Episode.4 偽りの姉妹 「―――……ありがとう、お姉ちゃん」 ライデンとリアラが急いで病室に駆け込むと、そこにはベッドの上で上体を起こして座る少女の姿があった。 新たなふたつの存在の登場に、少女はゆっくりとこちらを見る。 まるで冬の湖畔のような、また流れゆく氷河のような、ひどく冷たく静かな――淡い、青。 アイスブルー、と称するのが最も似合うその瞳がゆっくりと瞬いて、三人を見つめた。 「ね、ね、ほら!すっごいキレイな瞳……まるでレイヴァーン様みたい!」 はしゃぐようにそういってベッド脇に駆け寄るマーサをよそに、ライデンはその入り口で立ち尽くしていた。 「そんな…バカな。命に関わらないといってもかなりの出血だったんだぞ、こんな短時間で目覚めるはずが……いや、これぞ竜人の成せる技なのか……?」 「あなた、それより診察を…」 「っ、ああ、…そうだな」 傍らに佇んでいた妻の声でようやくはっとしたように顔を上げると、ライデンは弱弱しく微笑んだ。 ゆったりとした足取りでベッドへ近付き、少女の視線より下になるように屈みこむ。 彼はそっと口を開いた。 「お嬢さん。気分はどうだい?どこか痛いとこはない?」 「……ちょっといたいけれど、大丈夫」 「そうか、よかった。じゃあ、君の名前をきいてもいい?」 「……レイ」 「そう、レイちゃん。君のご家族のこととか、わかる?」 「…………」 穏やかな声音でやさしく語りかけるライデンが家族のことを問いかけた途端、ただ無感情に彼を見下ろしていた少女の顔が、きっと強張る。 アイスブルーの瞳が潤み、ゆらゆらと揺れた。 「わからない、わからないの。…名前いがい、なにも、わからないの」 ライデンはそっと顔を伏せ、リアラは呆然と立ち尽くし、マーサは目を見開いた。 レイと名乗った少女は、記憶喪失に陥っていたのである。 黙ってしまった周囲の人々を前にレイは困り果て、つう、と涙を一筋流した。 「ごめん、ごめんなさい。きっとわたしはここにいちゃいけないんだわ。なんにもわからないんだもの。どこかちがう場所へかえるから、だからどうか、かなしい顔をしないで」 少女が縺れる舌で必死に紡ぐ。 何もいわない者たちを、レイは自分の存在があることで悲しんでいると思い込んだのだ。 それ自体がひどく悲しいことだった。 「っちがうわ、悲しい顔なのはあなたのほうよ!」 それまでじっとレイを見つめることしかできなかったマーサが飛び起き、少女の手をとってぎゅっと握る。 レイは驚いて目の前の見知らぬ少女の翡翠の瞳をじっと見返した。 「何も困ることなんてないわ。ここの人たちはね、みんな優しいのよ!だからあなたがいたっていいの、ぜんぜんいいの!ねえおじさんおばさん、そうでしょう?ずっとなんていわないわ、せめてこの子…レイの記憶が戻って、帰る場所が見つかるまで、ここにおいてあげたっていいでしょう!?」 ばっ、と振り向いたマーサの初めて見る鬼気迫る表情に、二人は言葉を失った。 ここで掟に従えば記憶のない少女を外界へ放り出すことになってしまうし、マーサの願いに反する。 だからといって狭間だけでできたこの島に、異種をいれるわけにもいかないのだ。 すべては掟とそれを司る島長が決める。 せめて聞いてからと、ライデンが口を開きかけたその時―――― 「ほう、招かれざる客とは竜のことであったか。これは珍しい」 カツン、カツンという硬質的な音とともに、背後からしゃがれた声がかかった。 ライデンとリアラが驚いて背後を向く。 するとそこには、ひどく背のまがった小柄な影がいた。 「おばば様…」 「お母様!」 二人が同時に声を上げる。 そこにいたのは、リアラとマーズの母、そしてこの島の長たる老婆ロイン・リウィッツであった。 白髪が混じりほぼ薄紅になった赤毛、深く刻まれた皺の奥の紅い瞳はするどい眼光を放ち、黒いローブを深く被って杖を突き歩く姿はまさしく魔女のそれである。 「島に不可思議な気配が入ってきたのがわかっての、それを追ってここまで来てみたらこの様じゃ。さすがのわしでも竜は初めて見る…」 杖を突きながらもしっかりした足取りでベッドに向かったロインの、浅黒い枝のような手がレイの白い頬へ伸びる。 レイはぴくり、と身を震わせるが、その紅眼に捕らえられて動くことができない。 「マーサ。おぬしはこの娘に、ここにいてほしいのだな?」 「え?あ、はい!