て居るのはなんだか面白かった。
「紫原くん、付け合わせのお野菜も食べなきゃ駄目です。」 「えー・・・俺野菜嫌い」 「嫌いでもなんでもいいから食べなさい」 「ぶー・・・」 「下味をつけているのできっと美味しいですよ。」 「・・・野菜は総じて不味いんだよ?」 「それは紫原くんの見解です。」 「まぁ、折角みょうじさんが作ってくれたんだし食べるけどね」 「偉いですね。」 「うん」 「・・・・・・紫原くん、」 「なーに?」 「・・・もしかして高校を卒業したらまた、東京へ戻るんですか?」 「うーん・・・まだわかんないけど多分そうじゃね?」 「そ、そう・・・ですか・・・」 「あれ?そしたらみょうじさんと毎日会えなくなる?」 「そうなりますね」 「えっ、」 「・・・・・・」 「・・・みょうじさん大学東京おいでよ」 「い、行きたいです・・・」
離れたくない、強く感じた。
この間と違う感覚だというのはすぐに理解出来た。彼がお店に来てくれなくなってしまうから寂しいのではなく、わたしは彼と離れることを寂しく感じているのだと。
しかし不可思議にも程がある。親しくさせてもらってはいるものの、彼はただの一友人という枠内の人間には他ならない。そんな人物のためだけにわざわざ親元を離れて一人で暮らさなければならない都会へと足を踏み入れるのか?都会には楽しいことがたくさんあるだろう。知らないことも、世界も、人々も、真新しいといえば聞こえはいいが要するに分からないことだらけということで。
それなのに彼が東京へ戻ってしまうならそれに着いて行きたいと思ってしまう理由は、やっぱりそこだけにもやがかかったように分からないのだ。見えないのだ。
「・・・ごちそーさま」 「あ、えっ、はい、」 「ほんとに美味しかったよ。」 「嬉しいです。よかった。」 「ちょっとお願いなんだけどさ」 「はい?」 「たまーにでいいから、これからも作って欲しいんだけど、いい?」 「は、はい!いつだって構いません」 「まじ?やったー」
なんだかんだと言いながら付け合わせの野菜も綺麗にぺろりと平らげてしまった彼は、たまに料理を作って欲しいと頼んで来た。 彼のこちらでの生活に限りがあると知った途端に、これから、とかまた、とか。そんな言葉がじわじわと心に染み込んでくる。そんな言葉が嬉しくてしょうがない。
わたしがふわふわとした気持ちでいると、彼がその場で突然に横になる。どうしたのだ。 彼ほどの巨体であると床に倒れこむだけでどすんと音がするようにすら感じるのだが、これは流石に気のせいだろう。
「ど、どうかしました?」 「眠くなってきた・・・」 「ほんとに子供ですか・・・」 「なんか急に疲れがどっときた」 「あ・・・そっか。お疲れですよね。少し経ったら起こしてあげますから、どうぞお休みになって下さい。」 「みょうじさん」 「はい?」 「ちょっとでいいから、みょうじさんのお膝貸してね。」 「えっ、む、紫原くん・・・!」
彼が突然わたしの膝に自らの頭を乗せてくるので、わたしも必死に解放されようともがいたものの彼のその長い腕で腰を拘束までされてしまってはもう叶わぬ夢だ。微塵も動こうとしない彼はしばらくも経たないうちにすうすうと寝息を立て始めた。 沢山体を動かして、温かいお風呂に入って、ご飯をお腹いっぱい食べればそりゃあ人間誰しも眠くなることだろう。わたしが観念して彼の髪を優しく撫でると、彼は心地良さそうに身を捩らせた。
これではわたしはしばらくお風呂には入れないし、目の前の皿も片付けられない、家の戸締りだってまだ途中だったけれど。 人のしているあくびが移るように、わたしの瞼も重く重くなってくる。
瞼と瞼がくっついて、温かい世界に包まれたようだった。
***
ーーさん、みょうじさん
ふわふわとした意識の中で、妙に焦りの含まれた声がわたしの耳の奥に届いた。わたしは唸るだけで眠りの世界から脱することを拒んだのだが、結局は両肩を掴んで前後に揺すぶられたので、わたしは眠りから顔を出す他なくなってしまう。
ようやく瞼を開けると、そこには紫原くんがいた。
あれ、紫原くんが居るなんて、夢かな。
「・・・夢、?・・・」 「ちょ、みょうじさん・・・」 「むらさきばら、くん・・・」 「っ、もー・・・」 「・・・・・・ん・・・」 「みょうじさーんこっちが現実だから。早く起きろー」 「・・・?・・・あれ?紫原・・・くん?」 「そーだよ」 「なんでここに・・・、あれ?」 「まぁ元凶は俺かー。でもみょうじさんって意外と寝起き悪いね。」 「っ!っえ、あ、忘れて下さい・・・!そ、そっか、紫原くんがわたしの膝をまくらにしちゃって・・・そのままわたしも・・・」 「うん。そう。そうなんだけどさー。」