お世話はわたしがちゃんとします!だからおばあ様お願い、レイを…っ」 「そうか、レイというのかおぬしは……」 隣でいまだレイの手を握ったままのマーサに確認するように問いかければ、返ってきたのは予想通りの言葉だったのだろう、最後まで聞かずにロインはレイの頬をなでる。 するとレイの瞳がすっと閉じて、ロインに身を任せるかたちになった。 ロインもおなじように目を閉じる。 ゴォ、と、ロインの足元から大きな風が舞い起こった。 風は紅色を成してロインを取り巻き、次いでレイを囲むように移動する。 レイに触れた風は瑠璃色へと変化して、まばゆい光となって散華しあたりへ消えていった。 突然のことに驚いて目を見開く三人の前に現れたレイの姿は、先ほどと異なっていた。 「角と耳が、ない――?」 リアラがつぶやく。 そのとおり、今のレイには竜人の証とも呼ぶべき角と、変わったかたちをした耳がなかったのだ。 正確にいえば耳はなくなったのではなく、人間と同じものに変わっているのである。 「この娘、背に傷を負ったことで――おそらくは、記憶とともに変化の力を失っておる。中途半端な半竜化が何よりの証じゃ」 ロインは、ゆっくりと話し始めた。 レイは自分の頭部に異変が起こったことに気付いているのだろう、しかし特に何をするわけでもなく、警戒もなしにじっと老婆の話を聞いている。 「このままにしておけば、完全な身体を求めて力が傷をふさごうと躍起になり、結果傷が塞がると同時にすべての力を失うこととなろう。ゆえに今、娘に封を施した。人の姿にとどめておくための封じゃ。これならば、よほどのことがなければ周囲に竜人だと知れることはあるまい」 ロインの手がレイの細い肩にそっと触れ、軽く押す。 意思を汲み取ったレイがくるりと背を向けると、そこには、先ほどの風で解けたのだろう包帯の隙間から覗く深い傷跡を隠すように、淡く発光する瑠璃色の刻印が浮かんでいた。 ライデンが問いかける。 「おばば様、それは?」 「封の紋じゃ。しばらくすれば消えるが、水に触れればまた浮かび上がるようになっとる」 彼の問いに答えたロインがくるりと身体の向きを変え、マーサへと向き直った。 紅い瞳に真正面から見つめられ、自然と身体が強張る。 「マーサ」 「っ、はい」 「おぬし、この娘の世話を見、守ることができるか?」 「もちろんですっ」 「………そうか」 大きく頷く孫娘の姿に満足したように、干からびた老婆の唇がそっと弧をえがいた。 「では、―――この娘、レイの入島を認めよう」 「っ、お母様!」 「案ずるなリアラ、このことはわしが直々に島民へ説明するし、外部にはヒューマノイドとして伝えればいい。そのために人の姿に縛り付けたのだから。マーズは掟には反抗的だし帝国で騎士として多くの多種と交わったこともある、嫌がりはすまい。ライデンも、記憶も身よりもない少女を放り出すのは心苦しいであろう?」 「…ええ」 「―――それに、」 ロインがレイのもとを離れ、カツカツと二人のもとへ歩み寄る。 そして二人にかがむように指示すると、近付いた耳元へそっと囁いた。 「―――もし竜の力が軍に渡れば、かの娘の力は必ず悪用されるであろう。となればどうなるか、おぬしらならわかるな?」 ロインがそう耳打ちした言葉に、あらためて小さな少女の種族の強大さと恐ろしさを知った。 遥か昔に滅びた最強の種族、竜人。 軍は華奢な身体に秘められた力を利用しようとし、少女は酷い目に遭うだろう。 そしてもしその力が戦争の道具として使われるようなことがあれば、それはこの世界の破滅を意味する。 ここで外界からの侵入を拒むピーズフルートが保護しなければ――それは決して、ありえなくはない未来だ。 リアラとライデンは同時に顔を上げた。 ベッド脇でこちらを伺うマーサに向けて、小さく微笑む。 マーサはパァと顔を輝かせ、レイの手を握る手に力をこめてぴょんぴょんと跳ね始めた。 「よかったねっ、よかったねレイ!!これでわたしたち姉妹よっ」 「…し、まい…?」 「そう、姉妹よ!わたしがお姉さんで、レイが妹。お姉ちゃんが守ってあげるからね!これからはずーっと一緒よ!」 きょとん、とした表情でマーサを見つめていたレイが、ふっと愛らしく微笑んだ。 「―――……ありがとう、お姉ちゃん」 その日、レイはマーサの妹となり、ピーズフルートでヒューマノイドとして生きることになったのだった。 |