彼は困ったような顔をして部屋の掛け時計を指差した。 確かわたしと彼が食事を終えたのが10時半過ぎだったか。しかしどうだろうか。今掛け時計の短針は4を越えたところだ。
「嘘!!4時!?朝の!?」 「そーみたい」 「ご、ごめんなさい、わたし少ししたら起こすとか言っておいて自分まで寝てしまって・・・そうだ、寒くはありませんでしたか?」 「それはだいじょーぶ。ってゆーか謝んなら俺でしょ・・・。ごめんね。 」 「いえ・・・床、固かったでしょう・・・」 「みょうじさんの膝が柔らかかったからそれも平気」 「・・・・・・紫原くんなんてキライです。」 「え!?ご、ごめんって!何がいけなかったの今の!!」 「どうせわたしの膝はぷにぷにです」
紫原くんの言葉に拗ねたわたしを彼が必死に取り繕う。別にわたしとてそう怒っているわけではなかったのだが、こんな様子の彼も珍しいのでついついからかってしまった。
早朝とはいえ外はまだまだ真っ暗闇だ。 あと三時間もすれば学校へ向かう準備を始める頃合いだが、つくづく変な時間帯に起きてしまったものである。
「わたし朝ご飯も作りますから、もう少しお休みになっていたらどうですか?」 「・・・そーしたいとこなんだけどさー・・・」 「?」 「朝練、あんだよねー・・・」 「そ、そっか・・・」 「そんで、練習着とか取りに戻んなきゃなんなくて、だから・・・」 「はい」 「そろそろ帰んなきゃ」 「・・・はい」
苦笑して立ち上がった彼と共に立ち上がると、わたしは洗面所へ向かう。濡れた彼のジャージを洗濯して、乾燥機にかけて乾かしていたものを綺麗に畳んでから彼に渡した。ジャージは練習着と違って替えのないものだから非常に助かるのだと感謝されたが、全てわたしが無理矢理やったようなものだ。感謝をされる筋合いがない。
外には雨がまだ降っていたけれど、先程に比べれば随分と小降りだ。使い道のなかったビニール傘を彼に使うように言ってから玄関へと足を進める。暖房の良く効いていたリビングと比べると室内とはいえ玄関は身震いするほど寒い。外の寒さが伺えた。
「じゃあ、いろいろとお世話さまでした」 「なんですか突然改まって。」 「いや、ほんとメーワク掛けちゃったなーと思ってさ。」 「迷惑なことなんか一つもありませんでしたから。またいらして欲しいくらいです。」 「・・・・・・ん」 「そうだ、これ。使って下さい。外は寒いですから。」
そう言ってわたしが差し出したのは毛糸のマフラーだ。白く、長く作られたこれはわたしが普段使って使っているものなのだが、男性が使う分にもそうおかしくないものだろう。冬本番はまだまだこれからなのだけれど、彼が東京から来たのなら尚更用心に越したことはない。
しかし彼はといえば、わたしの手元のマフラーを見つめたまま動かない。ぱちぱちと目を開いたり、閉じたり。動いているのは瞼だけだ。
「・・・あ、これはマフラーと言って、首に巻くと「大丈夫それは流石に分かってる」 「そ、そうですよね、あ、わたしの私物ではあるんですけど男性が使ってもおかしいものじゃありませんから。」 「・・・・・・みょうじ、さん」 「っひゃ、」
不意に強い力で引き寄せられる。急な話で、一体何に引き寄せられたのか理解する迄に時間が掛かった。
わたしは今、紫原くんの腕の中にいる。 端的に言ってしまえば抱き締められている、という表現になるのだが何しろ彼がこんなことをする理由が見当たらない。たまにふとした時に香る彼の匂いが鼻いっぱいに広がった。案外、甘い匂いはしないのだ。
ぎゅう、と更に力を込められて気付いたのは、彼の心音が爆発してしまいそうな程に速いことと、彼の力が強すぎるということ。 骨が軋んだような音が聞こえた。
「・・・っ、む、紫原くん・・・す、少し、痛い・・・」 「っ、ごめん、ごめん、俺・・・」 「い、いえ、あの、っ、あ」 「ごめん、借りる、ね。これ。」 「は、はい、」 「じゃ、また」
彼はわたしが痛みを感じているということを伝えると、目が覚めたかのように突然お互いの体を引き離した。それからすぐに彼はわたしの手元からマフラーを取り去ると逃げるように足早に去って行ってしまう。起きぬけの頭は上手く働かず、ろくに挨拶もできなかった。バタンと閉まったドアの音を聞いた瞬間にようやく頭が働き始める。
玄関にぽつりと一人取り残されたわたしの腕が、背中が、彼に触れられた場所全てが今になってじんじんと熱を持って、先程の行為を鮮明に思い出させる。
抱き締められた、紫原くんに? とても強い、強すぎる力だった。男性って、あんな風に体が大きいんだ。どくどく、心臓が脈を打っていた。
わたしは顔を赤くしてその場に座り込んだ。冷たい床も気にならない。
きつく目を閉じても思い出されるのは。
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